030 圧し折れた後で
黒い穴が見える。ただただ暗い、小さな真円。それが都合11個。その全てがこちらを向いている。
闇のような暗黒の世界でも、それが何かはすぐに分かった。
銃。
引き金を引く指と、グリップを握る掌と、砲口を向ける腕と、狙いをつける目。
それだけあれば人を殺せる、対人武装の極致。速く走れるよう何年もかけて鍛え上げたカナタの身体能力など、誤差の範囲にも入らない速力差。発射の瞬間に射線上に居れば、ただそれだけで終わる。
そんな死の顕現が、目前に突きつけられていた。
その向こうにあるのは“眼”。闇の中に22の眼球が浮かびあがり、その全てが殺意を叩きつけてくる。
あまりの恐怖に、カナタは震え上がった。身が竦み、金縛りにあったかのように指先一つ動かせない。目は見開かれ、震えて歯を打ち鳴らし、頬は限界まで歪められていた。
引き金を引き絞る音がする。金属を擦るような甲高い音。
その後を、火薬の爆ぜる音が追随した。
思わず目を瞑る。しかし痛みは無い。衝撃も無い。恐る恐る目を開けると、目の前には変わらず銃口があった。
しかし、その口からは硝煙が立ち上っている。
弾はどこにと、そう思ったところで、後ろから誰かの倒れる音がした。荒くなった自身の呼吸の合間、そこに微かな声が差し込まれる。
カナタは、その声を毎日毎日聞いていた。朝起きて“おはよう”の挨拶をして、学校に行くときは“行ってらっしゃい”。日が暮れて帰宅して“お帰り”。食事をすれば“いただきます”と"ごちそうさま"。風呂を済ませて、勉強を教わって、その日あったことを話して、時々喧嘩して。
そして、寝る前には“おやすみ”って、そう言ってから布団に入るんだ。
そんな、父と、母と、姉の声。
それが今は、呻き、泣き、咽びながら、何かを呟いていた。
堪らず振り返る。
血を吐き、脳漿を垂れ流し、涙と吐瀉物に塗れた家族の姿がそこにあった。
彼らは皆一様に、憤怒に塗り潰された表情で、カナタを睨みつけている。その様に、カナタは思わず身を震わせた。
目線を合わせたせいか、彼らの悪意が音量を上げる。耳に届く。
それはカナタの鼓膜から脳髄に至り、全身を痺れさせ。
そして、心を圧し折った。
「 お前なんか、生まれてこなければ良かった 」
言葉の意味を理解したカナタは、思わずへたり込んで後ずさった。しかし、ほどなくして何かに当たり、その進みを止める。
慌てて振り返ったカナタの眼に、15歳の少女と10歳の少年の、凄惨に過ぎる姿が映った。
どちらも、その目はくり抜かれていた。指は全て折れ、四肢はあらぬ方向へ曲がり、耳がそぎ落とされている。
そんな様でも、目があった筈の伽藍洞が4つ、カナタを捉えて離さない。
喉を引きつらせながらその二人から目を離せなくなったカナタは、不意に声を聴いた。
微かな、ささやかな、そして痛烈な恨み言。
「 死ぬのなら、一人で死んでよ 」
歯もなく、舌もない。そんな口とも呼べないような赤黒い穴から漏れ出たそれに、カナタの眼から涙が零れた。
同時、カナタは自分の体の異変に気付く。
涙以外、何かの液体が顔を伝っていた。額から鼻梁を避け、口の脇を通り顎へと伝う。目からも、耳からも。肺に心臓、腹、肩、太もも。体中のあちこちから、生暖かい何かが流れている。
ふいに額を触った。そこには穴が開いていた。眉間にも、心臓にも。触れば触るほど、どこもかしこ穴だらけ。その全てから、赤い液体が零れ落ちている。
全ての神経を逆なでするその気持ち悪さに耐えきれず、
カナタは、悲鳴を上げた。
◆
「うわぁぁぁぁあああああああっ!!!!」
「カナタ!?」
タオルケットを跳ね飛ばしながら、カナタが勢いよく上体を起こした。目を見開き、荒い息をついて、体中を弄っている。
そんな狂気的な様相に、魘されるカナタの汗を拭いていたサナが、手にしていたタオルを取り落とした。驚いて声を上げるも、カナタの耳に入っている様子はない。
慌てたサナは、横からカナタの両肩を掴んで、無理やり目線を合わせた。
「落ち着いてカナタ!大丈夫!大丈夫だから!!」
「…あ…。サ…ナ…?」
荒い息をついてその目を覗き込んだカナタは、目を震わせながら彼女の名を呼んだ。その瞬間、カナタは全身を硬直させ、僅かな間を置き脱力した。呼吸の乱れも震える体も抑えられないまま、片手で額を抑えて俯く。
その様子に、どうにか小康状態に入ったと判断したサナが、ほっと息を吐きだしてキッチンを見た。
「オミ。お茶持ってきて」
「うん」
サナの指示に、すぐさま応答の声が上がる。ほどなくして、コップを持ったオミが和室に入ってきた。
「カナタ。ほら飲んで」
「オ…ミ…」
カナタの正面にしゃがんでコップを差し出したオミ。その顔を見たカナタは、頬を引きつらせて掠れた声を上げる。伸ばされたカナタの手は、差し出されたコップを通り過ぎ、震えながらオミの頬に触れた。
「カナタ、コップこっちだよ?」
「…ある」
「何が?」
「目と耳」
「怖いこと言うのやめてくれる!?」
有る筈のものがちゃんと有る。不意に零れたカナタの呟きに、オミは肌を粟立たせ思わず叫んだ。
その様子に、カナタは夢と現実の境目をようやく認識した。一つ息を吐いて気を落ち着ける。
「あり、がとう」
カナタは詰まりながらも礼を言って、コップを受け取りカラカラの口の中を潤した。お茶を飲み干すと、次いでサナへと目を向ける。
二人の視線がしばし交錯。カナタの左横で畳に手をついて身を乗り出していたサナが、おずおずと口を開いた。
「…落ち着いた?カナタ」
「…ない」
「何が?」
「おっぱい」
「引っ叩くわよ?」
間髪入れず返ってきたサナの突っ込みに、自分の心が急速に安らいだのをカナタは自覚した。少年の顔に、柔らかな笑みが浮く。
そんな顔されたら怒るに怒れないじゃない、と、サナは眉をハの字にして狼狽えた。次いで目を伏せ、大きく息を吐く。
そんなサナの百面相を見ながら、カナタは昨日何があったかを思い返していた。
這う這うの体でアパートに帰りつき、二人に迎えられ、シャワーを浴び、サナの手料理に涙した。そこまでは覚えている。だが、その後の記憶が全くない。
「昨日、俺は帰ってきて飯食って、えーっと、それから…」
「食べ終わった瞬間に眠ったわよ」
「気を失ったって言う方がしっくりくるけどね」
「…そう、か…」
そう言ってカナタは壁の時計に目を向けた。その針は6時過ぎを指してる。
「…朝?」
「ううん。夕方」
「夕方!?」
サナの合いの手に、カナタは思わず窓から外を見た。薄暗さは早朝と同様だが、確かに陽の向きが違う。
「初めてここに来た日に近い疲労具合だったもの。しょうがないわよ」
「あー…」
サナのセリフに、カナタは昨日の自分の状態を思い出した。確かに、人生で最も極限まで走ったと思う。陽が沈む前の時点で、すでに立ち上がることすらままならなかった。水分もロクに補給できず、そのままアパートを探して4時間ほど彷徨ったのだ。
帰り着いた直後に気が緩んだことも覚えていた。良く食事まで意識を保てたものだと感心する。ここ数日で過酷な状況に慣れてきた自分に呆れてしまった。
僅かに上を向き、半目で自嘲の笑みを浮かべるカナタ。その様を見て、カナタの中で整理がついたことを悟ったサナは、乗り出していた身を引き戻し、改めて口を開く。
「それでカナタ。銃で撃たれるなんて一体何したのよ?」
「いや、ちょっとヤバい現場を目撃し………」
普通に答えそうになったカナタは、自分が何を言われたのかを遅れて理解した。その表情のまま凍り付き、油の切れた機械のように、ぎこちなく左へ首を回す。
カナタの揺れる眼と、真剣なサナの眼が真っ向からかち合った。
「ヤバい現場って、何?」
正座し背筋を伸ばしたサナが、目を合わせたまま、カナタを取り巻く状況の核心に触れた。




