029 生還に咽ぶ
姉弟二人きりのアパートの和室。先週までは当たり前だったその静寂が、二人はどうしても落ち着かなかった。この部屋は、こんなに居心地の悪い場所だっただろうかと、疑問に思う。
ただ、その原因ははっきりしていた。
余計な事ばかり言って、気持ち悪いくらい汗をかくのが好きで、スケベなことを口走っては変態だのバカだのと罵られる少年。
その彼が、帰ってこない。
時刻は既に22時を回っていた。カナタがここを出てから、既に14時間が経過している。
座卓の定位置で、サナは泣きそうな程に眉を寄せ、口を引き結んでいた。組んだ両手は口元に寄せられている。
そんな姉を背に、和室とキッチンの境目で、オミはじっと玄関を見つめていた。その目元は苦し気に細められ、サナと同じく眉間には皺が寄っている。
重苦しい空気が満ちる中、サナがぽつりと呟いた。
「…出て行っちゃったのかしら…。カナタ…」
「そんなことあるわけない!そんな…こと…っ!」
とっさに反論したものの、オミの口は尻すぼみになる。思わず振り返った和室。すぐそこに居る姉の背中越しに、座卓が見えた。
その上には、ラップをかけられたローストビーフがある。汗だくで帰ってくるであろうカナタのためにと、サナが少し奮発したのだ。レタスとパセリ、プチトマトで彩られ、お手製の和風ソースが傍に添えられている。質素な暮らしが板についたこの家では非常に珍しい、鮮やかで贅沢な夕食だった。
それが、今は虚しく浮いていた。
空気が重い。二人して歯を食いしばり、ただ一人の少年を想う。
サナは、昨日の夜からそれを懸念していた。飄々(ひょうひょう)としながらも、どこか儚い印象が付きまとう少年。するりと懐に入り込んできたくせに、その素性はようとして知れない。何かきっかけがあれば、きっと居なくなってしまう。サナは、そんな懼れを抱いていた。思えば、朝に感じたカナタのおかしな態度は、その前兆だったのかもしれない。
卓上についている肘のすぐ横。そこに置かれたカナタの携帯に、サナは視線を落とした。この家にカナタが持ち込んだものは、今やこれしかない。他のものは全て、今朝方カナタが持って出掛けていったのだ。
彼の存在の痕跡が、この部屋にはあまりにも少なかった。
不意に、外から救急車のサイレンが聞こえてきた。徐々に近づいて来た音は、アパートの前を通り、音の高さを変えてすぐさま通り過ぎて行く。秒毎に小さくなる音。さして間を置かず、やがて聞こえなくなった。
音の発信源を無意識に見送った二人は、過った可能性に、視線を元に戻す。
「帰ってしまっただけなら良い…。ううん、良くは無いけど最悪でもない…」
「姉ちゃん…」
そう言ってサナは、両手で顔を覆った。
「お願い…、無事でいて…っ」
「…っ」
その言葉は、オミの胸を最も締め付けた。
屋上から駆け降りる動画と、神社で見せた奇天烈な機動。それを当たり前のように熟すカナタ。その悠然とした姿に魅せられて、パルクールという技の危険性を全く認識していなかった。
自身が垣間見たその片鱗は、一つ間違うだけで死にかねない代物ではなかったか。
サナはサナで、自分の浅はかさを責めていた。
カナタ自身は、その能力を誇示も自慢もしない。だからこそ、カナタにとってパルクールという趣味は特筆に値しない日常の一幕なのだと、そう思ってしまっていたのだ。
だが、サナはカナタの口から直接聞かされていた。
“鈍れば死ぬ”と。
冗談でも何でもなかった。その言葉は、真実それ以外の意味など無かったのだ。
「カナタ…っ」
マゾだなんて、気軽にふざけていい話ではない。そう言って馬鹿にしてしまったことを、サナは凄まじく後悔していた。
そんなサナの様子に、オミは再び姉の背へと視線を向けた。
その肩を震わせ、その声を震わせ、より一層縮こまる背中。その向こうにある首は、深く、深く沈んでいた。
「…ごめんなさ」
サナが、ここにはいない少年へ謝ろうとした瞬間、何かがドアにぶつかる音を聞いた。
二人は慌てて、音の方へと体ごと振り向いた。すぐにノブが回って玄関が開き。
待ちわびた少年が、その姿を現した。
「「カナ…っ!!」」
その名を呼ぼうとしたにも拘らず。
その姿を求めていたにも拘らず。
姉弟は揃って、その口を凍り付かせた。
滴る汗。荒い息。震える四肢。揺れる体幹。
恐怖に、惑う眼。
出掛けと同じ白いTシャツに紺色のGパン姿。背中には黒いナップサックもある。そこに居るのは確かにカナタだ。
だというのに、自分たちの知る少年の姿は、どこにもなかった。
呆けている間に、カナタが膝をつく。その拍子に散った汗の量が、尋常ではない。その音で、二人はようやく我に返った。
「カナタ!!」
「ちょっと、大丈夫!?」
ようやく玄関まで駆け寄った二人は、慌てて声をかける。そんな姉弟に視線を向けることすらなく、カナタはどうにか靴紐を解いた後、壁伝いにフラフラと立ち上がった。
「だい…じょうぶ…」
「どこがよ!!?真っ青じゃない!!!」
「う、動かない方が…」
サナが強く制止し、オミはオロオロと戸惑った。
支えが無ければ歩くことすらままならない様。壁にもたれてなお膝が笑っている。目は虚ろで焦点すら合わず、顔は青褪めていた。誰がどう見ても大丈夫ではない。
その様子に、オミは昨日のカナタの様子を思い返していた。
凄まじいペースで、とんでもない距離を走った。呼吸を荒げ、汗を散らせ、なのに立ち止まる気配すらない。途中でへばったオミの自転車を押しながら、なお10キロ以上は走り続けた。日が暮れた頃に帰り着いた和室でへたり込んで「お腹空いた」なんて笑っていた彼。
(…違う!昨日の比じゃない…っ!!)
言葉を発することすらままならないその消耗具合に、オミは戦慄する。昨日の鍛錬内容ですらオミにとっては理解できない苦行だったが、それでもカナタにはまだ余裕があった。そんな体力お化けがこの有様だ。
いったいどれほど心身を削ってきたのか、オミには想像もつかなかった。
そんな二人を一瞥すらせず、カナタは浴室に向かってノロノロと歩き出す。
「シャワー…、浴びてくる…」
「カナタ!!」
二人と一度も目を合わせないまま、カナタは洗面所へと消えていった。それを見送るしかなかったサナとオミは、板間のキッチンで呆然と立ち尽くす。
「…一体、何をやってきたのさ…、カナタ」
オミが呟いた一言をきっかけに、我に返ったサナが慌てて動き出す。
「着替えっ…それとバスタオルっ」
和室に戻り箪笥から体操服と下着を取り出すと、すぐさま洗面所へ持って行った。曇りガラス越しに、打ち付ける水音を聞く。
「カナタ!着替えとタオル置いておくから!」
「…ぁぁ」
「それと浴びるなら水にしておいて!それ以上汗かいちゃだめよ!!」
「…ぉぅ」
微かな返事があったことに安堵しながら、サナは次いでドリンクの用意にかかった。朝渡したペットボトルは、ほんの数時間で帰ってくることを想定していたものだ。お金も持たせていない。どこかで水分補給ができたとは考えにくかった。
(水やお茶じゃ駄目…!できれば塩分も!)
そう考えたサナは、今日買ったばかりの粉末スポーツドリンクを水に溶かした。塩は食事でとった方がいいと、カナタのご飯用に胡麻塩のふりかけを用意する。
そんな慌ただしい姉とは真逆。現状に混乱し動けなかったオミは、カナタが取り落としたナップサックから、ゴーグルとカメラが零れているのを見つけた。無造作に突っ込んだのだろう。汗でビタビタの服と絡まっている。
オミは吸い寄せられるように、そのカメラを手に取った。丁寧にゴーグルと服からはがし、中にSDカードが入っていることを確認する。
その時、カナタが風呂場から出てくる音がした。オミは慌てて、そのカメラをポケットに突っ込む。
ほどなくして洗面所から出てきたカナタに、サナが駆け寄った。
「カナタ!これ飲んで!」
「ああ、ありがとう…」
そう言ってサナから手渡された大きめのグラスに口をつけ、カナタはゆっくりスポーツドリンクを喉へ流し込んだ。憔悴しきった表情は変わらないが、思いの外きちんと会話になる少年に、サナは少し安堵する。その背中に手を添えて、和室まで支えた。
「ご飯は?食べれそう?」
「ご、はん?」
スポーツドリンクを半ばまで飲み干したカナタは、一息入れつつ座卓の上を見る。
そこにあるサナの料理を見て、微かに笑った。
「ははっ…。天国かよ…」
嬉しそうに、悔しそうに、申し訳なさそうに。
とても、とても複雑な表情で、カナタは虚ろに笑って言った。
普段の様子からは信じられないくらい弱々しい表情。そんなカナタの様子に、サナは泣きそうになりながらカナタを座らせ、いまだ水の滴るカナタの頭を後ろから拭き直した。
ひとしきり水気を払うと、サナはローストビーフのラップを外し、米とお吸い物をよそって持ってくる。
その間に定位置についたオミは、横からカナタの眼を覗き込む。力のないその光に、より一層不安が募り、思わず口を開いた。
「…ホントに大丈夫?カナタ…」
「…大丈夫。お前らの顔見たら元気出たよ…」
そう言ってカナタは、儚く笑ってオミの頭を撫でた。その言葉は嬉しいものの、オミの表情が晴れることはなかった。
「カナタのご飯、ふりかけが掛けてあるから」
「サンキュ」
目の前に置かれた茶碗と箸をみて、いただきますと、カナタは呟いた。
この二人の前では普通でいよう。そう考えていたカナタだったが、披露困憊のまま何十kmも歩いた直後では、さすがに体も表情もその見栄に付いてこなかった。昼間にその身へ叩きこまれた恐怖も、全く和らいでいない。
どんなに儚く、痛々しいものでも、笑顔が浮かべられただけマシだった。
「ああ、もう。…うめぇなぁ…っ」
そう言ったカナタの頬に、一滴の涙が零れた。
その後は終始無言のまま、カナタは震える箸で次々と食事を口に運んだ。時折目元を拭い、スポーツドリンクを煽る。
どうにか食べ終わったカナタは、ごちそうさまの声と同時。
そのまま崩れ落ちて、眠りについた。
その様子を、サナとオミはほとんど食事に口をつけられないまま見守った。オミがカナタの食器を片付け、サナはカナタの横で座りその額を撫でている。
食器を流しに入れ水につけた後、和室に戻ったオミは、そんな二人を眺めながら立ち尽くした。
「…ただごとじゃ、無いよね?」
「…そうね…」
ぽつりとつぶやいたオミに、サナが同意する。
初めてカナタをこの部屋に連れてきた時も、似たような状況だった。一昼夜をかけ、ロッカーを探し歩き回ったというあの日。カナタは一人で歩けないほど消耗していた。それに比べれば、独力で帰還し、シャワーを浴びて食事までできた今日は、まだ大丈夫な方だと言えるのかもしれない。
だが、問題はそこではなく、何も取り繕えないほど憔悴しきった精神の方だった。
「…こないだより、ずっと酷い…」
姉が不意に零した呟きを聞いて、オミも思い出した。
初めてカナタを泊めた夜。理由を問い質したオミに対し、サナはこう言ったのだ。
"死にそうだったから"
オミは今初めて、その言葉を理解した。確かに、これは死にそうだ。放っておけるわけがない。いや、真実放って置いたら間違いなく死ぬだろう。そう確信できるほどに、今のカナタは消耗しきっていた。
オミは、ふいにポケットの中の存在を思い出す。それを取り出し、視線を落として掌の中に納まる小さなカメラを見た。
――その原因が、この中にあるかもしれない。
カナタがパルクールに興じる様を、オミは直に見ていた。ほんのわずかな時間ではあったが、その時のカナタは、本当に楽しそうだったのだ。内から弾けるような笑顔が、印象深く目に焼き付いている。
ただパルクールをしただけで、あんな仄暗い目になるはずがない。
「姉ちゃん」
「何?」
横たわるカナタの傍でその手を握っていたサナが、かけられた声に顔を上げた。その姉の眼を、真剣な顔でオミが見つめ返す。
「カナタが撮ってきた動画を、確認しようと思う」
その言葉に、サナが息を飲んだ。オミの手に握られたカナタのカメラに視線を移し、数秒逡巡したサナ。それをした後のカナタの反応を思い、眉根を寄せた。
「…本人の同意なく見るのは…」
「聞いたらカナタは答えてくれると思う?素直に見せてくれると思う?」
「…」
サナは、目を逸らしたまま歯を食いしばる。"思わない"と、サナもそう結論付けたからだ。
カナタは意外と頑固で、妙に秘密主義だ。変なことは聞いてもいないのに暴露するくせに、肝心なことはその実何も聞けていない。
今だってそうだった。何も語らず、目すら合わせない。その様は、明確な拒絶だった。
"話さない"と、そう定めた態度だったのだ。
昨日までとあまりにも違い過ぎるその様に、サナも危機感を募らせていた。踏み込み過ぎるとか、カナタが出て行くとか、そんな弱気なことを言っていられる状況ではない。
ここで知っておかなければ、それこそカナタは一人きりで何処かへ行ってしまう。
そんな気がした。
決心したサナは一つ頷くと、気を失ったカナタの頬を一撫でして立ち上がる。
「見よう。その動画」
頷いたオミが、カメラからSDカードを取り出し、タブレットへ差し込む。
眠るカナタの邪魔にならぬよう、姉弟は二人並んで奥間へ向かったのだった。
「…姉ちゃん。明日、休める?」
「…日中は無理。今からじゃ、代わりが探せない」
日付が変わってから1時間ほど。
動画を見終えた後、二人は微動だに出来なかった。再生が終わり静止したタブレットの画面から目を離せないまま、ぽつぽつと明日の相談を重ねる。
「…夕方でいいよ。多分、カナタは起きてこれないから」
「…そうね。でも、その程度で済んで、ホントに良かったわ…」
垣間見た、カナタを苛む暴力の闇。
魅せつけられた、掛け値なしのカナタの本気。
サナは、俯いて肩を震わせ、かすれた声で言った。
「よく…怪我もなく帰って来れたわよね…。カナタ…」
サナのその言に、オミも目を伏せる。
カナタは、心身ともにボロボロだった。
信じられないルートを、信じられない長時間、信じられない速度で駆け抜けた。いや、駆け抜けざるを得なかった。途中からは、ただ只管に、カナタが泣きながら屋上を渡り続けるだけの動画だったのだ。
止まれば死ぬ。その一念で全ての力を振り絞ったのだろう。
"誰か助けて"
最後に零れたカナタの本音が、二人は耳から離れなかった。
 




