028 心に巣食う毒
日が傾き始めた頃、サナはオミに留守番を任せ、エコバッグを持って出かけていた。ボケっとしてても仕方ない。そう思い至ったサナは買い物に向かっていたのだ。
パルクールに興じると言えば聞こえはいいが、それが相当の体力を使うものだという事は簡単に想像がつく。だからこそ、帰ってきたカナタが少しでも回復できるよう準備しておこうと、サナは行きつけのスーパーマーケットへ足を延ばしたのだ。
入り口脇にあるボックス型のATMで記帳した後、入金された額を見ながら予算を決める。
優先すべきは飲み物。脱水症状や熱中症は真夏に差し掛かる今が一番怖い。それに備えるため、まずはスポーツドリンクを物色する。
(ペットボトルより粉末の方がグラム単価は安いのね…)
一瞬でそう計算したサナは、躊躇いなく粉末を籠へと放り込んだ。
(塩分も欲しいかな。とはいえ、ただの塩は家にあるし…。あ、ふりかけ。胡麻塩なら丁度いいかも)
次いでサナは乾物コーナーへ向かう。目的のものをすぐに見つけ、2袋手に取った。ナトリウム不足は痙攣につながる。備えておいて損はないと、サナは一つ頷く。
(夕飯も用意しないと。トレーニング後はタンパク質よね。…牛肉の方が喜ぶかしら。あ、ブロック肉安い)
そう考えながら、精肉コーナーを物色する。思考のほぼ全てがカナタで占められていることに、サナは自覚がない。気にかけていることはマネージャーやトレーナーのそれだが、結論がほぼほぼ主婦だった。オミがその思考を知れば「母親か」と突っ込んでいただろう。
付け合わせの野菜を見ながら、サナは不意に思考に耽 (ふけ)る。その脳裏には、今朝のカナタの違和感がよぎっていた。
何かに怯え、何かに悩み、何も相談してくれないまま結論を出したのだろう、決意に満ちた顔。サナは、それが堪らなく不安だった。この買い物は、その不安から目を逸らすための物でもある。家でじっとしていても良くない方にばかり思考が流れてしまうのだ。
だが、いざ買い物に来ても、時折考えてしまうそれからは逃れられなかったらしい。
「…帰ってくるわよね。カナタ…」
小声で呟くサナの顔は、苦悶に満ちていた。
◆
「…どこだよ、ここ…っ!」
日の暮れた東京の街。何処ぞの繁華街で、カナタはまたもや迷っていた。
仕事帰りのサラリーマンたちが、あちこちで酒を煽って楽し気に笑っている。その様が、カナタはいちいち癪に障った。何せ自分は、日の高いうちに屋上で飲んだスポーツドリンクを最後に、ただの一滴も水分を口にしていないのだ。八つ当たりと分かってはいるが、湧き上がる感情を抑えることが出来なかった。
「週中から飲んだくれやがって…」
そう悪態をつきつつ、死んだ魚のような目をせわしなく巡らせた。カナタは今、見覚えのある風景を探しているのだ。
数時間前。決意を固めた屋上で、カナタは日が暮れるのを待った。体力が完全に尽きていたこともあるが、それ以上に着替えを見られるわけにはいかなかったからだ。屋上で着替える手もあったが、そうなると今度は普段着で屋上から降りる姿を目撃される可能性がある。結果、日が暮れた後に屋上から人気のない場所を探し、極力誰にも見られないよう地上に降りてから、見つけた路地裏で手早く着替えたのだ。
そこで次の問題にぶち当たる。現在地が分からないのだ。携帯もサナに預けたままで、GPSで調べることすらできなかった。仕方なく、カナタは見覚えのある場所を探して歩き回ることになる。
「あれ?…ここ…」
不意に、目に映った景色にデジャブを感じた。
それは駅だった。昼夜の差で色味こそ違うが、ロッカーを探して歩き回った線路沿い、その途中で見た建物に印象が近い。駅名にも見覚えがある。フラフラと高架下をくぐり、線路の反対側に出ると、それは確信になった。
「やっ…た。ここからなら、帰れる…」
そう言いながら、電柱に上体を預けた。
目処がたったとは言え、まだまだ先は長い。ここから10km近くは歩くことになるはずだ。二人の待つアパートがある方角へと目線を向ける。しかし、震える足が、中々一歩を踏み出してくれない。カナタは思わず歯噛みする。
それも仕方がなかった。奴らから逃げ切った時点で、体力は限界を超えていたのだ。既にその目は虚ろ。息は荒く、顔は青褪め、眩暈が収まらない。酸素は休憩すればいくらでも補給できる。だが、水分はどうしたってそうはいかない。そのうえ金もないのだ。最早、サナとオミの下へ帰り着けるかどうかすら分からなかった。
「自販機の下に、小銭…、落ちてねぇかなぁ…」
そんな状況にここ数日で慣れてしまったカナタは、絶望的な体調ながらも精神的には妙な余裕があった。プライドの欠片もないセリフが自然と口をついて出る。ただし、体力的に限界であることには変わりない。冗談のような物言いながら、内心は割と本気だった。
「ネコババは遺失物横領罪という立派な犯罪だぞ、少年」
完全に独り言のつもりだったそれに、不意に第三者の声が応えた。背筋に怖気が走る。
慌てて振り向いたカナタは、目に映った人間を睨みつけ。
思わず悲鳴を上げそうになった。
鋭い三白眼。重力に逆らうリーゼント。細身ではあるが180cmを優に超える引き締まった体躯。長過ぎる下睫毛。恰好こそスーツだったが、まさに昭和のヤンキーを絵にかいたような大男がそこにいた。
見た目が濃すぎて冷や汗が吹き出る。なけなしの水分をくだらないことで消費させられ、カナタは内心で苛立った。
「ああ、すまん。フラフラと危なっかしいのでな。思わず声をかけてしまった」
眼を震わせて頬を引きつらせたカナタの様に、男はすぐに謝罪した。ついで少年の全身を眺め、徐に眉をしかめる。
「熱中症のように見える。救急車を呼んだ方がいいぞ」
「…お気遣いどーも…。けど、家がすぐそこなもんで…」
自身の容姿が怖がられるものであると自覚があったのだろう。気を悪くした様子も無く、男は配慮の言葉を続ける。それに対し、カナタの態度は素っ気なかった。
それも致し方なし。カナタは、大人を信用できなくなっていたのだ。どいつもこいつも、奴らの仲間に見えて仕方がない。特に、目の前の男は容姿が容姿だ。どうしたってヤクザの姿がチラついてしまい、警戒せざるを得なかった。
「そうか。飲み物は持っているか?」
「あったらとっくに飲んでるよ…っ」
「それもそうだ」
男は、そんなカナタの様子に頓着せず、徐に近づいて来る。一方カナタは、震える脚で後ずさりながら、不自然にならないよう、どうにか応じた。
その様子に、男は顎を撫で、僅かに思案する。
「少しそこで待っていたまえ」
そう言って、男は交差点斜向いのコンビニへと向かう。急いでいるようには見えないのに、足が長いせいか歩行速度はかなり速かった。やさぐれた今のカナタにとっては、背が高いことすら腹立たしい。
「…待つわけねーっての…」
それを尻目に、カナタはどうにか歩き出した。しかし、その歩みは亀以下だ。逃げ切れる道理がなかった。
「待てと言っただろうが」
「…っ」
数分足らずで簡単に追いつかれる。しつこいと振り向いたカナタの前に、男の手が突き出された。その手には、白いビニール袋が握られ、中にはペットボトルがある。
それは経口補水液だった。カナタの様子を見かね、病院に行く気が無いならせめてこれだけはと、男は考えていたのだ。
しかしカナタは、その施しを素直に受け取れない。眉間に皺を寄せ、剣呑な目で男の顔を見上げた。
「知らない人から物を貰うなって、大人が言い始めた言葉じゃねーの?」
「大人とは卑怯が常だ。自分の都合で平然と矛盾するのだよ」
「ガキ一人倒れたところで、あんたに不都合なんかないだろうが」
「職業柄そうも行かなくてな。それさえ飲んでくれれば、すぐに立ち去ろう」
「お節介も、過ぎれば不審だぞ」
「自覚はある。すまないとしか言いようがない」
謝ることではない、と。疑心暗鬼中のカナタでもそう思った。自分の態度が不義理であることは自覚がある。それに目くじらを立てもせず、カナタの体調のみを案じている様子の男に、僅かに毒気を抜かれた。
「…ありが、とう」
目の前の男と対峙した緊張で自身の状態をごまかしていたが、既にいつ倒れてもおかしくはない。その自覚があったカナタは、詰まりながらも礼を言って袋を受け取った。
ボトルを取り出し、震える手で蓋を開け、素直に口をつける。それを見た男は、無言無表情で一つ頷いた。
その時、二人のすぐ横で車が止まった。それを見たカナタは、目を見開いて思わず咽る。
白と黒のツートンカラー。天井には赤いランプ。ドアには「警視庁」の文字。
完全無欠にパトカーだった。
助手席のウインドウが下がり、運転席から女性が声をかけてくる。
「お待たせしました。山下警部」
「遅かったな結城」
「すみません。酔っぱらいが多くてなかなか進めず…」
その声に応じた男は、助手席を開け車両に乗り込んだ。ドアを閉めてすぐ、開け放たれた窓からカナタに向かって声をかける。
「すまんな少年。送り届けたいところだが、生憎と仕事中なのだ。気をつけて帰りたまえ」
そのセリフを最後に、パトカーは人通りの多い繁華街をゆっくりと徐行して去って行った。角を曲がり、視界から消え、エンジン音も届かなくなる。
それを見送ったカナタは、手にした飲みかけのペットポトルを無意識に垂れ下げ、中身を溢した。
その表情は"恐怖"と"憤怒"。歯を剥いて車両の残影を睨み、疲労ではない理由で全身を震わせていた。
警察全てが敵ではないことはわかっている。恐らく、あの男は関係ないだろう。男の様子から、なんとなくそう思った。見た目はともかく、言動や表情に疚しいものは感じなかったからだ。潔い様は心地よくすらある。
だが、それが警察だと分かった途端、そんな印象は消え去り、恐怖がぶり返した。その恐怖が、あの男の気遣いを得体の知れないモノに歪めてしまったのだ。
カナタは、思わずにはいられなかった。
"誰のせいだと思ってやがる"と。
何も知らないのだろう。
純粋に心配してくれたのだろう。
そこに感謝の念を抱いたのも事実だ。カナタの冷静な部分は、ちゃんとそれを理解している。
だが、警察というだけで駄目だった。何をされても、今は怒りしか湧いてこない。
治安維持組織であるという建前。それが敵であるという現実。自分を追い詰める愚行は、こんな小さな親切では覆らない。
「…こんなガキに構う前に、中をどうにかすべきじゃねぇのかよ…」
なけなしの体力、補給した水分。それを全て使って、空になったボトルを握り潰した。
絶望的な恐怖を味わい、過去経験がないほど果てるまで走らされ、先の見えない迷い道に叩き込まれた。その直後に感情を制御できるほど、カナタは大人ではなかったのだ。
そんな余裕が、ある筈もなかったのだ。
「押し付けがましいのも大概にしろよっ!!!」
そう叫んで、手に取ってしまった偽善の塊を、地面へと叩きつけた。
反動に耐えられず、地に倒れ伏すほどに、強く強く叩きつけた。
四つん這いのまま、息を荒げ身を震わせるカナタを、道行く人は気味悪そうに避けていく。
そう、関わらないのが普通だ。あの男が異常なのだ。
その優しい異常を、恐怖で塗り潰してしまった自分が、カナタは情けなくて仕方なかった。
「…くっそ…、みっともねぇ…っ!!」
分かっていてなお止まない恐怖。それをごまかすように、悪態をつく。
竦む心を必死に押さえつけながら、カナタは見開いた目から一滴の涙を零したのだった。
「元気ないですね、山下警部。何かありました?」
「何でもない」
「そうですか。怖がられるのが嫌ならリーゼントやめたらどうですか」
「これは地毛だ。どうしろというんだ」
「ストレートパーマという手があります」
「掛けたらどうなる?」
「笑います。課の全員が」
「…」
悠然としていた男だったが、その実きっちりとカナタの態度にダメージを受けていた。




