027 お前には許されない
何処をどう走ったのか、カナタは覚えていなかった。気が付くと、どこかのビルの屋上で一歩も動けなくなっていたのだ。
四つん這いのまま、痙攣する足を引きずって、物陰を探す。
荒い息が全く整わない。肺、心臓、脇腹、頭など、体のあらゆる部位が猛烈に痛む。その疲労具合は、東京初日の夜よりなお酷かった。
どうにか貯水槽と配管の隙間に身を隠し、来た道を横目で覗き込む。
恐怖のあまり、カナタは一度も後ろを振り返れなかった。誰も付いて来ていないことを、ここに至ってようやく確認する。いつどこで奴らを捲いたのか、全く記憶がない。
その時、ふと先回りされていないかという恐怖が浮かんだ。何処から撃たれるか分からない。そんな疑心暗鬼に駆られ、慌てて周辺を見回し、人目や射線が通る隙が無いか探した。今いる屋上が雑多だったことが幸いし、カナタの姿は完全に隠れているようだ。
次いで、カメラがないか丁寧に探った。普通はこんなところにカメラなど無いだろうが、万が一撮影されて記録が残っては目も当てられない。
何もないことを一通り確認すると、ようやくカナタはゴーグルとマスクを外し、そのまま蹲った。その身は恐怖と疲労で震えている。収まる気配すらない。
「…っざけんな…。…ふざけんなよ、ちくしょうっ…!」
随分と傾いていた太陽。真横から照らされるカナタの顔は、汗と涙でグチャグチャだ。それを袖口で拭いながら、想定外にも程がある現状を思い返す。
「…持ち、出すか…っ、それをっ…、…こんなっ、ガキに…!?…そこまで、許しがたいかよっ!」
今日の目的である「敵の出方を伺う」ことは、確かに達成できた。できたが、その出方があまりにも理不尽だった。
息も絶え絶えに、酸欠で回らない頭を必死に働かせる。屋上に全員が出てきた理由に、今更ながら得心がいった。
終わらせる気だったのだ。今日ここで。
全員が、その狂気に過ぎる武器を携えていた。多少の距離なら一瞬で詰めてくる飛び道具。連射もできて、一人につき1、2発じゃ収まらない。それが11人。
何故今自分が生きているのか、カナタは不思議でならなかった。
確かにそれを使えば、人手を増やさずとも勝てるだろう。なんせ、一発でも当たれば終わりなのだ。即死である必要はない。カナタの肝は繊細な身体操作と抜群の運動能力だ。四肢の一つでも使えなくなれば、それだけで詰みだった。
そのうえ敵には警察がいる。血痕一つでも残せばどうなるか分かったものではない。怪我の一つすらも負うわけにはいかないのだ。
「けど、だからって…、昼間っから、街中で…っ!!」
そう呟いたとき、カナタは思い出した。撃たれたあの場が、風俗街の屋上であることを。
銃声の残響は空に消え、第三者の目もまず届かない。
おまけに戦場となった一帯は、夜に活動し、昼こそ眠る、そういう街なのだ。夜中よりも、むしろ日中の方が閑散としているのは道理だった。
カナタが戦うには、日中しかありえない。
しかし日中だからこそ、奴らは銃の使用を躊躇わない
さらに、敵も相当慎重になっている。あの11人以外の人員を出す気が無いのかもしれない。そうなると、これ以上敵の情報を探るのは絶望的だ。手にある証拠動画も、増々その価値を失うだろう。
何せ敵は、あの11人を切り捨てるだけで済むように備えているのだから。
「…分が、悪過ぎるだろ…!!」
あまりに手の打ちようがない現状に、カナタは頭を抱えるしかなかった。
しかし、だからと言って諦めるわけにはいかない。
自分の素性に至れば、芋づる式に家族が危ういのだ。サナとオミもそうだ。どこまで波及するか分かったものではない。
そこまで考えた時、カナタは凄まじい眩暈に襲われた。
重度の酸素欠乏症と脱水症状、そこに許容量を超えたストレスが重なったことが原因だった。
「や…ばい…っ!!」
腰のポーチを弄り、荷物をぶちまける。その中から、震えの止まらない手で小さなペットボトルを探し出した。持ち歩きしやすいようにと、出がけにサナがくれたスポーツドリンクだ。
力の入らない震える手で、何度か取り落としながら辛うじて蓋を開け、口をつけた。量が少なかったせいか、ゆっくり飲んでもすぐになくなってしまう。
空になったペットボトルが、コロンと足元に転がった。彼女の気遣いが、今更ながら身に沁みる。
「…帰りたい…」
そう口にした時、最初に思い浮かんだのは実家だった。
両親と姉、陸上部の仲間、委員長を始めとしたクラスメイト達。いろんな人の顔が、脳裏に浮かんだ。
「…日常に…、帰りたいっ…」
思えば、自分は相当に恵まれていた。
それなりに裕福な家庭に健在な両親。過保護ながら理解ある姉。習い事に部活動など、やりたいと思ったことはやらせて貰えた。その全てに全力で打ち込めた。大会にも出場し、自慢できるだけの成果も出せている。
「…俺が、悪かった…。悪かったからさぁ…っ」
友人にも恵まれ、孤独を感じたことも無い。勉強も嫌いじゃなかった。親友と点数で勝負して一喜一憂したのもいい思い出だ。
日常の風景がいくつもいくつも記憶を流れる。その暖かさがカナタの胸を強烈に締め上げ。
絞り出された雫が、両目から零れ落ちた。
「…誰か、助けて…」
震える声で紡がれた助命の意。
その時、思考に差し込まれたのは、2Kのアパートだった。
カナタが諦めかけた時に、手を差し伸べてくれたサナ。
得体の知れない男を受け入れて、懐いてくれたオミ。
両親も居ない。二人きりで生きる姉弟の、その輪の中に入れてくれた。あの何でもない和室が、信じられないくらい心地よかったのだ。
貧乳をからかうと、素直で可愛らしい反応を返してくれる姉。そのやり取りが楽しくて、ついつい事あるごとに遊んでしまった。たった1歳しか違わないのに、頑張って働いて弟を養う、強い人だった。
そんな姉を思うあまり、当の姉の頬をひっ叩いた弟。そのプライドをカッコいいと思うのと同時、自分のみっともなさを思い知った。姉の献身に応えるため蓄えた知識には、心底舌を巻いたものだ。
サナの作る食事は絶品で、寝ぼけたまま付いてくるオミが可愛くて。
過ごした時間はまだ短いのに、二人のいろんな顔が脳裏をよぎる。
瞬間、カナタは噛み砕かんばかりに歯を食いしばった。
「甘ったれんな、クソ野郎がぁぁああああ!!!」
蹲ったまま、カナタは叫んだ。自分への怒りに、表情は酷く歪んでいる。
―― この数日で、どれ程のものを貰ったのか言ってみろ。
―― 何も話さない自分の不義理を、二人がただの一度でも責めたのか。
―― まともに精神を保てたのが、一体誰のおかげだと思ってやがる。
自分は既に助けられた。救われたのだ。あの二人が居なければ、カナタはとうに野垂れ死んでいた筈だ。
―― その恩を、須らく仇で返したのは誰だ ――
「今更お前に、助けを求める権利があるかよ…っ!!」
降って湧いた心地よさに胡坐をかいたその弱さこそが、あの二人を巻き込む一因になったことを、カナタは忘れていなかった。
今はまだ、サナとオミの安全に確信が無いのだ。無様に助けを乞うている場合ではない。
「…帰るんだ。あの二人の所へ」
今後何をどうしようとも、自分の体調を整えなければ話にならない。二人の安全を確保するためには、まだ情報が足りないのだ。
「諦めてる暇なんか無い…」
怒号を浴びせられようが、銃を撃たれようが、事態を好転させるには奴らとの対峙が必須だ。どれほどの恐怖だろうと、どれほどの絶望だろうと、カナタには膝を折る権利など無い。
――逃げるな。俯くな。前を見ろ。
自分を嘲笑うかのように遥か高みから見下ろす入道雲。それに向けて唾を吐く。
行く先を塞ぐかのような揺らめく陽炎。腕を振ってそれを払う。
決して届かない夢の如く彼方に見る太陽。掌を伸ばしてそれを握りこむ。
真夏の東京を見渡すビルの屋上で、少年は決して折れない覚悟を決めた。
"戦え"と。
「責任を果たせよ!!高町彼方ぁっ!!!」
そう言ってカナタは、涙に濡れたままの顔を、無理矢理上げたのだった。




