026 暴力を知った日
ビルの屋上を駆けるというのは、言うほど容易くはない。突起物や排管、貯水タンク、ボイラーや空調の室外機など、思いのほか障害物が多く、決して平坦ではないのだ。その上、ビルの高さも不揃いであり、落ちれば当然死ぬ。飛び移るのも相当なリスクとなる。何より、広めの道路を挟んでしまえば渡ることすら不可能なのだ。高所移動はいずれ限界がある。
それは、カナタとて例外ではない。
だからこそ、カナタはその不可解さに眉をしかめた。
(なんで、全員屋上に上がってんだ…!?)
カナタは、銀色の太めの配管をハードルの要領で躱しながら、横目で道路を挟んだ向こう側のビルを見た。その上で並走するヤクザは11人。
前回は3人を地上に残していた。モリタは本拠に残り、1人は監視役。屋上に上がって追ってきたのは6人だけだ。地上にも追跡の手があったからこそ、突然屋上から降りたカナタを追走できたのだ。
ところが、今日は全員、屋上でカナタを追っている。
(下に別動隊がいるのか?それとも、あの下っ端たちが地上の保険…?)
カナタが居る区画とヤクザの居る区画を隔てる道路は、車線がないとはいえ5mはある。普通は飛び移れる幅ではない。どこかで行き詰れば降りるしかないのだ。だからこそ、後詰の地上組は必須の筈だった。
その上、屋上での移動速度も、カナタの方が圧倒的に早い。
意図が分からない、と。カナタは、既に遅れ始めているヤクザに、首ごと目を向け。
全員の手に握られる、こちらを向く鈍色の筒を見た。
「は?」
思わず呆けた声を上げたのも束の間。
カナタは考える前に、頭を抱えて貯水槽の陰に飛び込んだ。
瞬間、無数の炸裂音と共に、カナタの足跡が弾けた。
火薬の爆ぜる音が次々に響き渡ると同時、鉛玉が防水塗膜を突き破ってコンクリートに突き刺さり、耳障りな甲高い衝突音を奏でる。
前転を一つ挟んで、カナタは膝立ちのまま勢いよく後ろを振り返る。
パラパラと舞うコンクリートのかけら越しに、いまだこちらを捉えて離さない銃口がいくつか見えた。
ヤクザの足が遅かったせいか、カナタとヤクザの位置関係は斜めだ。自身の体は未だ貯水槽の陰に隠しきれていない。
中る。
そう考えたカナタは、全身を粟立たせた。
「ひっ…!!!」
情けない声を上げたカナタは、貯水槽に向かって全力で跳躍した。瞬間、亜音速の弾丸が、寸前までカナタの居たところへ着弾する。
中空でその様を目撃したカナタは、直後に背中を貯水槽にぶつけ、そのまま崩れ落ちた。
銃弾に砕かれた床の破片が、カナタのゴーグルに当たる。
(撃たれた…?…撃たれた!?銃を!!嘘だろ!!?こんなところで!!!?)
見開かれた眼は小刻みに揺れ、あまりの恐怖に涙が零れた。フードごと頭を抱え、全身をガタガタと震わせている。急激に荒くなった息は、最早過呼吸に近い。
(に、逃げ…)
慌てて立ち上がり駆けだしたカナタ。それを追うように、銃弾が真横から降り注ぐ。
唐突に晒された狂気的な暴力に、カナタは震えと涙が止まらなかった。
それを押さえつけ必死に走る。精緻に身に着けた短距離走のフォームすら思い出せない。
みっともなく、なりふり構わず、ただ一刻も早くここから離れたい。
少しでも遠くへ、叶う限り遠くへ。その意識が、倒れる寸前まで体を前傾させている。
歩幅がいつもより広い。その上で足の回転もいつもより高速だ。
あまりにも夢中過ぎて、カナタ自身気づいていない。だが、その速度は、確実に自己最速を大きく上回っていた。
だが、気づいたところで何の慰めにもならなかっただろう。今のカナタには、銃の恐怖しか頭にない。どれ程カナタが速く走ろうとも、銃弾は瞬き一つの間にその身を穿てるのだ。
速力の桁が違う。どれ程速く走れようとも、何の意味もない。
後悔とか、巻き込みたくないとか、もうどうでも良かった。
すぐ後ろに迫る明確な「死」の前では、塵芥に等しい。
これは抗いようのない暴力だと、刻まれてしまったのだ。
カナタは今、経験したことの無い恐怖に、心の底から惑っていた。
しかし、慌てたのはヤクザの方も同じだった。
「ふざけるなよ、あの黒づくめぇ…!!!」
もともと速いのは知っていた。だが、銃撃を始めた途端、さらに速度が上がったのだ。彼我の距離が、目に見えて離されていく。
「手ぇ抜いてやがったのか…!クソッタレが!!」
“虎の尾を踏んだ”
物理的な脅威こそないが、モリタにとって現状はそう言った感覚に近かった。情報収集に徹し能力をセーブしていた奴を、銃を持ち出したことで本気にさせてしまったと、そう思ったのだ。
弾が、当たる気がしない。
ただでさえ走りながらの射撃で正確性に欠ける。殺してはならないからこそ奴の足元に弾幕を集中させていたが、もともとマカロフとはそこまで集弾率に優れた銃ではない。黒づくめとの距離は、既に有効射程を超えていた。
その上、時折タンクや室外機などの障害物もあり、離されれば離されるほど、遮蔽物に射線を塞がれる時間が増えていくのだ。
逃げ切られる。そう慌てたモリタだが、黒づくめの先を見てほくそ笑んだ。
その行く手には道路。進行方向の隣のマンションまで7mはある。その上、向こう側のビルの方が1フロア分は高い。
(あれは渡れねぇ!)
となればコースを変えるか、もしくは降りるしかない。そのためには地形や周囲を確認する必要があり、必然足を止めることになる。
その瞬間を、狙い撃つ。
「追い詰めたぞ!黒いのぉ!!」
その声が聞こえたカナタは、恐怖でぐちゃぐちゃの思考のまま、おぼろげに2つのことを考えた。それは”止まるな“と“曲がるな”だ。
とにかく最短最速で、後ろに迫りくる恐怖から逃れたかった。
直ぐに、最後のビルの端に至る。
そのままカナタは、一切の減速も躊躇もなく。
踏み切った。
「…は?」
それは、高層での火災現場で炎と熱から逃れるため、助かる見込みもないのに飛び降りる様を幻視させた。
だが違う、と。モリタは直ぐにその理由を見せ付けられる。
黒づくめとヤクザたちの間に道路を1本挟んでいた。だからこそ、ビルとビルの隙間から見えた異常。
黒づくめは、道路を挟んだ先のマンション、その1フロア下の外廊下にある手すりに着地。そのまま一瞬の停滞もなく、その手すりの上を駆けだしたのだ。
「なん、だっ…!それはぁぁぁあああ!!?」
遅れてヤクザもビル群の果てに着く。視線の先では、黒づくめのワンマンショーが展開されていた。
マンションの手すりを凄まじい速度で駆けた後、中央にある階段の外壁を三角跳びで跳ね、一つ上のフロアの手すりへ飛びつく。そのまま横向きに体を振り、下半身を持ち上げると最上階の手すりに着地した。流れのまま、その手すりをも跳ね、屋上に手を掛ける。今度は前後に脚を振ったかと思うと、勢いをつけ屋上へと飛び上がり。
その姿が、見えなくなった。
「あれ…、どうやったら捕まえられるんですか…?」
立ち尽くす11人のヤクザが荒い息を整える中、そのうちの一人が上位者のモリタに訊ねる。そいつの顔面に裏拳を叩きこみながら、モリタは歯ぎしりをしていた。
 




