025 高所に舞う
カナタの諜報活動において最初の関門は何か。
それは着替えである。
何せ、ここは日本最先端の街“東京”だ。そこかしこに防犯カメラがある。敵に警察がいる以上、着替えどころか、その前後の姿すら撮影されるわけにはいかないのだ。カメラが無く人目もない、そんな場所が必要だった。
当然、敵の縄張りで着替えるわけにもいかない。故にカナタは、まずフィールドとなる風俗街から離れ、一直線にとある場所へ向かっていた。
それは郊外にある神社の、その社を取り囲む鎮守の森だ。
昨日のオミとのランニング途中、へばったオミを日陰で休ませるために立ち寄った場所だった。カナタはオミを休ませている間、そこでサーキットトレーニングと木登りをしながら、このための下見をしていたのだ。
街中にほど近い立地ながら、周辺には電子的な装いが何もない。樹木がブラインドになり、人目もさえぎられる。カナタにとって、非常に都合のいい場所だった。
その中でも一際大きな御神木の上で着替えを済ませ、カナタは「SEX」と「らめぇ♡」を身に纏った。ゴーグルは額に上げ、マスクは右耳にぶら下げている。太い枝の上に立ち、幹に左手をあて、そのまま梢の隙間から遠くに見えるビル群を眺めていた。
格好に反した真剣な目。その頭の中では、ここから敵の拠点までのルートをいくつもシミュレーションしていた。
昨日のカナタは、ただトレーニングのためだけに走っていたわけではない。その主旨はあくまで下見。逃走経路や一時避難できる休憩場所、高空のみで風俗街から逃れるルート、そして、人目につかず着替えができる場所。その全てを見つけるまで走ったのだ。
付き合わせてしまったオミには悪いことをしたとも思うが、「もやしっ子にはちょうどいいか」なんて、酷いことも考えていた。
へばりにへばったオミと、帰宅直後にそれを見て慌てるサナを思い返し、カナタは笑う。
「…いいよな。あいつら」
しっかり者で料理上手なのに、生真面目過ぎてヘッポコな姉。
賢く知識に溢れながらも、寝坊助でシスコンな弟。
守りたいものが増えちまった、と、カナタは瞑目する。
数瞬の間。二人を思ったカナタは、徐に目を開けた。
そのまま、緩みのかけらもない顔で、己の道をねめつける。
「躊躇うな。駆け抜けろ。迷えば死ぬぞ」
それはパルクールを行う上での鉄則。常に念頭に置き、カナタはこの技術を磨いてきた。
しかし今はそれだけに留まらない。ヤクザと警察から逃げ切るためにも必要な心構えだ。
逃げ切るだけで済む話ではない。
顔を晒せば終わり。証拠を残せば終わり。
一つの油断が、死につながる世界。
それでも、放っておけばろくでもない目に会うことが確実な以上、踏み込まねば話にならない。
覚悟を決めたカナタは、歯を剥いて微かに口角を上げ、恐怖を押し殺し笑った。その顔のまま、マスクとゴーグルをつけ直し、偏光グラス越しに見出したルートを睨みつける。
「出て来いよぉ。ヤクザども」
そう言ってカナタは録画を始め、木立を飛び出し、昼間の東京へと挑んだのだった。
◆
木造二階建てアパートの一室。畳の香る和室で、サナは玄関を眺めていた。カナタの定位置となった場所で正座を横に崩し、座卓に両肘をついている。その目は僅かに細められており、物思いに耽る表情はまるで絵画のようだった。
時刻は既に11時半。いつもなら、ATMが開くと同時に記帳に走り、帰ってからしばらく緩んだ顔で悦に浸る日の筈だ。だと言うのに、今日はまだ記帳すらしていなかった。
その様子を、オミがニヤニヤしながら横から眺めている。
「カナタのこと考えてる?」
「…うん」
「彼女いなくてよかったね」
「…うん」
「ずいぶんと素直だね」
「…うん」
「上の空だねぇ」
「…うん」
あまりに話の通じない様子に、オミは苦笑しながらため息をついた。そんなオミを尻目に、サナの内心は今朝のカナタの違和感で埋め尽くされている。
アレは“怯え”。何に怯えているかはわからないが、確実に何かしらの恐怖に苛まれていた。
「…カナタ、様子おかしくなかったかしら」
「おかしくないカナタなんて見たことないよ?」
「そうなんだけど…」
ようやくまともな反応を返したと思ったら、やっぱりカナタのことだった。つられてオミもカナタを想う。二人のコメントは、正反対なようで割とそうでもなかった。
「余裕がなかったというか…」
「そうなの?言われてみれば、動画を見せた直後くらいはなんかピリピリしてたかも…」
いくら大人顔負けの知識があろうとも、オミは10歳の子どもに過ぎない。他者の機微を察するには人生経験が足りていなかった。ただ、それにも増してサナが聡すぎるという事もある。それを知っているオミは姉の言を疑わず、改めて丁寧に考察した。
ヤクザと揉めて追われていたと、カナタは言っていた。想像することしかできないが、直接そんな状況を経験すれば、過敏になるのも無理はないだろう。
それからパルクールという技術の危険性。バカみたいな運動神経で苦も無くやっているように見えたが、昨日ランニングに付き合ってみた結果、事前にどれ程の苦行を熟しているのかを、オミは思い知った。センスはともかく、体力ばっかりは才能ではない。積み重ねた鍛錬の賜物だろう。
自分の能力を高め、現状を正確に把握し、限界ギリギリを攻め続けるあの技術。確かに神経をすり減らすことは予想される。
それでも、それを好んで実践していることは疑いようがない。「パルクールをしてくれ」と言われただけで思いつめるような要素は感じなかった。
となれば、やはりヤクザとの揉め事が原因だろうか。確かに、その詳細を確認はしていない。だが、暴対法のある今の日本で、ヤクザがそこまで強硬に我を通せるとは思えなかった。
そこまで考えて、オミは再度姉の憂い顔を見た。
(姉ちゃんがここまで気に病むなら、きっと何かあるんだろう。でも…)
オミは、カナタの非常識さを、姉より少しだけ知っている。それは昨日のランニングの途中。立ち寄った神社の森の中で、木立の隙間を獣のように飛び回ったその姿。
枝から枝へ。途中で幹を蹴り、数メートル離れた別の木へ。"登る"のではない。ただその間を駆けるだけで高空へと"昇って"いくのだ。
見惚れた。疲れも忘れ、ただただその異様に魅入ったのだ。
その時点で、既に15kmは走っていた。いや、午前を併せれば、フルマラソン以上を走っていてもおかしくない。
それでもなお、そのパフォーマンスを維持できるのだ。体力お化けとしか言いようがなかった。
「大丈夫だよ」
「…オミ?」
唐突に呟かれたその一言に、サナが反応する。画面越しではない、生のパルクールを見たオミは、動画のアカウント名をつけた自分に賛辞を贈っていた。
「カナタは、本当にムササビだ」
猿のように自在で、猫のようにしなやか。やっていることそのものは、この二種の動物に近いのだろう。
しかし、それ以上に、カナタには空が似合うのだ。
その名に恥じない高所での機動力。決して飛ぶことはなくとも、奇抜な発想で地形を利用し、抜群の身体能力を駆使し、ただ自由に空を駆ける。
それを魅せ付けられたオミは、姉に不敵な笑顔を向けた。
「ビルの森であんな真似されたら、誰も付いていけないよ」
本人にしかわからない言い回しに、サナは首を傾げていた。
◆
「黒いのが出たぞっ!!!」
「…ゴキブリみてぇに言いやがって…!」
最初にその声を上げたのは、サナをスカウトしていた風俗店の勧誘員だった。叫ばれた警告のセリフに、カナタが思わず小声で文句を言う。
すぐに4人ほどの男がビルの隙間を駆けるカナタの後を追い始めた。
カナタは、風俗街を堂々と走って通り抜け、ヤクザの事務所を目指していた。その途中、雑居ビルの立ち並ぶ裏通りをうろついていたチンピラに見つかったのだ。
発見の報に応じてわらわらと出てきたチンピラの数は、先日の比ではない。この界隈で商売をしている人間、その全てが敵かと思うほどの数だった。
当然、誰が敵か分からないというのは相も変わらず凄まじいプレッシャーだ。体力に余裕がある現状でも息苦しさを感じる。カナタは目に映る全ての人を敵と仮定し、極力人の少ない方を選んで駆けた。
ほどなくして目的のビルに至る。ヤクザたちの拠点ではないが、近隣のビルより僅かに高く、四方いずれのビルにも飛び移れる、高空機動の起点に便利な場所だった。外階段が最上階まで続くものの屋上には繋がっておらず、簡単には登れない。
少なくともカナタ以外には。
そのビルの目の前にある電柱とビルの壁を、電柱、ビル、電柱の順に蹴り上がり、あっという間にその階段の二階踊り場に飛び込んだ。
「はぁ!?」
「どんな運動神経してやがる!?」
呆けるチンピラを放置し、カナタはそのまま階段を駆け上がる。黒づくめを追っていたチンピラたちも、我に返り1階から普通のルートで外階段を上り始めた。
ヤクザたちは、既にカナタの運動能力を把握している筈だ。パルクールという技術を何度か目の前で見せたのだから。当然、把握されているという事はカナタも承知している。
故に、この程度で驚いている彼らは、情報共有にすら値しない下っ端という事だ。
ならば用は無いと、カナタは階段を上る流れのまま躊躇いなく最上階の手すりから飛び上がり、屋上に手をかけた。逆上がりの要領で勢い良く足を天へと突き上げ、手を中心に一回転。1秒もかけずに屋上へと着地する。そのままヤクザの事務所へ視線を向けた。
今日の目的は、敵の出方を把握すること。カナタへの対処はどうするのか、その方針と具体的な手法だ。欲を言えば、前回よりも多くの人員を吐き出して欲しいと、カナタは考えていた。その分、敵の情報が手に入るからだ。
しかし、逆に敵の人員が先日から全く増えていなければ、敵はこちらを相当に警戒していることが予想される。
それが一番厄介だ。亀のように縮こまり、時間をかけてじっくり捜査されては手の打ちようがない。とはいえ、全戦力でもって捕縛に全霊を賭けてくるのも、それはそれで絶望的ではある。
どっちにしても泣きそうだ、と、カナタの内心は恐怖と緊張に震えていた。
「おい!どこに行った!?」
「居ない!?確かにここを登っていったのに!!」
ちなみに、下で騒ぐチンピラは既にカウントしていない。先日サナを助けた時のくだりから、銃取引を知らないことは確認できていた。その上、カナタの身体能力や屋上を移動することすら知らされていないのだ。
おそらく、ただ「黒づくめを探せ」という指示しか受けていないのだろう。即ち、捨て駒前提。自分を探すセンサー以上の役割は無いのだ。
故に待つ。
奴らの拠点だったビルから、ヤクザどもが出てくるのを。
屋上を渡り、目的地目前のビルに辿り着く。その屋上の縁に足をかけ、真っ直ぐ前を見た。
正面の道路幅は5mほど。向かいにはビルが乱立する区画がある。その正面から2棟目が、4日前に辿り着いた敵の拠点だ。
その屋上に、奴らの姿が現れた。
下で騒ぐチンピラから報告でもあったのだろう。内階段から出てきた全員が、手前のビルに渡りながらこちらを睨みつけている。
数も顔ぶれも、前回と変わらない。
「…くそったれ…っ!」
そう呟いて、マスクの下でカナタは歯を食いしばった。
しかし、意図を外され悔しがるその様は、マスクとゴーグル、フードに隠され、ヤクザからは見えなかった。なれば必然、その姿は「相も変わらず不敵な野郎だ」と、ヤクザの神経を逆なですることになる。
その感情に、ヤクザは逆らわない。
鄙びた雑居ビルの立ち並ぶ界隈で、モリタの怒号が響き渡った。
「ひっ捕らえろぉ!!!!」
その指示に応じ、ヤクザが一斉に動き出す。
同時、カナタも弾かれたように左へ向かって全力で走り始めた。
「…あいつ、もうやだ…っ!」
ラガーマンが叫ぶ度に身を竦ませるカナタは「あの声だけで心臓止まる」と、涙目で歯を食いしばるのだった。




