024 狭まる道
―― サナとオミも引き返せないかもしれない。――
導き出された結論に、カナタは思わず歯を食いしばった。どうにかならないかと、必死に思考を回す。
しかし、カナタの知識では何ら解決策は浮かばない。そもそも、現状の危険度がどの程度なのかも判断がついていないのだ。下手の考え休むに似たり、だ。
ならばと、カナタは無理やり思考を切り替える。既に事態は移り変わったのだ。今はオミの言を信じ、次の対応を考えるしかない。
全部話すべきか。
一瞬そう考えるも、知ることで言い訳が効かなくなる可能性もある。二人が何も知らないまま、何の証拠も持たないまま、ただ自分に利用されていただけ。そういう状況を整えれば、最悪の事態の保険にはなるかもしれない。
いざとなれば、なりふり構わずこの動画を公開するしか手は無いのだ。その時、二人は関係ないと言えるだけの根拠は揃えておきたいところだった。
今はまだ叶う限り伏せるべきだと、カナタはそう結論付ける。
「でさ、カナタ。この収入どうする?」
「…どうするって?」
考えを改め、取り急ぎ方針を固めたカナタに、オミが重ねて問う。
「体を張ってるのも動画を撮ったのもカナタだよ。僕はそれを借りて編集しただけ。このお金の権利はカナタにある」
そう言って、オミは広告収入が確認できる画面を表示して、タブレットを差し出した。それを受け取ったカナタは、5万円強という金額が映し出された画面を凝視し黙り込む。
その様子を、不安げにサナが見ていた。明らかに様子がおかしいカナタに眉根を寄せている。
「…カナタ、何かあったの?」
「…いや、大丈夫」
意を決して、サナがカナタに声をかけた。口では大丈夫と言いつつも、追い詰められたような気配に変化はない。
確かに、カナタはヤクザの集団に追われていた。オミからはバレないと言われたが、あんな強面の集団に襲われれば、そう容易く安堵もできはしないだろう。
しかし、本当にそれだけだろうかと、サナは思案を重ねていた。
そんな少女の様子を尻目に、カナタの表情が変わる。
心の裡で、当面の大前提に3つの要素を追加したことで、肚が座ったのだ。
1つ。二人の安全に確信が持てたら、金を置いてすぐに去る。
2つ。確信が持てない間は、敵の矛先が自分に向くよう仕向ける。
3つ。これ以上は絶対に、二人を矢面に立たせてはならない。
以上の条件を心に刻み込んだカナタは、一つ息を吐いてから口を開いた。
「…金は、貯めておこう。何かあった時のために」
現状は、当初立てた方針のとおり奴らの情報を探る。行動指針を定めたカナタの眼は、寸前までの様子から一転。決意に満ちた力強いものだった。
それを見たサナは、様子の変わったカナタにより一層の不安を抱く。
朝食時までは感じていた余裕と愛嬌が無い。まるで別人だったからだ。
しかし、様子がおかしくとも会話をしてくれることは事実だ。前のように、頭っから拒絶はされていない。
なら、深くは聞かない。いや、聞けないのだ。それは、つい昨日も帰宅途中に出した結論だった。
踏み込み過ぎれば、カナタはここから去って行く。
彼から時折感じる危うさに、サナはそう思っていた。故に、内心を占める不安に蓋をして、今はカナタに話を合わせる。
「…そうね。しばらくは生活にも困ってないし…」
「二人が言うならそれでいいよ」
満足げに頷いたオミの言をもって、広告収入の処遇は決定した。
オミの内心は意図以上の成果に浮足立ち、ただ一人、悪戯が成功した子供のようにはしゃいでいる。その様子に、カナタもどうにか平静を装った。
「でさ、カナタ。相談なんだけど」
「なんだ?」
「次の動画が欲しい」
その一言に、カナタは身を強張らせざるを得なかった。しかし、すぐさま怯える心を一蹴する。
今後の指針に関わらず、金はあるに越したことはないのだ。既に引き返せないのであれば、収入のタネは多い方がいい。
カナタは、持ち前の切り替えの早さで、崩れかけていた精神を立て直した。
「他のも見たいってコメントが多くてさ。上げたら収入増えるのは確実だよ。ダメ?」
「…いや。どの道パルクールはやるし、動画も常に撮ってる…」
敵を探るのなら、当然ヤクザと対峙する可能性は高い。そして逃走にパルクール技術が有用なのは既に証明されている。というより、もはや必須技能だ。
自身の目的を果たすためには、必然パルクール動画は撮影されることになる。
(撮った動画はすぐに分割しよう。問題ない所だけオミに渡せばいい)
結論を出したカナタは、オミに向かって一つ頷いた。
「決まりだね」
嬉しそうにオミが笑うのを確認したカナタは、次いでサナを見た。カナタの焦燥を見透かしていた彼女の表情は、僅かに曇っている。
その様子を知ってか知らずか、カナタはサナへ笑いかけ、言った。
「チクビの効果音、フリーで無いなら作ろうぜ。サナの声で」
唐突な卑猥に、サナは目を丸くした。何を言われたか理解すると、すぐに半目になる。
「やだ」
「お前何のためにノーブラなんだよ?」
「好きでやってんじゃないわよ!!」
心配したのにこれである。
先ほどの様子のおかしさは気にかかるし、今も違和感は拭えない。それでも、カナタは平常運転に戻っているように見えた。少なくとも表面上は。
そんなカナタの様子に、今度はオミが口を尖らせる。
「次は純粋にカッコ良くしたいんだけど…」
「えー、俺AVの方が好きなんだけど」
「カナタは一体何の話をしてるのよ…」
平然とスケベを前面に出してくるカナタに、サナとオミは呆れた目を向ける。
しかし、相変わらずな言動の裏で、カナタの内心は欠片もふざけてはいなかった。
捕まって拷問なんかされては、ベラベラ喋らない自信などない。逃げきれなければ、必然この二人も危ういのだ。
――絶対に逃げ切る。決して捕まってはならない。
――それができない時は、捕まる前に、
―― 自ら死ね ――
笑顔の裏で、カナタは悲壮な覚悟を固めていた。
無論、そうなる気などさらさらない。もともと自分が生き残るために始めた戦いなのだ。
――それでも、この二人のためなら。
「よし!」
そう言ってカナタは立ち上がり、頬を張った。
唯一の普段着であるGパンと白いTシャツに着替え、変装服が収められえたナップサックを手に取った。
パルクールは、派手な見た目とは裏腹に、非常に繊細な技術だ。夜の闇では行使などできない。走るなら日中に限られる。故に、行動を起こすなら早い方がいいのだ。早々に準備を整えたカナタは玄関へと向かい、固く靴紐を縛る。
ここに戻りたい。この二人と、もっと一緒に居たい。
不意にそう思ったカナタは、笑顔で部屋に振り返った。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
オミは気楽にプラプラ手を振り、その横でサナが不安げに口を開いた。
「カナタ」
「なんだ?サナ」
「これくらいなら持って走れるでしょ」
そう言って、サナはペットボトルを差し出した。それはスポーツドリンク。280mlの小さなサイズだ。
サンキュと、軽く礼を言うカナタに手渡しながら、サナは口を引き結んだ。
「…無理、しないでね」
「…しねーよ。いつもやってる事だ」
随分と感情の機微に聡いサナに、思わず苦笑する。
その曇りを払うよう、自信満々で不敵に笑い、カナタはアパートを出た。
「…臆すなよ、俺の体」
アスファルト上で、カナタは遥かに見える風俗街のビル群を睨みつけた。
「さぁ、パルクールだ」
◆
「…よろしいのですか?」
高く頑強な漆喰の塀に囲まれた屋敷。その庭園の一角で、筋骨隆々とした男が、中肉中背の糸目の中年に声をかけた。背を向けるその中年は、声をかけた男、モリタを流し見る。
「構わん。代わりに人員は直ぐには増やせんぞ」
「当然です。我々の失態なのですから。切り捨てる人員は少ないほど良い」
警察との銃取引を任されていたモリタは、その失態を組織のナンバー2であるカミヤという名の若頭へ報告していた。それを受け、今し方カミヤが方針を示したところだ。
「分かっているならいい。ただし殺すなよ。バックを吐かせねばならん」
「心得ております。しかし、奴はまた現れるでしょうか」
「来るさ。単身で乗り込んできたという事は、敵もまた、最小のリスクで情報を収集しようとしているのだ」
現状、ヤクザ側の手掛かりは黒づくめただ一人のみだった。他には何も情報が無い。敵を探るには、黒づくめを抑える必要がある。そして、奴を抑えるには、どうしても人手がいるのだ。切り捨てても問題のない人員と、情報の漏洩ルートの洗い出し。今しがたモリタに示された方針は、それが終わるまでの繋ぎでしかない。
「我々を全て抑えるには、向こうも情報が足りていないらしい。どちらが先に必要な情報を揃えられるか。これはそう言う勝負だ」
それでも、取引現場は既に撮影されてしまっている。まかり間違って公開されてしまった場合、被害を最小限に抑えるには、顔を晒してしまった人員のみで対処に当たるのが道理だろう。これ以上、不用意に情報を与えてやる謂れも無い。
「手が増える。それ即ち貴様らの無能であると心得よ」
「は」
ただし、その想定は須らく勘違いだった。そもそも、黒づくめ一人で敵方の規模は全てなのだから。どれほど探ろうと漏洩ルートなど無く、また黒づくめ以外の情報もない。極論を言えば、どれ程の人員を投入しようと、黒づくめを抑えるだけで全てが解決するのだ。その手段をとらないことこそが、ヤクザ最大のミスだった。
しかし、カナタにとっては何の救いにもならない。絶望的な戦力差に変わりないからだ。
そして戦力とは、単純な人的資源の話にとどまらない。
目には見えるのに、体感したことのない恐怖。一般人には、人海戦術で来られるよりも理解不能な、狂気に満ちたそれ。
「全員にマカロフを支給する」
そう言って、カミヤは視線を前に戻した。
糸目を僅かに見開き、その指示を口にする。
「撃て」
カナタに、絶望的な狂気が迫っていた。




