022 無邪気な棘
陽の差し込み始めた朝の和室。LEDで照らされた壁掛け時計は5時半を差している。
いつもの時間に起き出したサナは、その部屋の隅で一人黙々と洗濯物を畳んでいた。昨夜干したばかりだが、真夏の気温だと一晩でも良く乾く。
一つ畳み終え、新たに手に取ったのは懐かしい体操服。
自分が着ていた頃は、ろくな思い出が無かった。だが、カナタが着るようになった今、こうして眺めていても不快な印象はない。我ながら現金なものだと、物思いに耽ることしばし。
不意に、隣の部屋からゴソゴソと物音がし始めた。微かに聞こえるそれに、サナが顔を上げる。
「んー…、かなたぁ…どこいくのぉ…」
「…起きねばならぬ…」
「ぼくもぉ…」
「んぅ…?あ、ちょ。こら。おーい」
どうやら男子二人が起き出したらしい。漏れ聞こえるやり取りに、サナの顔が俄かに綻ぶ。
昨日も思ったが、カナタは随分と朝が早い。寝坊助なオミも、つられて早起きの癖がつき始めている。もっとも、オミについては起きていると言えるかどうか議論の余地があるが。
ほどなくして、奥間から欠伸を噛み殺しながらカナタが出てきた。
「おはよう。カナタ」
「おはよ。これ何とかなんねぇ?」
カナタは、寝ぼけ眼のまま左手の親指で背中を指す。そこには、9割がた睡眠状態のオミがくっついていた。その眼は完全に閉じており、口は半開きだ。カナタの左肩に顎を乗せ、腕は右肩から左脇下にかけて襷掛けにされており、足は腹に絡められている。まんま子泣き爺だった。なんておかしな寝相だろうか。
それを見たサナは、嬉しそうに笑いながら畳んだばかりのタオルを一つ手に取って立ち上がる。
「そんな子どもっぽいオミは初めて見たもの。何とかしたくないなぁ」
「なんじゃそりゃ」
「甘え方を知らないからブレーキが利かないのよ。きっと」
サナはカナタの前に行くと、そのまま弟の顔を覗き込んだ。その髪を撫でながら、申し訳無さそうに目を細める。
「私は、そんな風に甘えられるような姉じゃなかったから」
「貧乳だしな。しゃーねーわ」
「…何の関係があるのよ?」
「包容力。即ちおっぱい」
親指を立てるカナタにサナは青筋を立てた。相も変わらず卑猥な口だ。
しかし、よくよく見れば、オミがずり落ちないようにカナタの右手は後ろ腰に回されていた。懐の深さも相変わらずだと、思わず苦笑する。包容力ではこの少年に敵いそうもない。
タオルを差し出しながら、サナは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それ、カナタが巨乳ってことになるけどいいの?」
「…む?」
手渡されたタオルを受け取ると同時、カナタは視線を下げて自分の胸を見た。鍛えているせいか、僅かに筋肉で盛り上がっている。
次いで、目の前にいるサナの胸を見た。何もない。抉れているのだろうか。
「勝った」
ガッツポーズをとるカナタの頬を、笑顔でつねるサナだった。
顔を洗って座卓に着いたカナタは牛乳を煽っていた。のんびりまったりと、何をするでもなく洗濯物をやっつけるサナを眺めている。背中には変わらずオミがへばりついていた。その目はうっすらと開き、カナタの飲んでいる牛乳を眺めている。
「…僕もぎゅーにゅー…」
「サナ、コップちょーだい」
「はいはい」
畳んだ洗濯物をタンスにしまい終えたサナは、キッチンを経由しカナタの対面に戻った。そのまま微笑ましげに頬を緩め、オミのコップを差し出す。しかし、カナタが受け取った瞬間、何かを思い出したように一瞬で渋い顔をすると、徐に目線を彷徨わせ始めた。
様子のおかしいサナに、牛乳パックを引き寄せながら首を傾げるカナタ。「どしたん?」と尋ねる声に、サナは意を決して頭を下げた。
「ごめんなさい」
「何が?」
カナタは目を丸くして問うた。起き抜けということも有り、何を謝られているのかさっぱり思い当たらない。そんなカナタを上目遣いに見ながら、サナは所在なさげに指を何度も組み替えている。
「昨日ね、カナタの携帯に着信が来たところを見ちゃったの」
「誰から?」
「…七菜香さん、って人」
「ああ。ナナカか」
親し気なその呼び方に、サナの胸が締め付けられる。そんなサナに頓着せず、オミのコップに牛乳を注ぎながら、カナタはあっけらかんと尋ねた。
「何?電話出ちゃったの?」
「出ないわよ!そういう約束で借りてるんだから!」
「じゃあいいじゃん。何を謝ってんだよ?」
「だって、その…」
湧き上がる後ろめたさにカナタの顔を見ていられず、サナは視線を逸らせた。そのままボソッと、感じた罪悪感を口にする。
「…プライバシー、覗き見ちゃった気がして…」
「クソ真面目にも程があんだろ」
一体何を謝る要素があるというのだろうかと、カナタの顔は呆れていた。その声にますますサナは縮こまり、さらに小さな声で続ける。
「…彼女さんと、電話したかったろうし…」
「彼女?誰の事?」
それを聞き逃さなかったカナタは、耳にした単語を訊ね返した。オミにコップを手渡すカナタをチラリと見たサナは、すぐさま逸らして重い口を開く。
「な…、………ナナカさん…」
「…」
聞こえた名前に、カナタはピシリと固まってものすごい顔をした。
「…え?どうしたの?カナタ」
「こっちのセリフだよ。やめろってマジで。気色悪い」
「え?」
予想外の反応に思わず声を上げたサナを、カナタは頬をヒクつかせながら半目で睨みつける。
その背中では、受け取った牛乳を飲みながら、ほぼ目が覚めたであろうオミが、二人を交互に見やっていた。
「あはははははははははははは」
「いい加減やめてよオミ!」
「だって…っ、ぷ、はははははははは」
「もーっ!」
日が昇り明るくなった和室で、オミは笑い転げていた。その様に、朝食の準備をしているサナが、顔を真っ赤にしながら文句を言っている。原因は先ほどのサナとカナタのやり取りだ。
「だって、お姉さん、お姉さんを、彼女…っあはははははは」
「そろそろ怒るよ!?」
「ごめん、ごめんってば」
カナタの実の姉、高町七菜香。それが架電の主の正体だった。それを彼女と邪推したサナに、オミは爆笑し、カナタは珍妙なダメージを負ったのだ。オミは座卓に突っ伏し腹を抱え、カナタは顎肘をつき渋い顔をしている。
その二人の所へ、サナがご飯と味噌汁、ウインナー、スクランブルエッグを持ってきた。
「なんでそんな勘違いしたんだよ」
「だって、女性が名前だけで登録されてたらそう思うじゃない!」
「名字が必要無ぇの家族くらいだろ」
「そうだけど!言われてみればそうだけど!!」
朝食を並べ終えたサナは、カナタの指摘に顔を伏せて恥ずかしがった。お盆を抱え込んで、オミと同じように座卓へ額をつけている。
そのままひとしきり唸ったサナは、少しだけ顔を上げ、上目遣いでカナタを見た。
「…彼女、いないの?」
「今、哀れんだか?貴様」
「え、いや!そんなこと!」
ジト目のカナタに睨みつけられて、サナは慌てて手を振った。
実際のところ、カナタには恋愛経験がない。好きな女の子くらいは居たが、ことごとく玉砕していた。反面、親友のクラス委員長は小4の時から彼女が途切れた試しがないのだ。勝ち誇るヤツと何度喧嘩したことか。
気の置けない友人に鼻で笑われた日々は、スケベを自負するカナタにとって屈辱の記憶だった。不意にそれを刺激された少年が、両手で顔を覆いながら天井を仰ぐ。
「いねぇよ!いたこともねぇよ!生まれてこのかた14年!右手だけが恋人だよチクショウ!!」
「最後の余計だよ」
無意味に卑猥だった主張に、オミが冷めた声で突っ込む。しかし、珍しくサナの耳にその卑猥は入らなかったらしい。
「…そっか、いないのか」
自身にとって大事な所だけ反芻したその顔が、可愛らしく綻んだ。然るべき時に見れば、カナタとて見惚れていたかもしれない。そのくらい愛らしく、いじらしい笑顔だった。
しかし、今のカナタには、それを愛でる余裕はなかったらしい。
「なんでそんな花咲くような笑顔なの?そんなに滑稽か?泣くぞ?」
「え?え??」
(間が悪いよ、姉ちゃん…)
カナタは般若の如き形相で歯を剥き、睨まれたサナは訳が分からず右往左往する。
二人の様子に思わず糸目になったオミは、その顔を見せるタイミングは選んでほしかったと、姉の素直さを嘆くのだった。
手を合わせた後、3人揃って朝食をとり始める。相変わらず美味いと、いち早く胃袋に納めていったカナタは、ふと感じた違和感に視線を巡らせた。視界に入った時計は既に6時を優に過ぎている。視線を戻して正面のサナを見た。早々によそ行きの支度を整えていた昨日と違い、その格好は未だホットパンツにTシャツというラフな部屋着姿のままだった。
「あれ?サナ、今日仕事は?」
「水曜は固定の仕事が無い日なの。暇なら配達には行くけど」
急に問いかけられたサナは、そう返して味噌汁を一口啜った。そのままお椀を置いて少し上を向く。
「毎週水曜が配達の給料日なのよ。支払とか買い物とかで1日潰すことが多いかな」
「大半は通帳見て悦に浸ってるよね」
「…オミ?」
よくある過ごし方を思い返すサナに、オミが横から補足した。珍しく彼女が笑顔でいる日なのだ。姉を敬愛する弟としては、その可愛らしい様を伝えねばならないと思ったが、肝心の姉はお気に召さなかったらしい。渋面で弟を睨んでいる。
そんな姉弟をよそに、何故かカナタが感慨深そうに何度も頷いていた。
「分かる。俺も筋トレした翌日に100gでも体重増えてたら超喜ぶわ」
「「ただの誤差でしょ。それは」」
サナ以上に喜ぶ理由がささやかだった。コップ一杯の水で変動するレベルだ。
そう言えばと、呆れ顔だったオミが表情を改めてカナタを見た。
「給料と言えば、カナタに話があったんだけど」
カナタは眉間に皺を寄せ、ウィンナーをチュルンと吸った。行儀が悪いと、サナの眉間にも皺が寄る。
「給料から連想される話ってなんだよ。生活費か?入れるのは吝かじゃないが、当てがないぞ」
「その当ての方で話があるんだ。生活費を入れるかどうかは姉ちゃんと相談して」
そのセリフに、欲しいと言われりゃどうにかしようと、カナタは気合を入れてサナを見る。その対面で熱い視線に晒された少女は、口の中のご飯を飲み込み真顔で言った。
「え、いらない」
「…それはそれで悲しいぞ」
眉をハの字にして情けない顔になったカナタを見て、サナは味噌汁を味わいながら目を閉じて澄まし顔になる。
「14歳なんでしょ?働けない子どもから貰えるわけないじゃない」
「1つしか違わねぇじゃねーか」
悔しそうに、ポリポリとウィンナーの皮を歯で破るカナタ。珍しく優位に立てそうな話題に、サナは得意げな顔になる。そのまま顎を上げ、挑発気味に口を開いた。
「10代の1歳差は大きいのよ?先輩って呼びなさい」
その一言に、カナタはお椀を差し出した。
「貧乳先輩、味噌汁おかわり」
「自分で注いで来い」
「了解。背伸ビッチ」
「また言ったわね!?」
「…せのびっち?」
カナタが真面目腐った敬礼をして煽り、あっさりと優位性を失ったサナが身を乗り出して吠え、聞きなれない単語にオミが首を捻った。
「あ、こら!鍋ごと抱えてこないでよ!ちょ、全部食べる気!?」
「うっせ!お前の飯が美味いのが悪いんだ!」
「え、あ…そう…?」
「年上ぶるならそこでモニョるなよ!こっちも恥ずかしいじゃねーか!」
「ごちそうさまでした。いろんな意味で」
重ねた食器を持って立ち上がりながら、オミはぎゃいぎゃいと喧しい年長者二人を眺めた。
毎度のことだが、年下のカナタが逐一上手に見えるのは我が姉ながらどうかと思う。しかし、その様が妙に自然で収まりがいいのも事実だ。
嬉しそうにカナタに振り回されているサナを見て、オミもまた嬉しそうに笑うのだった。
「さっきの話に戻るけど。これ見てよカナタ」
サナが食器を洗う音が響く中、キッチンに背を向けて卓上を拭くカナタの所へ、オミがタブレットを持って寄ってきた。タッチパネルを操作し、インターネットブラウザを起動させている。何度かタップし、程なくして目的のページが開かれた。
「何?動画サイト?」
「うん」
それを横から覗き込んだカナタに見やすいよう。オミはタブレットを差し出した。
「一晩でバズったんだ。SNSとかでもいっぱい拡散されてる」
「へぇ。……何が?」
動画の再生準備のために回るタスクバーを見ていたカナタが、主語のないオミの発言に首を傾げる。それを受けて、オミがニコニコと笑いながら、得意げな様子で口を開いた。
「カナタのパルクール」
その一言に、カナタの頭は真っ白になった。




