021 彼の世界を私は知らない
「ありがとうございました」
手持ち最後の配達を終えたサナは、そう言ってマンションの一室を辞した。どうやらオフィスとして使われているらしく、複数のデスクやOA機器が置かれているだけで生活感はない。玄関口で会計をしている間に見えた部屋の中では、4人ほどの男性がパソコンで作業をしていた。
大分慣れはしたものの、こういったクローズな空間を単身で訪ねなければならないこの時間が、サナは手が震えるほどに苦手だった。恐怖と言ってもいい。特に男性ばかりの部屋など、考えただけで身が竦む。それでも、弟を食べさせるにはそんな理由で辞めるわけにもいかないのだ、と、サナは毎度勇気を振り絞ってインターホンを鳴らしていた。
外階段を下り、1階まで降りてようやく一息つく。
時刻は19時半。注文も減ってくる時間帯だ。アプリを開いて確認するが、案の定すぐに受けられそうな依頼はなかった。そろそろ切り上げて帰ろうかと思いながら、手にしたスマホを眺める。
自分のものではない。一昨日から居候している少年の所有物だ。会ったばかりの相手に、よくもまぁこんな貴重品をポンと貸せるものだと感心する。そんなことを言えば、カナタは「知らない男子を家に泊めたお前が言うな」なんて返すだろうか。
サナは、苦笑しながらその携帯を撫でた。さっきまでその身を締め付けていた恐怖が、急速に和らぐのを感じる。
不思議な感覚だった。人嫌い、特に男性が苦手な自分が、何の恐怖も気苦労もなく接することができる人。借り受けた彼の携帯が、精神安定剤にまでなっていた。
一昨日、震えながら男達との間に割り込んでくれた背中を思う。それだけで、まだ頑張れそうな気になった。我ながら単純だと苦笑する。
(頑張れるけど、今日はもう帰ろ。ご飯作ってあげないと)
自分の作った親子丼を泣きながら食べていたカナタの姿を思い出したサナは、頬を染めて笑う。
さて、今日の夕飯は何を作ろうかと、冷蔵庫の中身と突き合わせてメニューを考え始めた瞬間。
手に持つ携帯が突然鳴りだした。
「わ!わわわ!と、…電話?」
驚きすぎて取り落としそうになり、慌ててスマホを握り直したサナは、振動する携帯の画面を見た。先ほどまで開いていた配達アプリは消え、電話の着信を知らせる画面が表示されている。
その画面にかかれた文字を見て、サナは凍り付いた。
「……七菜香……」
それは人の名前で、明らかに女性。
急速に気分が沈むのを、サナは自覚した。
結局、たっぷり30秒は続いたコールが終わるまで、サナは固まっていた。画面から"七菜香"の文字が消えて、ようやく我に返る。
内心の伺い知れない真顔でアプリを開き直したサナは、淡々と勤務終了の処理をする。作業を終えると、すぐにスマホを仕舞い、そのまま帰路に着いた。
サイクルシェアをポートへ返却し、できるだけ人通りのある道を通って帰る。暗くなった空を見上げながら、サナは目にしてしまった名前を思い返していた。
「…彼女、かな」
そう呟いた瞬間、胸がちくりと痛んだ。耐えるように、眉根を寄せて顔を俯かせる。
居て当然だと、サナは思う。多少幼い感じはするが、人当たりがよく、意外と面倒見もいい。気兼ねなく懐に入れてくれる人柄は一緒にいて心地良かった。よくよく考えれば、顔もさわやか系のイケメンだと思う。部活か何かを頑張っているのだろうか、体はしっかりと引き締まっており、クラスの人気者をしている姿が容易に想像できた。
しかし、それは全て単なる推測だ。サナはカナタのことを何も知らない。どこから来たのか、何歳なのか。家族や友達、普段何をしているのか、好きな食べ物、嫌いなものは何か。
僅かに知っているのは、パルクールが好きな事と運動神経がお化けな事、年下の中学生だって事、あとはスケベが過ぎる事くらいだ。
カナタ自身が聞かれたくない様子だったこともあり、何も訊ねることはなかった。また、聞く必要もないと思っていたのだ。だというのに、自分の知らないカナタの世界を垣間見た瞬間、それが気になって仕方がない。
「浅ましいなぁ…、私」
そう呟いて、サナは目を伏せた。頭の中を整理しきれないまま、もうすぐ家に着いてしまう。せっかく楽しみにしている時間なのだ。気兼ねなくカナタと接したかった。
サナは、カナタの私生活を覗き見てしまったことに妙な罪悪感を感じていた。同時に、当たり前のことから目を逸らし浮かれていた自分に恥じ入っていたのだ。
カナタにはカナタの生活がある。人間関係がある。連絡を取り合う相手がいる。それを一考すらせず、ただ自分たちの所に留まってくれる事を喜んだだけ。
「…あれ?待って…」
サナは足を止めて、ふと気づいた違和感に首を傾げた。
披露困憊だった一昨日の様子。カナタは、一晩中ロッカーを探していたからだと、そう言っていた。だが、カナタには連絡できる相手がいる。脱水症状で本当に死にかねないような状態になる前に、助けを求める手段があった筈なのだ。
思えば、自身も2度拒絶されている。男達から逃げた後が正にそうだし、昨日家を出て行こうとするカナタも存外頑なだった。今滞在しているのは、オミの言い回しと私の先走りに絆されただけだろう。
死にかけてなお、誰にも頼らない。
ただの中学生がするような判断ではなかった。
決してプライドが高い訳じゃない。恥ずかしい嗜好や秘密を平気で暴露するし、全部を自分でどうにかしようとするような高慢さも感じない。
あるいは、こんな状況でも助けてくれないような家族や友人なのだろうか。それなら、何の憂いもなく"ここに居ればいい"と、そう口にできる。だが、きっとそうではないとサナは思った。
アホな言動に隠れがちだが、カナタは気遣い上手だ。もしその判断が、親しい人や私たちを慮ってのことだというのなら。
「まずは謝ろう。謝って、それから少し話を聞かないと」
先ほどまでとは違う懸念を抱きながら、サナはアパートに着いた。
問題はカナタがちゃんと答えてくれるかどうか。それから、踏み込み過ぎることでカナタが困らないかどうかだ。度が過ぎてカナタが出て行ってしまっては元も子もない。
どの程度まで聞いて良いのだろう、と。ドアノブに手をかけながら、サナは悩む。しかし何も知らないことなど今更だ。カナタが今ここに居る以上、無理に聞き出す必要はない。
(時間はあるんだもの。答える答えないはカナタに任せて、気になることを一つ一つ確認していこう)
そう結論付けたサナは、深呼吸を一つ吐いた。気を落ち着かせ、平静を装い、玄関を開ける。
「ただいま…って、ちょ!オミ!?どうしたのよ!?」
抱いた決意を早々に放り出した。玄関に入ってすぐ目の前。和室との間にある狭いキッチンにオミがうつ伏せで倒れていたからだ。部屋は暗く、電気すらついていない。
予想外過ぎる光景に慌てたサナは、靴だけ脱いですぐさま駆け寄った。体をゆすって、意識の有無を確かめる。
「オミ!返事して!!」
「……おかしいよ…」
「何が!?」
幸い、すぐさま言葉での反応があった。しかし要領を得ない。一体何がおかしいというのか。
「あんなペースであんな距離…、頭がおかしいよ…」
「何!?何の話!?」
全く話の見えないサナは、慌ててもう一人の影を探す。すると、カナタはカナタで、和室に大の字でうつ伏せていた。その体はピクリとも動かない。
「カナタまで!?何があったのよ!?」
「…お…」
僅かにかすれた声を漏らすカナタ。何を言おうとしているのか確実に聞き取ろうと、サナは焦燥の表情のまま耳を澄ませる。
その様子を一瞥すらせず、カナタは最後の力を振り絞って言った。
「お腹…、すいた…」
陽が沈み切った暗い街並み。
それを淡く照らす街灯と、唯一開け放たれたままのドア。
灯り1つないその一室でサナは床に両手を付き。
深い深い溜め息をついた。
「ご飯が足りないならそう言いなさいよ!もう!」
「居候の身で言えるか!食わせて貰ってるだけでも有難いのに!」
「あんな距離走ったら足りるもんも足りないよ…。いたた。脚パンパンだ」
「途中からお前全然漕いでなかったじゃねーか」
「サボったみたいな言い方やめてよ。本当に漕げなかったんだから。っていうか、そこから更に10kmは走ったよねカナタ。後ろから僕が乗る自転車を押しながら」
「おかげさまで腰が死んでいる」
「諦めて帰ろうよ。なんであんな疲れ果ててるのに止まらないのさ」
「あれはあれでいいトレーニングになったなぁと。途中から楽しくなっちまって」
「気色悪」
「それは流石に傷つくぞ」
大急ぎで大量の生姜焼きをこしらえ大皿に移していたサナは、二人のやり取りで何があったかを凡そ察した。仲が良くて微笑ましいことだ、と。目を細めたまま柔らかく笑う。
そんな優しい表情のまま、大盛の肉の山と茶碗に盛ったご飯をお盆に載せた。
「はい。出来たわよ」
そう言って食事を座卓に並べると、飢えた二人がキラキラした目でそれを見つめてくる。苦笑しながら箸を渡すと、我慢できない男子二人が元気よく叫んだ。
「「いっただっきまーす!!」」
肉、米、付け合わせのキャベツを次々と口に運ぶ二人。変わらないカナタの食べっぷりも微笑ましいが、こんなに食事に必死なオミも中々に珍しい。その様子を見やりながら、サナは柔らかく笑っていた。
帰宅途中の悩みを忘れたわけではない。カナタがどんな生活を送ってきたのか、どんな問題を抱えているのか、近いうちに聞かなければならないとは思う。
けれど、カナタは今ここに居る。自分の作った料理を美味しそうに食べてくれている。
今はそれだけでいいや、と。随分と楽になった気持ちで考えを整理し直した。
(とりあえず、七菜香さんのことだけ伝えて、残りはゆっくり聞こう)
そう結論付けたサナは、そう言えば滞在に関する目安があった、と。その進捗を確認する。
「それで?ロッカーは見つかったの?」
「「…あ」」
男子二人が揃ってマヌケな顔をした。




