020 短慮の功
「…ぜぇ…ただいまぁ…っ」
「お帰りカナタ。うわ、すごい汗」
真夏の太陽が照りつけ、気温は既に35度を超える外。焼けたアスファルトには陽炎が揺らめいていた。不快指数が半端ではない。冷房の効いた屋内が天国に思える。
その屋内で編集作業を行っていたオミは、朝方ぶりにカナタの声が聞こえて、奥間から顔を覗かせた。玄関には、靴も脱がないまま膝に手をつくカナタが見える。
息を整えたカナタは、顔を上げ、汗を散らせながら、さわやかな笑顔で言った。
「気持ちいい…」
「え、気持ち悪」
「なんてこと言うんだ、この弟」
あんまりなオミの反応に、カナタが半目で唇を尖らせた。その表情のまま、玄関先で服を脱ぎ始める。半裸の少年を眺めながら、オミはキッチンに向かいコップを取り出した。冷蔵庫から出した麦茶を注ぎながら、半日の成果を訊ねる。
「で、見つかった?」
「何が?」
「ロッカー」
「ロッカー?」
敷居の上でしゃがみ、滴る汗が飛び散らないよう低い位置で服を絞りながら、カナタは顔だけで振り返った。首を傾げるその様に、オミは思わず胡乱げな眼差しを向ける。
「…何しに出かけてたのさ?」
「何しにって、…あ」
カナタは本気で忘れていた。拠点ができて、衛生的な水分のみならず、美味い食事まで安定供給が見込めるようになったのだ。その上、カナタの携帯を提供したことでサナの収入にも見込みが立った。これらの要因から無意識のうちにロッカーの優先順位を下げ、敵情視察に必要な地理の把握に集中してしまったのだ。
こういった合理的判断は元来カナタが得意とするところではあるが、ここまですっぽり抜けていたのは流石に緩んでいたと言わざるを得ない。それを自覚したカナタは、前向きに反省した。
「午後から本気出す!」
「…まぁいいけどね。はい、お茶」
「おぉ、サンキュ」
汗を絞った体操服を伸ばして肩にかけながら、カナタはオミが差し出したコップを受け取った。冷えた麦茶をゆっくりと体に沁み込ませる。
喉を鳴らすカナタを見ながら、オミはその実ロッカーなど見つからなくてもいいと思っていた。その分だけ長く、敬愛する姉が年相応の時間を甘受できるからだ。
それはそれとして、と。オミはカナタが半日もどこで何をしていたのかが気になった。なんせ外は炎天下で、その格好は体操着なのだ。オミは空になったコップを預かりながら、重ねて問う。
「ロッカーも探さず何してたのさ」
「走ってた」
思った以上に何もしてなかった。呆れたオミが言葉に詰まる。
「…この炎天下で?元気だね」
「ただ走るだけなら、夕方までぶっ通しいけるだろ普通」
「いけないよ。何言ってんの?」
あんまりな脳筋理論に、オミが眉をハの字にする。真顔で言うあたり、本気でそう思っているらしかった。目の前の彼と常識をすり合わせられる気がしない。
並んで手を洗いながら、オミはため息をついた。
「そもそも走るのが嫌なんだけど」
「都会人アピールか?もやしっ子め」
「酷い偏見だ」
冷蔵庫からサナが作り置いた焼きそばを取り出し、レンジでチン。和室に持ち込み、少し遅い昼食をとり始めた。
相変わらずうめぇ、と。サナの手料理に感心しつつ、味わってるのか疑問に思うほどの早食いを披露するカナタ。ずぞずぞと喧しい食べっぷりの対面では、オミが小さな口をもぐもぐ動かして一生懸命噛んでいる。まんまリスだった。
4口目を飲み込んだオミが、カナタに話しかける。
「午後はカナタに付いて行ってもいい?」
「ん?構わねーけど、ついてこれるか?そこそこ速いぞ、俺」
「自転車で後を追うよ。迷子にならないよう見ててあげる」
「あれ?バカにされてる?」
「だって、午前中迷ったでしょ?帰り遅かったもん」
事実、今は14時少し前。昼食には遅い時間だ。カナタが戻ると言っていたのでオミは待っていたが、その間少し心配していたのだ。そこまで察することのできるオミに、カナタは素直に感心していた。
最初こそサナの職場とこの家を往復して地理把握に努めたカナタだったが、次第に適当に走り始め、気が付いたらオミの言う通り迷子だったのだ。景色を頼りにどうにか引き返して帰れたが、土地勘のある人間が一緒にいてくれるのは確かに心強い。
「どうせまた浮かれてたんでしょ?」
「まぁな。知らない街を眺めながら走るのは楽しいわ」
「ごめん。理解できない」
オミにとっては、そもそも炎天下を走る時点で理解不能だった。眉根を寄せて焼きそばをもう一口すする。
一方、そのセリフを聞いたカナタは、こっちも理解できないものがあるんだが、と、奥間の方を流し見た。正確にはその奥にある違和感の塊を、だ。
「オミ、聞いて良いか?」
「何?」
「…あのごっついパソコン、どうやって手に入れたんだ?」
「ん?動画編集してるアレ?」
そう言って、オミも口をモグモグさせながら奥間の方を見た。
二人が寝ていた4畳の部屋。その隅には、メタリックブラックな50㎝四方の箱と、24インチほどのモニターがある。それらを中心に細々した機械へいくつもケーブルが繋がっていた。
オミは、焼きそばを飲み込んでから口を開く。
「ジャンクパーツで作った自作だよ。電気屋のお爺さんと一緒に組んだんだ。大きさ程の性能はないし、お金もほとんどかかってない」
「電気屋のジジイ…。なんて意味深なんだ。暗号か?」
「何の他意もないよ」
顎に手を当て眉尻を上げ、上目遣いでオミを見たカナタは、キュピンとでも音がしそうな表情で言った。意味の分からない返しに、オミは眉をハの字にする。
「電子機器とかプログラミングとか、いろんなこと教えてもらってるんだ」
「動画編集もか?」
「ソフトを違法ダウンロードする方法は教わったけど、編集は独学だよ」
「お前今自分が何言ったか分かってる?」
焼きそばを箸で摘みながらとんでもない事を呟いたオミに、カナタは戦慄した。そのジジイ大丈夫かと不安になる。
半目になったカナタを見て、オミは大丈夫だよと笑う。
「教わったのは、やらないようにって言う教訓。こういうことすると捕まるよってね。使ってるのは全部フリーソフトだから」
そう言って、オミは焼きそばを口に運んだ。咀嚼しながら、漠然とした自分の将来を思い浮かべる。
学校にも行かず、一生懸命働く不器用で優しい姉。オミは彼女の人生を食いつぶしている自覚がある。だからこそ、独り立ちした後は彼女の老後まで責任を負うつもりでいるのだ。
「将来姉ちゃんを養うためには色々学ばないとね。今の時代、稼ぐならこういう知識は必須でしょ」
「師匠…」
「その呼び方やめて」
ジト目でカナタを睨んだオミは、不意に気付いた。
自分の皿の上には、まだ半分ほど焼きそばが残っている。反面、カナタの皿の上には紅ショウガ一つ残っていない。
(この人、いつの間に食べ終わってたんだろう…)
元の量も倍近く違ったような、と。茶を啜るカナタを眺め、オミは呆れ顔になった。
昼食後、絞っただけの体操服をもう一度身に着け、カナタは路上でストレッチをしながらオミを待った。ほどなくして、駐輪場から自転車を引っ張ってきたオミと合流。午前とは違う方向に向かって走り出す。
全く乱れない呼吸で先を行くカナタ。立ち漕ぎでその後を追うオミ。二人は雑談を交わしながら昼下がりの住宅街を駆け抜けた。
「サナの料理ってめっちゃ美味いよな」
「そうなの?ほとんど姉ちゃんのご飯しか食べたことないから分かんないや」
「なんて贅沢な奴だ。けしからん」
「なんでさ」
そんなに美味いなら姉に直接言って欲しいと、揺れるカナタの背中を見ながらオミは思った。頬を染めてそっぽを向く彼女の姿が目に浮かぶ。
「いつから二人暮らしなんだ?」
「半年ちょっと前かな」
「その前はお袋さん生きてたんだろ?」
「母さん居る時も、ずっと姉ちゃんが家事やってたから」
「マジで?すげぇな」
「母さんがチャランポラン過ぎただけだよ」
顔はしっかりと前を向きながら、カナタは目線だけでオミを見る。母親を思い返しているのか、オミは青い空に浮かぶ入道雲を眺めていた。
「僕は母さん嫌いじゃなかったけど、姉ちゃんは苦手だったみたい」
「俺相手に怒鳴るみたいに?」
「それは苦手なんじゃなくて、単に気を許してるだけだよ。怒りも恥ずかしがりもするけど、嫌がってはいないから安心して」
「そうなの?なんかキュンとしたんだけど」
正直が唐突すぎる、と、オミは目を細めて前を行く背中を眺めた。
恥ずかし気もなく内心を言葉にする。口で言うのは簡単だが、中々出来ることではないだろう。実際に向けられると、思いのほか心地よく感じるものだ。
そういう意味では、あの頃の姉と母は、カナタの対極にあったのだろう。
「…そう言うのじゃなくて、ロクに会話もできない感じだった」
「そうなのか?」
「うん」
思うことはあるのに揃って口を噤む様は、目の前の少年には理解できないことなのかもしれない。
ただ、二人の場合、その原因ははっきりしてたけど、と。オミは内心だけで呟く。
何せ、どちらにも何ら悪い所などなかったのだから。
昔を思い返すオミの表情は、悲し気に歪められていた。
しかし、前を向くカナタはそれに気づかない。淡々と足を進めながら、これまで見てきたサナの印象を総括する。
「真面目でしっかり者だけど、肝心なところで短絡的だよな。アイツ」
「…」
カナタのサナに対する評価に、オミは目を丸くした。中々に的確だと思ったからだ。
「なんだよ?」
「いや、うん。そうだね。そのとおりだよ」
「擁護なしかよ」
「だって僕もそう思うし」
そう言って、オミは姉の一大事をいくつか思い返した。
――働くことを決めたのは真面目だったから。でも、高校に進学しなかったのは短絡的だったと思う。
――自力でお金を工面しようとしたのは真面目だったから。でも、風俗という選択は短絡的だったと思う。
――母に当たり散らさなかったのは真面目だったから。でも、話一つしなかったのは短絡的だったと思う。
カナタの言うとおりだ。大事なところでこそ、自分の姉は判断が雑になる。
何とかならないだろうか、と。渋面を作るオミ。その様子に頓着せず、カナタはサナとのコミュニケーションを思い返して笑っていた。
「あと融通が利かないよなぁ。打てば響くというか。俺の戯言なんか聞き流せばいいのに、律儀で素直な反応しよってからに」
全く愛い奴だ、と。カラカラ笑うカナタに、オミは表情を緩めた。
(そんな姿を見せるのはカナタだけだよ)
流せば良いというのは同意する。ただ、カナタとの会話だけは聞き流さなくていいと、オミは思った。真っ向から受け止めて、感情のまま返す。姉はきっと、それを楽しんでいるのだ。
川沿いの土手に続く坂道を駆け上がるカナタ。しかし、付いてこれないオミを見かねて引き返し、自転車の後ろを押して上った。
礼を言いながら、オミはカナタの顔を見て、姉の一大事に一つ付け加える。
――カナタを放って置けなかったのは真面目だったから。でも、泊めるのは短絡的だったと思う。
――けれど、これだけは短絡的で良かったと、そう思うよ。
「カナタ」
「なんだよ?」
再び前に出た背中に、オミが声をかける。
軽く振り返ったその目を見て、笑いながら言った。
「ありがとう」
「何が?」
「気にしないでいいよ」
ただの自己満足だから、と。
オミは自転車を漕ぐ脚に力を込めた。




