019 分かり合えない朝
サナの朝は早い。特にファミレス勤務の日は朝7時に出勤のため、6時30分には家を出なければならない。それまでに朝と昼の二食分を作るのだ。毎日5時には目を覚ましている。カナタの滞在が決まった翌日も、そのルーティンは変わらなかった。
食卓を兼ねた和室で眠っていたサナは、いつも通りの時間に起き出し、カーテンを開けて伸びをした。陽はまだ差し込まないが、外は明るくなり始めている。今日はファミレスではなくファストフードでのバイトなので、出勤は1時間遅い朝8時だ。それでも、サナはどうしてもこの時間に目が覚めてしまう。
ただ、早起きは決して苦ではなかった。慌ただしいはずの朝の支度を、のんびりやれるこの時間が嫌いではないのだ。
まずはお昼の弁当と二人分の昼食の作り置きをしようと振り返り。
悲鳴を上げそうになった。
カナタとオミが寝ている奥の部屋。そこにつながる襖が、音もなく開いていたからだ。その隙間から、白目をむいたカナタが顔を覗かせていた。仄暗い部屋と相まって、非常に気味が悪い。
何のホラーだ、と。サナは冷や汗をかいた。
「…おはよう。早いわね、カナタ」
跳ねる心臓を抑えながら挨拶したサナに、のそりと一歩踏み出しながら、カナタが応えた。
「朝焼けに向かって走るぅ」
「頭大丈夫?」
顔洗ってきなさいと言いながら、サナはカナタにタオルを手渡す。いぇあ、と変な返事をしながら、カナタは洗面所へと消えていった。寝起きでも意味の分からない奴である。
すると、今度はオミがフラフラと襖から出てきた。
「…いまなんじぃ?」
「まだ5時よ。もう少し寝てなさい」
「かなたいなぁい…、どこぉ」
「顔洗いに行ってるわよ」
「ぼくもぉ…」
「寝てなさいって、もう」
つられて起きてきたオミも寝ぼけ眼だ。何故かカナタを探している。普段は妙に大人びた弟だが、朝は弱い。こんなに早く起きてくるのも初めてだった。
フラフラと目の前を横切っていくオミを見送って、サナは息を吐いた。1日で随分となついたものだと、カナタの人誑し具合に感嘆する。
二人が随分と遅くまで話し込んでいたことは知っている。あーでもないこーでもないと、楽しそうに動画の構成を相談していたのを、襖越しにうっすらと聞いていたのだ。
それそのものは微笑ましく思う。ただ、「ここで裸の女がカットイン」とか「意味など無くとも股間はモザイク」とか「効果音は“ちくび“でいこう」とか、時々漏れ聞こえてきた卑猥は許容しない。堪らず奥の部屋に押し入って、カナタの頭にゲンコツを落とした。10歳の子どもに変なこと吹き込むのはやめて欲しいと、思い返して思わず溜息をつく。
狭い洗面所で、二人並んで歯を磨いている様を流し見ながら、サナはエプロンをつけた。
いつものような一人きりの朝ではない。
けれど、こんな朝もいいな、と。
サナは冷蔵庫を開けながら思った。
「うわ!オミ!垂れてる垂れてる!って寝てんじゃねーかお前!あ、バカ!歯磨き粉飲むなって!」
顔を洗って目が覚めたのだろう。オミの世話を焼くカナタの声が聞こえて、サナはくすくすと笑った。
日が差し込み始めた和室に、白米と味噌汁と豚バラを敷いた目玉焼きが並ぶ。座卓のキッチン側にサナが正座し、対面の窓際にカナタが胡坐をかき、オミはカナタの右、奥間に続く襖側で突っ伏していた。
「オミ、寝て来いって」
「…一緒に食べぅ…」
「これ、本当に昨日お前の頬を引っ叩いた奴?」
「朝はいつも弱いんだけど、今日は特にかな」
睡眠時間が足りないみたい、と。そう言って苦笑するサナを見ながら、カナタは味噌汁をすすった。瞬間、感じた違和感にカナタの眉間で皺が寄る。
「…おいしくなかった?」
「いや、美味いんだけど、味噌汁だと思ってたからビックリした」
「味噌汁よ。それ」
「え?」
「え?」
目を合わせてお互いキョトンとした。
「味噌汁ってもっと赤茶色で味濃くね?これお吸い物じゃねぇの?」
「赤茶色?カナタの家は赤味噌だったの?」
「赤味噌?え、何?味噌って種類あるの?」
「うん。うちは白味噌だから。確かに味は結構違うのかもね。私は逆に赤味噌食べたことないけど」
へぇ~、と漏らしながら、カナタは馴染みのない白色の味噌汁をもう一度すする。口の中で転がして、カナタは頷いた。
「うん。これはもう別の料理だな」
「そんなに違うんだ」
「これはこれで美味いぞ。あっさりしてて癖が無い」
そう言ってカナタは笑ったが、サナは見逃さなかった。一瞬だけカナタが浮かべた寂しそうな目を。
ホームシックかなと、サナが少し考え込んだところで、突然カナタが箸を置き、オミの味噌汁を手前に引き寄せた。次の瞬間、突っ伏していたオミが寝返りを打ち、左手が卓上を滑って畳の上に落ちる。カナタが動かさなければ味噌汁に当たって零れていただろう。よく気づいたものだと感心する。
「オミ、布団で寝て来いって」
「…一緒にいるぅ…」
「ったく」
「ラップかけとくね」
カナタは、呆れながらも穏やかだ。意外と面倒見の良いその様子に微笑みながら、サナは席を立った。
結局オミは目を覚まさないまま、二人だけで朝食を終えた。食休みに氷を浮かべた麦茶を飲みながら、カナタは対面のサナに本日の予定を告げる。
「日中歩き回るなら、ついでにランニングしようと思うんだ」
「マゾなのかしら?」
「なんてこと言うんだ、この女」
サナはコップを置きながら、対面に座る変な生き物を眺めた。その目は、胡乱げに細められている。
炎天下を歩くだけでは飽き足らず、自ら望んで走るという。電動自転車ですら勘弁してくれと思う苦行なのだ。これがマゾでなくて何だというのか。
「走らないと死ぬかもしれねーし」
「マグロなのかしら?」
「回遊魚じゃねーよ。止まってても呼吸はできるよ」
パルクールは体が鈍るとマジで死ぬんだって、と続けるカナタ。そんな趣味を好んでやってる時点でマゾじゃないと、サナは思った。確かにあの運動能力はすごいと思うが、炎天下の鍛錬ですら馬鹿にならないリスクだ。命がけでやる意味があるのだろうかと疑問に思う。
「他にもできればラダーとかサーキットとか、色々やりたい」
「Gパンで?」
「そう。そこが問題だ」
サナがカナタの脚を指さし、カナタは真面目くさって抑揚に頷いた。
如何せん、カナタの服はラフなGパンTシャツと変装セットのみ。当然、変装服は普段使いしたくない。ロッカーを探すにしろ、奴らを探るにしろ、外行きの服は必要なのだ。ついでに鍛錬ができれば言う事はない。
故にカナタは、真剣な顔をしてサナに相談した。
「運動できる服が欲しい」
「どうぞ」
「違う。そうじゃない」
サナが脇の洗濯物から体操服を取り出し、そのままカナタへ差し出した。しかしカナタは、眉をハの字にして首を横に振る。
「二着あるから、毎日替えられるわよ」
「そういう問題でもないんだよ…っ」
頭を抱えて突っ伏すカナタに、サナは頬杖を突いて呆れながらも、内心では何気ない会話を楽しんでいた。その口角は、常に柔らかく上がっている
「パンツはあるからいいじゃない。新品が二つも」
「それを女子に買わせてる時点で俺のプライドは粉々なんだよ」
「既に砕けてるなら今更気にしなくていいじゃない。諦めてコレ着たら?」
そのセリフに、カナタは天啓を受けた。背筋に電流が走る。
確かに、サナの言うとおりだ。既にノーパン体操服という痴態を演じた己に、最早プライドなどあるわけがない。何をいまさら恥じ入るというのだろうか。
そう思い至ったカナタは、組んだ両手で口元を隠し、眼頭に力を入れて、渋い声で言った。
「…パンツが穿けるだけ儲けもの、か」
「真面目に言うのやめて」
自分を見るサナの目に、カナタはちょっぴり傷ついた。
今後も奴らを探るのであれば、パルクールのミスだけでなく、体力が尽きてしまっても捕まって死ぬのだ。カナタの中で鍛錬の優先順位は非常に高かった。出来ればトレーニングウェアが欲しい所だが、この裏事情は流石に話せないし、居候の身でそんな我儘が言えるはずもない。現状を鑑みれば、自身の尊厳など取るに足らない要素なのだ。
背に腹は代えられまいと、悲壮な決意を抱く少年を尻目に、サナは再び茶を啜る。
「ロッカーを見つけるまでの辛抱だ…」
「ランニングって、そこまでしてすることかしら…」
泣きそうな顔でつぶやくカナタに、サナは半目で口にした。
初めての出会いから4日目。存外気兼ねない関係を築けているが、価値観の違いが埋まるにはまだまだコミュニケーションが足りていなかった。
「行ってきます。今日は夕飯遅くなるから」
「俺は昼に一度戻るよ。オミ」
「…あ、うん…、行ってらっしゃ…い?」
ようやく目を覚まして朝食の残りを食べていたオミは、共に出ていく二人を見やって目を丸くした。
ノースリーブのパーカーにショートパンツという、いつもの外行きの格好をした姉。その横に並ぶのは、胸元に“有澤”と書かれた白地の上衣に紺色の短パンという特殊なお下がりを纏ったカナタ。思わず見送りはしたが、見覚えのあるその絵面に唖然とする。
ドアが閉まり、外から鍵をかける音がした。遠のく二人の足音を微かに聞きながら、オミが呟く。
「……え?カナタ、それで出かけるの?」
オミの箸は、しばらく止まっていた。




