014 弟の矜持
カナタは、随分と回復した軽い体を駆使し、全力で走っていた。その顔は、僅かに焦りを孕んでいる。
昨日、サナに肩を支えられて通った道。それを必死に思い出しながら逆向きに辿る。程なくして、住宅街と風俗街の境目に至り、テナント型のビルが立ち並ぶ区画が少し遠めに見えてきた。
交差点の手前で立ち止まり、ビル群を睨みつけて昨日の出来事を思い返す。
追われて、追われて、追われて、追われて。
満身創痍の果て、最後の最後に面と向かって対峙した男。その眼光と叩きつけられた殺気がフラッシュバックし、身が竦む。
昨日と同じ道を、昨日と同じ時間に通る恐怖。堪らず俯いて歯を食いしばり、カナタは目を瞑った。
「次会ったら五体満足ではいられない…か」
銃取引をしていたヤクザの一人、強面の屈強な男に告げられた忠告。その言葉を反芻した上で。
「はっ!」
鼻で笑った。
知ったことかと、震える拳に力を籠める。
―― サナも今、その恐怖に震えているかもしれない。
その思いを胸に目を見開いたカナタ。勢いよく顔を上げると、敵の根城へ向けて駆けだした。
「カナタ?」
「うぇ!?」
直後、飛び込んだ交差点の右から、聞き覚えのある声をかけられた。急ブレーキをかけて慌てて振り向くと、エコバッグを下げたサナがキョトンとした顔で駆け寄ってきた。
「どうしたのよ、その恰好のままで」
「え…あ、いや」
カナタの顔は、風俗街の方向とサナの来た方向を行ったり来たりしている。その行動の意味が分からず、サナは首を傾げた。
少女の姿を上から下まで眺めたカナタは、恐る恐る口を開く。
「昨日と同じバイト、だったんだよな?」
「そうよ?」
「じゃあ帰り道って…」
ああ、そう言う事、と。サナはその一言でカナタの思考を察した。
「さすがに迂回したわよ。買い物もあったし」
「そう、か」
真顔のままの少年が、一つ息を吐いた。心底思い至らなかったといった様子のカナタに、サナが眉根を寄せる。
「…昨日の今日で同じ道通るほど考え無しと思われてたの?」
「うん」
「…あんたねぇ…っ」
そっぽを向いて頭を掻くカナタを、サナは頬をヒクつかせて睨みつけた。
寝癖だらけの頭。昨日のクマを浮かべた疲労困憊の様子からすれば、今の今まで寝ていたのかもしれない。
起き抜けに心配して飛び出してくれたことは素直に嬉しい。が、どうもこの馬鹿正直さは何とかならないものか。
しかし、サナはため息をつきかけて気が付いた。
その手が、震えていることに。
昨日と同じだ。恐怖を飲み込んで、危地に踏み込もうとした。助けようとしてくれた。事実、声をかけた時、カナタは既に駆け出していたのだ。声をかけるのが数秒遅れていたら、そのまま風俗街に乗り込んでいたかもしれない。
サナは目を細め、カナタの震える手を取った。
「ありがとう。でも、無理しないで」
「無理なんかしてねぇし」
「そう?」
目を逸らし、唇を尖らせて、カナタはサナに取られている手を振った。離せという合図だが、サナはその様子に頓着せず、手を握ったままクスクスと笑った。
「いつまでイチャついてるの?お二人さん」
「ひゃあ!」
唐突にかけられた声に、サナが悲鳴を上げる。
「お、オミ!?」
振り向くと自転車に跨った弟が、二人の間で視線を行ったり来たりさせていた。そのまま、いまだ繋がっている手を見た後、ぶしつけにカナタを眺める。
「…ふーん」
「なんだよ?」
「カナタが飛び出したのは、姉ちゃんを迎えに行くためなの?」
「いや。せっかく逃がした兎が同じ狼に喰われてないか気になっただけ。性的に。いだだだっ」
カナタの例えに、サナがジト目で握る手に力を込め、オミは嫌な予感に眉根を寄せた。
「…昨日何があったの?」
「聞いてないのか?…痛い、痛いって!握力つえーなお前!」
「詳しくは何も。助けてもらったとしか」
先ほどまでとは別の理由で、切実に握手を振りほどこうと手を振るカナタ。その様子を一顧だにせず、オミは腕を組んで姉を睨んだ。その視線に、サナは肩を跳ねさせる。握り潰さんとしていた手の力も自然と緩まった。
「…」
「…」
その様子を不思議に思ったカナタがサナへ視線を向けると、彼女は逃げるようにツイっと視線を逸らした。
「お前、蚊帳の外はないだろ」
「…分かってるわよ」
しおらしいサナの様子に、まぁ自分からは言いにくいよな、と。カナタはため息をついて、できるだけ簡潔にまとめた。
「男三人に連れられて風俗嬢になろうとしてたコイツを、無理矢理さらって逃げたんだ」
「…姉ちゃん、本当?」
「……うん」
「"なろうとしてた"って、自分の意志で付いて行ったの?」
「そう、ね」
その答えに、オミは自転車から降りてスタンドを立てた。無言のまま姉の前に立ったオミ。口を引き結び、俯く彼女の顔を見やるなり。
問答無用で、その頬を引っ叩いた。
サナの頬に、乾いた音が鳴る。
「ちょっ」
「カナタ黙ってて」
制止の声を上げようとしたカナタは、オミの目を見て何も言えなくなった。
幼い大きな目に、零れんばかりの涙を溜めていたからだ。
「そういう仕事がしたくてやるなら、何も言わない」
意識を向け直したオミは、許容しがたい姉の暴挙に全身を強張らせていた。
無論、その手の職種そのものに思う所がある訳ではない。それで生計を立てている人もいるのだ。亡くなった自分たちの母もそうだった。そういった選択を否定する気はさらさらない。
ただし、姉が自らの意思でそれを選ぶとなると話は別だ。
サナの頬を叩いたオミの手は、いまだ小さく震えていた。
「でも、姉ちゃんはそうじゃないでしょ」
他人の情欲や悪意に敏感な姉が、その状況でどれほどの嫌悪と恐怖に苛まれるか、想像のつかない弟ではなかった。
それを飲み込んで、姉が自分の意思で男たちについていったというのなら、そこにどれほどの覚悟を込めたのだろうか。目の前にした男たちの思惑に、どれ程の恐怖を抱いただろうか。
「そんな無理をさせてまで、まともな生活がしたいなんて思ってない」
俯いて、一度だけ目を擦ったオミは、顔を上げて姉を睨みつけた。
その視線を受けて、サナは弱々しく眉をハの字にする。泣きそうな程に顔をゆがめている弟の様に、自身の浅慮を改めて自覚した。
「…次やったら、許さないからね」
「…うん、もうしない。ごめんなさい」
しっかりと目線を合わせて宣言した姉に、オミは表情を緩めて息を吐いた。もう一度ぐしぐしと溜まった涙を袖口で拭きとる。
そのまま姉の恩人に礼を言うため、カナタの方を向いた。
「ありがとう、カナタ。姉ちゃんを止めてくれて…。カナタ?」
先程までそこに居たはずのカナタの姿がない。少し視線を巡らせると、ちょっと離れた塀際で壁に向いてしゃがみ込み、両手で顔を抑えている姿を見つけた。
「…何してるの?」
「ほっといてくれ。姉のすねかじりな自分に恥じ入ってるだけだから」
「あ、そう」
また意味の分からないことを、と。丸く収まった姉弟が、煤けた背中を半目で眺めた。
すると、徐に立ち上がったカナタがくるりと振り返り、スタスタとオミの前までやってきた。すわ何事かと眉根を寄せたオミの手を取って、カナタが告げる。
「師匠と呼んでいいですか?」
「やだよ。何の師匠だよ」
「弟のプライドについて、ぜひともご教授いただきたい」
「意味わかんない」
超真剣な顔で迫るカナタに、オミは気味悪そうに顔をしかめる。そんな男二人を眺めるサナは、思いのほか仲の良さそうな様子に、少し安堵した。
姉弟にとって、会ったばかりのこの少年は、已然つかみどころが無い。素性も変わらず不明のままだ。
それでも、サナもオミも、カナタに対する不信感は既に無かった。
「っていうかカナタ。あんた今ノーパンよね?」
「思い出させんなよ!バカ野郎!」
「…ノーパンで姉ちゃんの体操服着てるの?しかも外で?」
「やめて師匠!字面がド変態!!」
「師匠いうな」
夏の陽に焼けるアスファルトの匂い。
まだまだ明るい夕方の空。
川の字に伸びる影。
頑張り屋の姉と、姉思いの弟。たった二人で支え合って暮らすその輪の中に。
素っ頓狂に騒ぐ少年の声が、自然と溶け込んでいた。




