第二章 夜中の学校(二)
「まだ治ってないんだな」
逃走中の脳みそについて手掛かりを掴んだ時は、陽が昇っているうちにあの崖下に行って情報提供、そういうルールを設けていたため部活後は自主練せずに自転車を飛ばした。プルート、と呼べば木々の隙間からぬっと真っ黒い顔が出てきて、唐突な登場を予期していたあたしは悲鳴を上げずに済んだが、かけられた言葉に呆れて肩を竦める。
「当たり前でしょ、二日じゃ治らないわよ」
「生きた人間って感じだ。とても素敵じゃないか?」
「そう感じたことはないわね。痛いし」
昨日散々わけの分からない説明を聞かされた身としては、物怖じせずに会話できる程度には進展していると思いたい。うん、目の前で案山子が人間のように動いて話すのには多少耐性がついたぞ。
「さっそく、あなたの脳みそのことなんだけれど」
部員たちはまた的が動的になってやしないか不安と期待を寄せていたけど、練習中何も起こらなかった。ここに来る前に一応校舎内も見て回ったし、工芸室で自己主張激しい石膏像に悪戦苦闘している美術部員たちに話も訊いた。おかしなことは何もなかった。
「まずね、昨日のことなんだけど、あなたと会う前に学校で、……何?」
プルートはあたしの前まで歩み寄り、軍手の両掌をあたしの剥き出しの腕に翳している。日焼けた肌の擦過傷はちょっと赤く、いくつか貼られた絆創膏は汗ばんでいた。
沈黙を不気味に思い身を引いたところで、「くそっ」プルートが悔し気に地面を蹴る。右足の長靴がすっぽ抜けるも、そのまま藁の詰まった足で地団駄を踏んだ。す、凄い。黒い靴下まで履いている。嘉納さんの愛だ。
「な、何? どうしたの?」
「簡単な魔法さえ使えない、おれはなんて無能なんだ!」
「仕方ないじゃない、あなた今、脳がないんだから」
こんな励まし方生まれて初めてだ。何やらひどく落ち込んだプルートを宥めすかしながら、飛んで行った長靴を拾い渡してやる。さっき魔法を使おうとしたのかしら。あたしに向かって? 得体が知れなくて怖い。ああでも、魔法使いが魔法を使うところは見てみたいかも。
「ね、プルート、あたしも早くあなたがもとの魔法使いに戻れることを、望んでるわ」
相川のことを知りたい自分のためにも、この案山子がハデスの魔法使いだと信じて疑わないようにしよう。そこを疑ってしまったら、きっと何もできなくなる。
「大丈夫よ、あのね、あなたが言ったおかしなこと、あったのよ」
長靴を履き直したプルートが丸めていた背中を正した。
「どんなおかしなことだった?」
切り替えが早い。声に喜楽が含まれまくっている。
「……動的って分かる?」
「もちろんだとも。射手をからかうことに長けた動く的だろう」
「その的があたしの高校に出たの」
「どこがおかしいんだ?」
心底不思議、というふうに首を傾げられた。元々の常識が違うから仕方がないのだ、めげるな。
「ええっと、今の時代じゃほとんど見ないのよ、動的は」
「待て待て、じゃあ弓で何を射る? 銃で何を撃つ?」
「普通の的。動きもしないし、煽ってもこない、ただの的を射るわ。とても平和で、綺麗なスポーツなの、弓道は。これを基盤に考えてちょうだい。廃止にされた制度の、誰も持ち寄っていない動的が、突然こんな田舎の高校に現れたのよ。おかしいでしょう?」
「野生の動的だったんじゃないか?」
「はい?」
カツン。指を鳴らし、プルートは顎に手をやった。
「使用制度が廃止されただけで、作られていないわけじゃないんだろう。いつかのどこかで逃げ出した動的が、たまには的の役に戻ってやろうとしたんじゃないか?」
「正気?」
「トチ狂ってなきゃ自ら的に戻ろうなんて思わないんじゃないか。いや、おれは的じゃないから正しいことは分からんが」
「あなたの発想が正しくないことは分かる」
野生の動的ってなんだ。動的だろうと普通の的だろうと、的は的にされるために存在している。あれに意思はない。
「ははは、これは面白いな。ぜひ解明したい!」
「落ち着いてよ、」――相川。続けて言いそうになった名前にゾッとして頭を振った。冗談じゃない。あらゆる可能性を考慮し面白がるところは、確かに相川と同じにおいがするけど。あたしの親友はこんな聞く耳もたずな胡散臭い案山子じゃない。
「プルート」
でもあたしは、この案山子を好きそうな親友の、最後は冒険に付き合ってしまうストッパー役だったので。
「その可能性があるなら、脳みそってこともあるわよね。何しろ、他でもないあなたの脳みそだもの。野生の動的になりたいって思うかも」
軌道修正してあげなきゃ駄目なのだ。
「……確かに。おれの脳みそなら喜んで的になるだろうな」
「でしょ?」
しきりに頷き、プルートは両腕を広げた。
「富子、きみは本当に救いの手だ! こんなに早く手掛かりが掴めると思ってなかった。冥界に春が来たみたいだ」
「……冥界から春が去った、じゃなくて?」
「何?」
お互い黙り込み、あたしは記憶の教科書を探った。
「諺よね。どういう意味?」
「暗闇に射す光。手も足も出ない状況で、希望が立つ意味だ。困難の終わりとも言える」
「冥界から春が去る、でしょ?」
「冥界に春が来る、だろ」
地上と地下では諺も異なるのだ。こういう違いは楽しいかもしれない。冥界から春が去る。春をもたらす農耕の女神ペルセポネが、無理やり妻にしてきた冥王ハデスから解放され、地上に実りある季節を運んでくることから生まれた言葉。大抵の人は、ハデスとペルセポネは不仲だと思っている。言ってしまえば誘拐犯と被害者だからだ。
「ハデスのために言っておくが」
プルートは咳払いし、忠義厚い声音を出した。
「ハデスは心の底からお后さまを愛している。正室に迎えた時は、本当に、死人の国に春が来たと思ったんだ。あれほど幸福に満ちたハデスと冥界は見たことがなかった」
「……夫婦仲、いいの?」
「最初はあまり。でも今はいい」
最初と今にどれだけの時間差があることだろう。数百年? 数千年? 神々の時間は計り知れない。
「地上で春を迎える頃、冥界は、……言葉にできないくらい、大変なことになる。今年はおれでさえ壊されそうになった」
「……それで、冥界に春が来る、なのね」
「ああ。そして夏の間は、お后さまとの安穏な時間を守れるよう、おれとプロセルピナが神命を全うしなきゃならない。きみには感謝してもしきれない。まさしく春ということだ。ありがとう」
紳士のように恭しく礼を言われ、むず痒くなってしまう。顔がないくせに、誠実さが伝わってくるから困るのだ。電話口の向こうが詐欺師かもしれないと疑えない祖母の気持ちがよく分かる。
「い、いいのよ。それより、ほら、脳みそ、どうするの?」
くるりと身を翻し、自信満々な態度をされた。
「的が現れた場所に行ってみるしかないな。きみの通う学校に」
「今からっ?」
「まさか。案山子のフリをしながら歩くのはない骨が折れる。きみが昼間に情報収集、おれが夜中に探索。決めただろ?」
「夜中の学校に行くの? 何時に?」
「当たり前だろう。十時くらいなら誰もいないか」
「駄目よ!」
蝉には負けるが、自分でも驚くくらい大きな声だった。木々のおかげで日陰になっているのに、一瞬眩暈が襲う。
門を閉じた学び舎に、忍び入るべからず。どんな不良だってこの決まりは破らない。相川だって諦めた案件なのだ。
「一人で行くの?」
不安を全面に押し出して訊ねると、プルートはあたしの肩に手を置く仕草をした。なぜか触れないぎりぎりの間隔をあけられている。
「安心してくれ、富子。こっちの人間が夜に好んで出歩かないのは知っているし、夜が危険だということも知っている。たとえきみが、おれに着いてきたくともこれだけは譲れない。おやすみ良い夢を。もし失敗したら明日からもまた頼む」
てんで見当違いなことを宣った案山子は、「ちょっと、待っ――」制止空しく木々の合間を縫って消えて行ってしまった。
ああもう、それ見たことか。
あたしはストッパー役を完遂できそうにない。
「お母さん、夜の学校って行ったことある?」
遅めの昼食である冷奴を崩しながら、あくまで取り留めのない会話の始まりですよという態度で問うと、向かいに座ってテレビを見ていた母はこっちに首をやった。緩やかに二度見され、咀嚼する口を押さえながら「なんて?」片眉を上げる。分かるわ、お母さん。あたしも普段は規則正しい身内にそんなこと訊かれたら、もう一度言って欲しいって思う。
「……夜の学校、行ったことある?」
「八時以降の?」
「うん」
「ないわよ」
そりゃそうだ。あたしはすぐに飲み込めてしまう冷奴をいつまでも噛んでいたい心地になった。母の次の言葉が予想できるからだ。「どうして?」ほら、半笑いに疑いを乗せて訊かれる。
あらかじめ用意しておいた得意じゃない嘘を、といっても半分は本当だが、内心どきどきしながらも吐いた。
「なんかね、ヨースケくんの友だちが、夜の学校が気になってるんだって」
あたしの友だち、と言わなかったのは、高校生にもなってそんな発言をする人間が周りにいないからだ。小学生なら、まだ無邪気に口にしてもおかしくないだろうから。
あたしたち人間は、原則、陽が沈んだら活動を自制する。誰に決められたわけでもないそれは、恐らく日本だけでなく全世界の認識だ。いかに仕事が忙しい勤め人でも、夜九時までには家に帰ろうとするし、余程の事情がない限り帰らされる。
夜は、あたしたちが遊んだり勉強したり仕事したりする時間ではない。家にいる分にはいいけれど、外で何かするとなると不良か犯罪者を見るような目で見られるだろう。全面的に許容されるのはお祭りの時か大晦日などの、正式な行事の時だけだった。
あたしたちは本能的に、知っているのだ。死に恐怖するかの如く、暗闇があたしたちにとって生きづらく、危ないところであると。
夜を活動時間として生きる生き物の邪魔をしてはならない。さすれば、あたしたち弱い人間は、平穏無事に眠りに抱かれることができる。
「気になるって言ってもねえ。中には絶対入れないでしょうね」
豚の生姜焼きで千切りキャベツを巻き取りながら、母は至極正しいことを言った。
「そうよね」
でもあの案山子、忍び込むつもりなのよ、お母さん。
喉がぐっと詰まる思いがして、何気ないふうに麦茶を飲む。言ったら駄目だ。口止めされているわけじゃない。でも、これは、あたしとプルートのことであって、あんまり大勢に知られたら困るかもしれないし、そもそも信じて貰えるか怪しいし、だからつまり――秘密なのだから、下手なことを漏らすべきじゃない。
「夜の学校って、どんななのかな」
真面目で目立つ方じゃない一人娘のこの発言が、どうか変に思われませんよう、十二神の一柱であり女性の守護神であるヘラに祈った。
「あんた――」
非行に走るわけじゃない。母が続きを言う前に弁解しようとしたが、「ふふっ」息が漏れ出るように笑われる。「な、何?」あっけにとられ困惑していると、笑いを引っ込めた母が懐かしむような眼差しを送ってきた。
「覚えてる? 前にも同じこと訊かれたわ」
「…………覚えてる」
忘れるわけない。小学五年生の頃だった。相川が星を閉じ込めたような目玉と恋する乙女も形無しな顔でうっとり「ぼくたちが帰ったあとの学校って、起きてるのかな? 眠ってるのかな? 警備クラゲの体内ってどうなってるんだろう。な、富子ちゃん」高学年になってからやめてと注意し「佐野ちゃん」と改めさせたあたしの呼び方をついもとに戻すくらい、夜中の学校に興味を示していた。
夜中の学校についての考察が数日長く続いたから、あたしも母に訊いたのだ。母は今と同じ答え方をして、「由馬くんと一緒にいると退屈しないわね」からりと笑っていた。その母も、相川がのちに夜の小学校に忍び込もうとして失敗した話を聞いた時は、さすがに仰天してあたしに詰め寄ったけれども。
「……お母さん、不安だった?」
「ん?」
「あたしが相川に誑かされて、悪い道に行くんじゃないかって」
「何それ」
「いや、だって、結構、あいつ絡みで叱られたこと多かったし……」
「それはね、心配だったから。あんた面倒見はいいけど鈍臭いし、今みたいに怪我だってするし。由馬くんは変わった子だとは思ってたけど、悪い子じゃなかったじゃない」
「うん……」
あたしと相川は親友だった。お互いの親からも、ご近所さんからも、学校からも、いいコンビだと思われていた。中学でもそれは変わらないのだと、みんな当たり前に思ってた。
それがどうして、あたしになんの断りもなく死んでしまったの。
夏になると相川の思い出話が増える。ううん、自分が勝手に思い出しているだけで、実際は話したりなんかしなかった。お母さんも気を利かせてくれていたのか、相川の名を出すこともしなかった。
「なんかあった?」
あたしの母は、下げた眦でこちらをじっと見た。
首を振り、ちょっとだけ笑って、あたしは止まっていた箸を動かした。
「今思うと、一緒に夜の学校忍び込んどけば良かったなあって」
あの時、相川は誘ってくれなかった。いつも相川の暴走気味の発想に待ったをかけて、高確率で流される。夜中の学校が気になっていた彼に、超自然的にあたしも共犯をすることになるんだろうなと、ほんの少しだけ、期待していた。でもあいつは、一人勝手に冒険して盛大に失敗したことを、後日とても楽しそうに話してきやがったのである。
お母さんごめんなさい。
今夜あたしは、平穏無事な眠りにつけそうにないです。