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ハデスの魔法使い  作者: 年越し蕎麦
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第一章 喋る案山子(三)

 菰田(こもだ)高校、弓道部。あたしが所属している弱小弓道部、総勢十二人は、来月の半ば頃にある大会に向けて、夏休み中は午前練が必ずある。

 それは崖から落ちようが絶対で、どうにも家でじっと休むことができなかったあたしは、怪我を負った身体のまま弓道場に来ていた。何せ寝ても覚めても昨日のこと――ハデスの魔法使いと宣った案山子――がぶり返してくるものだから。

「ほっぺ怪我してんのに……ほんとにやるの? 見学とかさあ、せめて矢取りに勤しんだ方がいいって」

 朝礼を終え、それぞれが弦を張ったり弓懸(ゆがけ)をつけたりしている道場内で、あたしの横に座る美緒が、ちょんと膝をつついてきた。

 半袖で隠しきれていない怪我の事情を説明して、朝礼開始まで見学を推してきたのは彼女だ。あたしが見学をしない意思と、部長副部長の「やれるとこまでやったらいいよ」アドバイスに折れてくれたようだったけれど、やっぱり不安らしい。

 胸当てをつけつつ、枝葉で擦った右頬を笑みの形にする。絆創膏が引きつった。

「大丈夫だよ。さっき試したけど、ちゃんと引ききれるし、……うまく離れれば弦がほっぺた打つなんてこともない、はず」

 不確かな言葉に友人は更に眉根を寄せる。

「嫌だよ私。弾け飛ぶ弦と絆創膏と、カサブタと血を見るのは」

「そんな大袈裟になんないよ……そもそもあたし、未だにほっぺ打ったことないし」

「じ、自慢か富ちゃん……あれ初めてやったら、ほんとびっくりするからな。目の前で星が散るから。めっちゃ痛いからな」

 一年生の時に、おかしな射形で盛大に頬を弦で打ちつけた美緒の言葉は真に迫っていて、あたしは苦笑して頷いた。

「気をつける」

 本音を言うと、私服の長ジャージズボンに隠れている足は青痣だらけで、こうして正座しているだけで痛い。

 けどだって、大会は近いしじっとしていると落ち着かないし、この怪我でどこまでやれるか気になるし、落ち着かないし。

 弓を引いている時は何も考えずに済むから、楽なんだもの。

「佐野先輩、無理だってなったらすぐにやめましょうね」

 同じ立ちの後輩にまで声をかけられ、申し訳ないながらも「分かってるよ、ありがと」と言うしかなく。

 (かけ)もつけてギリ粉もぎりぎりして、あとは大人しく、通常通りを装って自分たちの番まで待つのみだった。

 一立ち目は副部長に同輩男子が一人、後輩が二人。

 大前(おおまえ)から(おち)まで、中ったのは副部長の二本と同輩男子の一本のみ。計三本。

「弱小……」

 隣で美緒がぼそりと呟いた。矢が的に中る際のかけ声「よォし!」でお腹の打撲傷を響かせていたあたしは、内心だけで同意しておく。(三本じゃ予選を通過できないのだ)

 矢取りも終わり、あたしたちの番が回ってきた。あたしの前にいる大前の立ち位置の後輩が、静かに「行きます」とこちらを振り返る。いつもより気遣わしげな気配に、「はい」しっかりと、小声で答えた。

 前を向き直った後輩が左足を踏み出し、それに続く。

 後輩の射法八節は拙いながらも進み、一本は早々に射られた。的のすぐ横の安土に突き刺さる。惜しい……。

 既に弓構えを取っていたあたしは、静かにゆっくり弓を打ち起こし、引き分けた。

 普段は軽いくらいの十一キロの弓が、やけに重く感じた。胴造りをしている下半身が、口割りに持っていく右肘が、ずきりと痛む。

 それでもなんだか外す気がしなかった。弓道を二年して分かったことの一つに、矢が中る予感がした場合は十中八九、中るというのがある。

 二番の的だけを見て、会を保ち――。

 今だ。

 矢が離れた。

 ――バンッ。貼ったばかりの新品的に、小気味よい音が鳴る。

「え……っ」

 残心どころではなかった。

 あたしは二番の的を凝視したまま、弓を取り落とした。がららんと派手な音が道場に響く。しかし誰も咎めなかった。みんながみんな、同じところを見ていただろうから。

 的から腕が生えていた。

 二番の、あたしが射ろうとしていた的、その枠から、黒白模様の両腕が、ぼこりと生えだしたのだ。

 真っ直ぐ中ったと思った音は、あたしの矢を掴みとめた音だった。「だ……!」落の部長が叫ぶ。

「誰、動的なんて持ってきたやつ!?」

 動的(どうまと)

 弓道新書に載っているものでしか見聞きしたことない、動く的のことだった。

 確か、遥か昔の戦国時代での、射手による射手のためだけの特別な的。作り方は案山子と同様で、神の力をこめた木などで動きを得るそれは、弓道がスポーツ競技になってからは廃止された制度のはずだった。

「あ、あたしの矢が……!」

 二十八メートル離れていても分かった。あたしの緑色の矢が、掴まれているところから曲がっている!

「おい誰か先生呼んでこい!」「何あれすげえ初めて見た!」「きもっちわり」一瞬にして道場内が騒然に変わる。背後の美緒が「ちょっと誰か写真! 写真撮って!」嬉々として携帯を要求していた。

 矢取り場からも悲鳴が聞こえる。あっちは的が目と鼻の先だから、とてつもない驚愕に違いない。

 あたしは、ただただ目を見張って、そこから動けずにいた。

 騒々しい中、筋骨隆々な腕を生やした的は、安土に固定している梁から自身を引き抜くと、矢を投げ捨て。

 蜘蛛かカマドウマの如き動きで矢取り場に飛んだ。

「おぎゃああ!」

 憐れな後輩たちの悲鳴がつんざく。矢道を囲うネット壁越しに、ぴょんぴょん飛び跳ね物凄い速さで遠ざかっていく動的が見えた。

 道場内の人間が外に出て行く足音を聞きながら、あたしは、どうしてなんだろうと思った。

 どうしてなんだろう。

 昨日から、おかしい。

 突如として的から生えた白黒の腕と、ぺらぺら喋る黒いのっぺらぼうを重ねて考えてしまう。

 どちらも、本来ならあり得ないことなのに。

 ふと矢道に視線を戻すと、無残に曲げられたあたしの矢が映る。……拾わなきゃ。みんな動的を追って行ったみたいだし、ブザーを鳴らさずこのまま矢道に入っても構わないだろう。靴を履いて矢道に下りると、動的を探す(探してどうするのだろう)声と蝉の鳴き声に負けそうな、何かが震動する音が聞こえた。

 背後を振り返る。道場の奥、壁に立てかけてある弓たちが、かたかたと微かに揺れていた。

 また、地震だ。体感できないほど、とても小さい。

 ポセイドンは一体何に対してご不満を抱いているのだろうか。

 ああどうしよう、分からないことがありすぎる。

 大体、夏という季節がいけない。夏はろくなことがない。幼稚園の頃、相川に河童を釣りに行こうと川に誘われ、二人して見事に流された。小学低学年、朝顔を夜に咲かすのだと豪語した相川によって観察日記をつける暇もなく枯らされた。四年生の時は一緒に縁日に行って「花火を打ち下げたらどうだろう。そしたら蟻んこだって首を痛めずに花火を見られるかもしれない」「相川、そんなことしたらあたしたちが体中を痛めるよ」延々と議論してりんご飴を食べ損ねた。それから、それから、中学一年の夏は、学校帰りに偶然見つけた幸運の象徴、ツチノコを追いかけて、……。

 相川と過ごしたろくでもない夏は、そこで終わっている。本当にどうしようもない。地震の原因も喋る案山子も動く的も、相川が喜んで飛びつく謎だ。相川ならこの疑問を放っときはしないし、あたしは辟易しつつも彼のストッパー役(なんだかんだで最後は丸め込まれることが多かったけれど)を買って出るんだ。

 でもそれは四年前までの話だ。相川はもういない。あたしは何かに対して必要以上の不思議を感じることはなかったし、何者にも振り回されることなく日常を送っていた。

 それが、どうしたというのだろう。あの案山子、あいつのせいで、おかしな具合になっている。

 もしかしたら、と。

 ヨースケくんたちのような、きらきらした眼差しで、また不思議のために駆け回れるんじゃないかしら、と。

 思ってしまっている。いつの間にか。

「相川はいないんだから……」

 だから、あたしはあたしの夏を生きなければいけないのに。

 頭を振って矢のもとまで歩く。まだ後ろで弓がかたかた鳴っていた。この地震、いつまで続くのだろう。ポセイドンは何を考えているのだろう。神職の人たちは神の機嫌を取れるのだろうか。約七十年前は、今の日本のように連日地震に見舞われていたイギリスのチャンネル諸島が、ご機嫌取りに失敗してひどい水害に襲われたと授業で習った。ただし死者はゼロ、その奇跡はポセイドンの魔法使いのおかげであるとまことしやかに噂されていたらしい。ひょっとして、今回もその魔法使いが人知れず動いていたりして。

「…………」

 ますますあの案山子が『プルート』だという信憑性が薄れる。魔法使いがああも簡単に自らを魔法使いだと言うわけがない。あたしは馬鹿にされたんだ。大体なんなのだあの態度は。脳みそ探しを手伝ってほしい? 初対面のいたいけな人間の女に、ろくすっぽな説明もしないで自分の頼みを押しつけてくるとは、どういう了見なのだ。しかも、あたしが手伝うことを信じて疑っていない様子で。思い出して腹が立ってきた。あんなわけの分からない生き物相手に、ただのボランティアで何かしてあげるほどあたしは優しくな――

 ――曲がった矢を拾い上げて、浮かんできたアイデアに動きをとめた。

 この矢はもう使えない。他の五本も羽がぼろぼろで、ちょうどいいから弓具屋さんが来た時に新しく買い替えようと決める。でも矢が曲がった原因はあたしじゃないのだから、顧問の先生にジュースの一本でもねだったとて罰は当たらないだろう。

 ギブ&テイク、メリットとデメリット、だ。

「ハデスの魔法使い……」


 ――きみは決断するだろう。魔法使いの脳みそ探し、なんて光栄な役目なのかしら! 受けざるを得ない! ってな――


 案山子の声が再生される。……そう、そうね、ボランティアじゃない。

 光栄な役目? あたしがそんな無欲人間だと思ったのなら大間違いだ。

 地震はやんでいた。代わりに、あたしの心臓は思いついたあるアイデアによって少しばかり鼓動を速める。




 部活を終えてからのあたしの行動は迅速だった。

 美緒や仲間とのお喋りを早々に切り上げ、午後の自主練は怪我を理由に辞退して、理科棟にある図書室に向かう。途中、理科準備室前に設置されている骨格標本の手首が、あたしの駆け抜けた風圧で外れ落ち、怒った彼が地団駄を踏んだものだから謝って手首をつけてあげた。(いい加減、先生は彼の関節のネジを強く締め直すべきだ)

 図書室のドアを開け中に入り、冷房に落ち着く間も惜しくて、目当ての『オリュンポス十二神関連』コーナーに進む。

 サボりか休憩か、野球部員が一人二人いるだけの、静かな空間だった。知り合いじゃないことに安堵して、奥まった隅にある本棚の前で立ち止まり、背表紙に指を這わせ本を探す。

 『オリュンポス十二神と他三神』『ゼウスの英雄神話』『ヘラの女性守護』『アテナの都市』……もっと違うやつ……『ポセイドンにまつわる恋愛』……『ハデスによる地下世界』……『神々と魔法使い』、あった、これだ!

 突き指しそうな勢いで、黒く古びた背表紙の、『神々と魔法使い』を抜き取る。表紙は童話のような絵柄で太陽と月が描かれており、あまり難しくはなさそうに見えた。机につくのももどかしくて、その場で本を開く。注意書きがあった。


 始めに。

 「魔法使い」についての資料は、創世から四十七億三千年経った現在でも、非常に数が少なく、不明な点が多い。この本も例に漏れず、あなたに確かなことをお届けするのが難しいだろう。全ては、数少ない資料と伝説、伝承をもとに、私の推測と想像で説明する、あてにはならないものである。

 それでもあなたが、この世界の不思議に興味を持ってくれることを信じて、私は記すことにしよう。――バーティ・K・テナート


 このバーティという名前、どこかで見たことがあるような。どこだったかしら。

 ぺらぺらとページをめくり、目次を確かめる。『ゼウスとジュピター』『ヘラとジュノー』『アテナとミネルヴァ』十二神順ということは、ハデスは後ろらへんね。最後から二番目、『ハデスとプルート』の項目を見つけ、そこまでページを飛ばそうとしたら、多くの挿絵が目に入った。

 オリュンポス山や、神々の姿、想像した魔法使いの姿まで描いてある。どれも化け物じみていて、その童話風のおどろおどろしい、けれど魅力的な絵柄で、バーティが誰だったかを思い出した。

 子どもが一度は読み聞かされる絵本『不思議の国のカルサス』の作者だ。ずっと昔の絵本作家。彼の作品はどれもオリュンポス神を題材にしていたから、魔法使いについての見解を述べてもおかしくはない。

 あたしは黙々と読み進めた。

 絵本作家が記したこれは、文字だけの分厚い辞典などより読みやすかったが、最初に書かれていた通り憶測が多く結局魔法使いについては分からないことだらけというのが分かった。

 それでも収穫はある。

 魔法使いは神々が使役する特別な存在で、容姿、魔力、性格は文献ごとに変化しているらしいこと。

 十二神ではないディオニュソス、ハデス、ペルセポネの魔法使いは特に情報が乏しいこと。

 ハデスの魔法使いは、ハデスとペルセポネの次に、死者に近い者であること。

 悪魔と混同されがちだが、生者には危害を加えないであろうこと。

 プルートの想像絵は、馬と人と鉱物をかけ合わせたような見た目をしていた。

 本を閉じる。どこにも、どこにも案山子という単語はなかった。ならつまり、まるで相川みたいな考え方で癪だけど、あの案山子が本当に魔法使いという可能性が、万が一、億が一にもあるということだ。彼らの容姿は、決まっていないのだから。

 そして、あたしが一等知りたかったプルートと冥界の関係性。

 他の魔法使いが主のもとに仕えるのと同様、プルートは冥界で、ハデスの仕事を手伝っている。

 生者が決して関わることのない、死者の管理をしていることだろう。

 ページにはその一文があった。

 充分だった。

 本を突き戻して、あたしは図書室を飛び出す。




 玉のような汗を浮かばせながら、昨日オマヌケに落っこちた場所を目指した。頭皮からも汗が滲み出て、頬に垂れてくる。濡れた絆創膏の感触が気持ち悪くて剥がした。

 暑い。水筒と筆記用具と宿題のワークノートしか入っていないリュックが重い。麓にとめた自転車に置いてこればよかった。

 嘉納さんたちに助けられたおかげで、あの場所へのスムーズな行き方が分かるのがせめてもの救いだった。川沿いに歩いていけば、割と平坦な道で着けるのである。

 頭の中で何度も唱える。ペースに乗せられてはいけない。狂言師でも本物のプルートでも、あの口車に乗せられたら最後だ。あたしの言い分をしっかり聞かせないと。

「あ……」

 川の対岸に、白く揺れる花があって、昨日ほどじゃないが肌が粟立つ。

 本に、冥界の出入り口へは水仙が導くだろう、と書かれていた。この山の名前が水仙山なのは、冬から春にかけて水仙がたくさん咲くからだと、ハデスの聖花が水仙だから、冥界への穴が開いているという話ができあがったのだと、そう思っていたけれど。

 逆なのかもしれない。

 ああもう、こういうこと考えるのはあたしじゃないのに!

 ふいと視線を逸らして先を急ぐ。怪我していた足が悲鳴を上げそうになった頃、ようやく開けた場所に出た。

 目の前には、あたしが落ちた崖がある。今立っているところは、案山子が踊り去っていった木々の合間だ。

「…………来たわよ」

 呟いてみるも、蝉のせいで自分でも聞こえない声量だった。

 勇んで来たものの、そういえば案山子とどうやって会うか考えていなかった。あの自信満々な口振りからして、同じ場所に行けばいいのかと思っちゃってた。だ、騙された。待ち合わせ場所や時間を決めずに会おうなんて親しい間柄でしか成立しない。あいつ、自分から絡んでおいて、会うための算段を用意しないとは失礼だわよ。

 あれ? 待って、そもそもあたし、また会おうって言われたっけ?

「う、うそ」

 言われてない。全くもって言われてない。案山子の頼みを受けると決断するだろう、としか言われてない。

 あちらから会う約束を取りつけられた気になっていた。待って待って、これじゃ既にあいつの思うがままになってない?

「――嘘じゃないさ、おれの言った通りだったろう?」

 耳に楽し気な声が吹き込まれた。

「うぎゃあ!」

 飛び退いてよろめく。木にぶつかり、乙女にあるまじき悲鳴を上げた口を押さえ振り返った。

 とすん。木の枝に逆さまにぶら下がっていた案山子が、軽やかにあたしの前に降り立つ。夢でもなんでもない、昨日の案山子だ。距離を取ろうとしても、いきなりの登場についていけなくて、リュックを幹に押しつけただけとなった。か、完全に先手を打たれた。このままじゃまずい。

 くたびれた白い長袖の腕を広げて、のっぺらぼうが感情豊かに言う。

「やあ富子。これはまさに運命じゃないか? おれは確信していたんだ、きみは決断のままに会いに来てくれるってな! さあ一緒に脳みそを探してく」

「ま、待った! その、そのことなんだけどっ」

 怒涛に繰り出される言葉をなんとか遮り、自分のペースに持っていこうと呼吸を整え、長身に合わせて背筋を伸ばした。

「あなたに確かめたいことがあるの、いい? 口を挟まずに聞いて」

「おいちょっと待て」

「な、何」

 言おうとしたらこれだ。低めの制止と、広げていた腕があたしに向いたことにより、たじろいでしまう。軍手の指先があたしの右頬と、いくつかの絆創膏が貼られた腕を示した。

「どうした、それ」

 この期に及んでまだふざけているのかと思った。

「どうしたって、昨日落ちた時の」

「昨日?」

 ……やっぱり、やっぱりこいつは頭と存在がおかしいだけの案山子なのかもしれない。天変地異か神々の悪戯のおかげで、言葉を話せるようになって、それで自身の変化についていけない憐れな奴なのかも。きっとそうだ。そうじゃなかったら、目の前で斜面を滑り落ちてきた女の子に、その怪我どうしたなんて訊く? 昨日の今日で、訊かないでしょう。

 痴呆症の疑いまででてきた案山子は、身体を傾け顎に手をやり、

「治してくるかと思ってたんだが。なんで血を滲ませたままにしている?」

 初めて、困惑している声を出した。

「なんでって、」

 あたしは右頬を触り、両腕の絆創膏も見て、汗と体液の混じる赤色を認め言われた意味を考えてみる。どうやら案山子は不思議がっているらしい。あたしの怪我が治っていないのが。いや、治してこなかったのが、か。

 血を滲ませたままにしているのなんて、そんなの当たり前のことだ。

「……一晩で治らないからよ」

 訝りつつ答えてやると、「なんだって?」素っ頓狂な反応をされ、肩がびくりと跳ねる。な、なんだ、何をそこまで驚いているんだ。案山子は体勢を立て直した。

「待て、じゃあきみは今、死にかけということか? そんな状態でここまで? おれのためとはいえ、少々馬鹿なんじゃないのか?」

 自分で自分を馬鹿だと卑下するのと、馬鹿だと思っている相手に馬鹿だと言われるのとでは、受け入れ方が全然違う。カチンときて一歩足を踏みやった。

「何を勘違いしているか知らないけど、人間の傷はすぐ治ったりなんかしない。死にかけですって? そうだったら病院で眠ってるわよ。それに、こんな状態でここまで来たのは、あなたのためなんかじゃないわ、決して」

「すぐには治らない?」

 最後の肝心な台詞は聞こえていないみたいだった。置物のように動きをとめた案山子が何を考えているのかちっとも分からなくて、せっかく踏み出した一歩をもとに戻す。

「ね、ねえ、そんなことより」

 訊かなければならないことがあるのだ。それを肯定されたら、交渉したいことがあるのだ。そのために、わざわざイカレ案山子に会いに来たんだから、嘘でも賭けてみようと決心したんだから。

 頼むから成立する会話をさせてくれ。

 懇願を抱いて続きを紡ごうとすると、案山子が、静かに、かしこまって頭を下げた。

「申しわけなかった。地上の人間がタフじゃないことを、すっかり忘れていた。悪いことをしたな、痛かっただろう」

 毒気を抜かれそうだった。内容はどうあれ、真摯に謝罪している。かと思えば「い、いや……あたしは大丈夫」「すまない。普段は地上に来ないからな。勝手が違うんだ。もっと早く気づくべきだったな、なんてこったい」また一人芝居が始まってしまう。

「少し考えれば分かることだった。きみには健康的な肉がついて髪は艶やか、どこも虫に集られていない、立派な生者だ。くそ、死人と同等に扱うなんておれは最低か? いいや最低だ、プロセルピナに大腿骨でぶん殴られても文句は言えない」

 地に跪いて自己嫌悪している案山子の言葉を、あたしはゆっくりと咀嚼して、理解した。

 この喋る案山子が、ハデスの魔法使いプルートであると仮定する。

 地上の人間がタフじゃない。ということは、地下の人間がタフであるということだ。地下の人間とは、すなわち亡者のことである。地底人というのも否めないが、あたしを死人と同等に扱ったと言った。冥界にいないと出てこない表現だ。

「この場合、きみには怪我の治療を専念して貰うべきなんだろうが、おれは生憎と案山子なんだ。この機を逃したら二度と助太刀人を捕まえられないかもしれない。正直きみをこのまま帰らせたくはないが、怪我人に頼るってのもな、どうすりゃいいんだ」

 思い込みが激しい性格なのかもしれなかった。治療に専念するほどの怪我でもないのよ、と心の中だけで弁明して、あたしは案山子を見下ろす。

「プルート」

 呼んだ名前に、彼は真っ黒い頭を上げた。

「あなたは、本当に、ハデスの魔法使いなのね?」

 彼の中で、生者を死者と同じに見ていたのがよほどショックだったのか、口のない顔が素直に頷く。

「ああ。おれはプルート。冥王ハデスに仕える魔法使いさ」

 予感がした。今からあたしの欲しい返事が聞ける。

 目があるあたりを、つんと見つめながら、一歩詰め寄った。

「真実ね? 神に誓える?」

「もうハデスに誓ってる」

「そう。ねえ、訊きたいことがあるの」

 案山子がない口を開く前に、更に距離を縮めて、膝をついている彼に合わせて腰を屈める。間近で見ても、藁を布で覆った案山子だ。

「あなたがプルートだと言うのなら、冥界について詳しいんでしょうね。ハデスや、ペルセポネの、次くらいに」

「そりゃあな」

「だったら、特定の死んだ人間が、その後どうなったかも、分かるのよね?」

 タブーを犯している気が、なくもなかった。

 生きている人間は、死んだ人間に、関われない。地下にある冥界が、どんな世界なのかも、本当のところは死なないと分からない。

 でもあたしは、不確かな案山子に賭けてしまうほど、相川のことが知りたかった。

 輪廻転生。この世の生き物は、命が廻る。神々が定めた法則によって。このアイデアはきっと犯罪級だ。生きているあたしが、死んだ親友がどうなったか知るために、自称ハデスの魔法使いに協力するなんて。

「……名前と性別、没年月日を教えてくれたら、分かるが」

「なるほど。……なるほどね」

 胸が変な音を立てて騒いだのと上がる口角に気づかれたくなくて、あたしはくるりと踵を返す。

 交渉の始まりだ。

「プルート、あなたって、脳みそを探しているのよね?」

「ああ。おれ一人じゃ限界があってな」

「それであたしに頼るしかなかったと」

「そうだが、きみは怪我を……」

「ええそうね。でも手伝ってあげる、脳みそ探し」

「本当かっ?」

 背後で立ち上がる気配がした。

「ただ……あなただけが得をするなんて、フェアじゃないと思わない?」

 あたしは精一杯の笑みが不敵に映るように目力をこめ、振り返ってのっぺらぼうを見上げた。

「お礼もないの? 無償で何かするほど、お人好しじゃないのよ」

 こんな高慢ちきな態度、文化祭の劇でだってしたことない。口の中は渇いていたし、川に飛び込んで頭を冷やしたいほど慣れないことをしている自覚がある。

 数秒の沈黙。

「……ははん、なるほどな」

 軍手の指がかつんと鳴った。

「きみも、富子もおれに頼みたいことがあるってわけだ。さっきの質問から考えるに、会いたい死者でもいるのかな? なるほどおれにしか頼めない、生者にとったら大事なことだろう」

 断られたらそれまで。喋る案山子のことなど記憶から消し去っていつも通りの日常を送ってやるつもりだった。

 けれど、あたしの不安を払拭する笑い声が響く。

「ははは、フェアじゃない、確かに! いいぜ富子、全てが終わった暁には、きみの願いを叶えるよ――ハデスに誓って」

 紳士のようにお辞儀して見せる案山子に、あたしは十七歳の夏が、四年ぶりに、ろくでもないことになる音を聞いた。

 それは案山子の楽しそうな笑い声であったし、あたしのうるさい心臓の脈拍でもあった。

 きっと、昨日のような、きらきら眩しい相川を傍で見ているだけの夢は、しばらくないだろうと、思う。

第一章終わり。

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