第一章 喋る案山子(ニ)
「あなた、ほんとに、案山子なの」
逃走意思も混乱も恐怖も押しのけて飛び出した震える疑問に、緩慢な仕草で上体を起こした喋る案山子は、こてりと首を傾けた。
「それは難しい質問だな」
人間みたいに顎に手を当ててなどいる。あたしは薄気味の悪さを感じながら、対話を試みた。そうするしかなかった。
「案山子は、喋れないのよ」
「そうなのか。じゃあ、おれは案山子じゃないのかもしれない」
「……何言ってるの? あなたは嘉納さん家の畑にいる案山子でしょう。あたし、一週間前だって見たんだから」
「じゃあ案山子なのかもな」
「何言ってるの? 案山子は喋ったりしない」
あたしが何を言っているのだ。あれが案山子かそうでないのか、自信を持って突きつけられない。喋る案山子を初めて見た者としてはいいかもしれないけど、本人が自分が何者であるかを分かっていないのは頂けない。
暫定、案山子は軍手の指をかつんと鳴らし――きっと中には木が入っているのだろう――そのままあたしを指差した。
「なるほど、お嬢さんは、案山子は喋れないものだと思っているわけだ。田畑で踊る、藁や木やプラスチックや布でできた人形だと」
「そうよ、案山子は喋れない」
「なぜ? 声を聞いたことがないからか? 案山子は喋れない。大いに結構。だが本当は喋れるとしたら? 喋らなくても踊ってさえいれば奴らにとっては満足で、それで案山子は喋れない奴だと勝手に人間が思い込んだとする。するとどうだ、おれのようなぺらぺら喋り出す案山子を見て、『喋らないはずの案山子が喋った』『あれは案山子なのか?』といった疑問が出てくるわけだ」
「……案山子が動くためにある念石じゃ、喋ることなんてできないって、教科書で」
「教科書! まさかその内容を案山子が書いたわけじゃないだろう。なら、案山子のことは案山子にしか分からないさ」
「じゃあ、あなた……あなたは、案山子なのね?」
答えを得るまでに遠回りをしてしまった。案山子は肩を竦めた。
「いや、おれは案山子じゃないよ」
「はあ?」
今までの会話は一体なんだったのだ。いや、最初からあやふやなことばかり言っていた。狂言かもしれない。嘯ける案山子なんてあたしの知ってる案山子じゃない!
「じゃあ、あなたは、一体なんなの!」
あたしは少々イライラしていたのだ。打ちつけた体のあちこちが痛かったし、一つ結びしていた髪はぐちゃぐちゃ、下に履いていた高校のジャージは洗濯機に放れないくらい汚れていて、挙句には助けに行った相手は案山子であって意味の分からないことしか言ってこない。
土を握り締めて喚くと、案山子はゆるりと立ち上がって土埃を叩いた。
「おれの名前はプルート。つい先ほどあまりに酷い失態を犯してしまってな、絶望に慟哭していたんだ」
何をするにも踊りながら行動する案山子が、人間と同じように、なんでもないふうに、あたしに向かって歩いてくる。
上げられない腰で、せめてもの抵抗で身を引いたら、
「――お嬢さん。おれの脳みそ、一緒に探してくれないか?」
あたしより頭一つ分は高い身を屈めて、案山子――が真っ黒な頭をさすって言った。
何を。
何を言っているのだろうか。
「……脳みそ?」
混乱ここに極まれりだった。
「ああ、そうだ」
あたしの混乱を置いてけぼりにして真っ黒頭が頷く。
「ま、まって、待って……プルート?」
「おれの名前さ! 呼んでくれるのか、嬉しいな」
「そう、違う、そうじゃなくって」
この案山子、名をプルートと言ったのだ。
『喋る案山子』『脳みそ探し』などの単語にも大変頭の回線を乱されたが、その二つがまだマシに思えるのが、『プルート』という単語のせいだった。
情報過多だ。けれどこれはハッキリさせないといけない。
「『プルート』は……冥王ハデスの魔法使いの名前よ」
この場には二人(と数えていいものか)しかいないというのに、ひっそりと囁くように告げてしまった。
この地上では、オリュンポス十二神が絶大な力を誇っている。ヒエラルキーの頂点が神々、底辺が人間。それは覆りようのない世界の常識で、皆が納得している事実だ。ハデスは地下の神ゆえ、十二神には数えられないが、十二神とともに畏敬の念を贈られる存在である。
そんな神々は、それぞれが魔法使いを使役している、らしい。
十二神はギリシャのオリュンポス山、ハデスは地下世界。彼らは基本、自らの住まうところから動かない。何事かに干渉する時は、魔法使いを手足として動かす――。
あたしは神々の存在を疑ったことはない。だってあまりにも日常に馴染み過ぎている。しかし、魔法使いは。
魔法使いは、その名前しか知らない。物語やそれこそ教科書の中でしか、その存在を確かめる術がなかった。世界の偉い研究者や探検家、神職の人間なら何か他にも知っているかもしれないけれども。
あたしは、『プルート』が冥王ハデスの魔法使いの名前で、そのため『プルート』を名乗る生き物は地上にいない、ということくらいしか。知らない。
よって、目の前の案山子が狂言師である疑いが高まった。
「ねえ、あなたが喋る案山子でもなんでもいいわ。でも、その名前を自分のだと言うのは、どうかと思うわよ」
まさか案山子の口から、学校の先生とテレビの中でしか聞かない単語を聞かされるとは思わなかった。
「そんなことを言われてもな。おれはプルートだよ」
「そうなの。へえ。自分でつけたの? 嘉納さん?」
「いや、初めに呼んでくれたのはハデスさ」
「……ふうん。あたしは佐野富子って言うの。富子はお父さんがつけてくれたんだよ」
「富子か! じゃあそう呼ぼう」
そうじゃない。遠回しな物言いをしてくるから、こっちも遠回しに偽名を咎めているのに、なぜこうも会話が噛み合ってくれないのだ。
「でだ、富子。おれの脳みそ探しを手伝ってくれないか? 一人じゃどうにもできない時に現れたのがきみなんだ、さっきはあと一歩のとこで掴まえられると思ったのに、地震のせいで……」
そして相手は会話が噛み合っていると思って喋り続けている。お互いの見事なまでの食い違いに空恐ろしさを感じながら、この非現実的な現実を打開するにはどうするべきか悩む。
黙りこくったあたしを見兼ねてか、案山子は話を中断して「なるほど」と頷いた。
「思うに、きみは今とっても混乱している。違うかい?」
違う。今じゃなくてさっきからずっと混乱している。
「そんなきみに朗報だ。もうすぐで人がやってくる。子どもが数人。きみは一旦家に帰って、負った怪我と混乱を治すだろうな。それからおれの頼みについて考える」
役者の如く大仰な仕草に、うさんくさい予言者のように自信たっぷりと、のっぺらぼうとは思えない感情のこもった声音で。
「きみは決断するだろう。『魔法使いの脳みそ探し、なんて光栄な役目なのかしら! 受けざるを得ない!』ってな」
もしかしなくとも高くした声音はあたしの真似なのだろうか。
「おいおい、そんな面してたら子どもが笑っちまうぜ。さて、あと約二十秒後だ。おれはお暇するとしよう。では、富子」
くるくると案山子らしく踊りながら案山子らしくない恭しいお辞儀をすると、あたしが何か言う間もなく、藁でできた軟体は生い茂る木々に滑り込んで行ってしまった。
「…………」
蝉が鳴いていた。
やがて、それに混じってビイイイと防犯ブザーの音が聞こえてくる。
「富子!」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、ヨースケくんたちが身を乗り出して放心するあたしを見ていた。
中々戻らないから、心配させちゃったんだ。戻らなかったら大人を呼ぶよう言いつけたけど、これはあたしが悪い。謝ろうと開いた口は、しかし子どもたちの笑い声に中途半端にとまった。
「ヘンな顔―! ポセイドンに恋なしみたいな顔してるう!」
ポセイドンに恋なし。俗に、あり得ないことが起こるという意のことわざだった。
的確すぎてぐうの音も出ない。
あのあと、自力で這い上がることのできなかったあたしは、ヨースケくんたちに大人を呼んできて貰い無事に家へと帰り着いた。駆けつけて来てくれた人の中には当然近くに住む嘉納さんもいて、あの案山子についてそれとなく訊いたら「……富子ちゃん、念のため、頭も診て貰おうか」と皺だらけの顔を歪めさせてしまい、それきり黙るしかなかった。あやふやな勘だけど、喋る案山子と嘉納さんが関係していることはないと思えたのだ。
病院で水を浴び、いくつもの擦過傷と打ち身を手当てして貰って、家に帰った今、あたしはひどく疲れていた。
「――ま、災難だったわね」
先ほどまで怒りと心配と呆れでぐちぐち言っていたお母さんが、ソファで寝転がったまま動かないあたしをじとりと睨む。分かってます、高校二年生が後先考えずに行動したこと、反省してます。視線から逃げるように背中を向けてやる。
ヨースケくんたちのお母さんにも心配と謝罪をたくさんされて、そして「探していた悲鳴の主は、地震で土から出されたマンドラゴラだったの」と苦肉の嘘を吐き通したことにより、ただでさえ容量越えの脳みそはこれ以上のお小言を受けつけない。
脳みそ。あの案山子、脳みそ探しを手伝ってなどと言っていた。
「おかーさん……」
意識は冴えているかと思っていたが、そうでもなかったようで、うとうとと瞼が下りてくる。
「何?」
説教を諦め夕飯の支度のため立ち上がった気配に、うつらうつらと訊いた。
「案山子って……喋るのかなあ」
誰かにハッキリと、肯定か否定をしてほしかった。だって、やっぱり、あんなことって、ありえないわ。
けれど、あたしの母は肯定も否定もしてくれなかった。
「……久しぶりね、あんたがそういうこと訊いてくるの」
何それ。口を開くより先に、ああそうかと納得する。まどろみの中、一人の少年の姿が思い浮かんだ。
この異常な疲労は、まるで相川を相手にした時みたいだった。
――相川由馬。心のうちで、幼馴染で親友だった男の子の名を呼ぶ。不思議好きで、無鉄砲で、なんに対しても疑問を抱く、お星さまみたいだった彼。
彼はお星さまになるどころか、地底の暗闇に捕われ消えた。
死んだのだ。四年前の夏、相川由馬は。
「……相川だったら、案山子は喋るって言うかも……」
「そうね。……おやすみ」
それから夕飯時に起こされるまで、あたしはこんこんと眠った。
夢を見た。
十三歳のままの相川が、追いつけないスカイフィッシュといかにして競走するか、力説している夢だった。
十七歳のあたしは、そんな相川を、ただ傍で見ていることしかできなかったのだった。