第一章 喋る案山子(一)
高校二年生にもなって、近所のちびっこたちと山に出かけるあたしは、よっぽど優しいお姉さんに違いなかった。
騒がしい蝉の鳴き声の中、水分を含んで沈み込む土を、必死に踏み締めて、額から伝う汗を拭う。なんでこんなことになってるのかしら。本当ならクーラーの効いた部屋で、だらだらとアイスを食べるはずだったのに。
発端は、二軒隣に住む小学一年生のヨースケくんが、山でカブトムシを捕りたいと家に訪ねてきたことだ。
海辺の山を切り開いてできたこの街は、夏休みになると子どもたちの遊び場が二極化する。海か山か。ヨースケくんは友だち四人と虫捕りをするために、山を選んだのだった。それだけなら、わざわざあたしを引率者になんかしないけれど、いかんせん時期が悪い。
ここ数年大人しかったポセイドンの腹の虫が、どうやらお悪いらしく、日本は連日地震に襲われていた。
人間が体感できる小さな地震が、日に何度か。
まあ別段珍しくはないそれを、神職の人がなんとか宥めようとしているみたいだけど、いつ地震が大きくなるとも知れない。そんな状況では小さい子どもだけで遊びに行かせるのは不安というもの。それ以前に、この水仙山は冥界に続く穴が開いているという噂もあるのだから、忙しい親に代わって近所の高校生を同伴させるのは、仕方ないことだった。
「みんな、あたしからあまり離れちゃ駄目だからね」
まるで疲れを知らない足取りで前を行く子どもたちに呼びかける。はあい、威勢のいい返事で網が振られた。
それにしたって暑い。高く茂った木々で日光が遮られ空気が冷えているとはいえ、坂道を歩くと無意味だ。気を抜くとあたしが離れちゃいそう。
「富子ぉ、だいじょうぶ?」
前を歩くヨースケくんが生意気な顔して振り返ってきた。
「富子お姉ちゃん、でしょ。もう、みんなペース速いよ」
「富子が遅いんだよ」
ああ、この子がまだほんの赤ん坊だった頃は大変素直で可愛らしかったのに。時の流れって残酷だ。
先頭を歩いていた子が、あっ、と声を上げた。みんな一斉に駆けて行く。漸くカブトムシやらクワガタやらが樹液に集るエリアに着いたらしかった。松の巨木もある。
あたしは全員を見回して叫んだ。
「虫のことは全面的に任せるけど、危ないことはしないように! 山道から外れないこと! 地震が起こったらあの松に引っつく! 何かあったらすぐ防犯ブザー鳴らす! 分かった?」
ビイイイ! ブザーの音が響き渡った。
「今じゃない!」
そんなことすると逃げるぞ、虫が。言う前にすぐ警報は鳴りやみ、変わり身の早いきゃあきゃあ騒ぐ声が上がる。
さて、虫捕りに集中し出したちびっこたちを、まんべんなく監視できる位置を探さなければ。
みんな一応山道に沿ったところにいるし、ということは、あたしはちょっと高い場所がいいかもしれない――山道の脇、茂みから突出している大きな岩を見つけて、汗を垂らしながらそこによじ登って腰を下ろした。
うん、よく見える。ヨースケくんの靴の汚れもコタロウくんの虫籠の色も見える。視界も良好、広く見渡せる。絶好の監視場所だ。
ズボンのポケットから虫除けスプレーを取り出して念入りに振りかけたりしながら、あたしは微笑ましく眺めていた。
いつからかしら。虫で、はしゃがなくなったのは。いや、別に虫が好きなわけではないけれど、それでも動くものを追っては楽しんでいた頃があった。スカイフィッシュが空を横切った(気がした。何せあの生き物は速い)日には、あっちだこっちだと二人で走り回ったりして。美化しすぎかもしれないけど、目に映るすべてが星の煌めきのようだった。あたしはもう、あんなふうにはなれない。
なんだか物悲しくなって膝を抱える。くらりと視界がぶれた。やだ、熱中症?
肩からかけた水筒を飲もうとするが、違うと気づく。地面が揺れているんだ。微弱だけれど確かにこれは地震だ!
「みんな、松の木に!」
慌てるまでもなく五人とも松の幹に集合していた。さすが海辺の街、菰田小の避難訓練は意味を成している。ポセイドンが地震を起こしたら松の木へ、津波がきたら馬乗って駆けろ、だ。なんて感心してる場合じゃなく、岩を滑り降りて子どもたちのもとへ駆け寄る。
山の中にいても小さく感じる振動だったが、なんだか嫌な予感がした。
「やんなっちゃうよなー。こんなちっちゃい揺れ、いっぱい起こされてさ」
「カブトムシ逃げちゃうよな」
「どうせならドンって一気にきたらいーのに」
不満を漏らしながらも小さな両手はしっかり松に触れていることに安堵しながら、あたしは落ち着きなく硬い幹を撫でる。
「こら、滅多なこと言わないの。学校でも習ったでしょ、ポセイドンが本気出したら日本どころか全大陸、海の底なんだから。……まあ、昔っから短気だって語られてるけど、まだ日本無事だし、今回もそのうち治まると思うんだけど」
言ってから、なぜかじわじわと不安が胸の内に広がっていく。何がこんなに不安なのか。土砂崩れ? これくらいの揺れなら心配ない。なら何が。
そう、やけに静かなのだった。
先ほどまで五月蝿く木霊していた蝉が、今は季節を跨いでしまったかのように沈黙している。震動で擦れあう植物の音だけが辺りに満ちていた。
おかしい。ここの蝉は、たったの七日間を図太く生きられるよう、地震をモノともしない質なのに。
「やまねーな、地震」
「だな。……ん? なんか、今」
トモノリくんが首を傾げた。
「聞こえなかった?」
ああ――あ――あ……。
子どもたちが顔を見合わせる。あたしは声も出せなかった。だって、途切れ途切れに聞こえてきたそれは、どうしたって人の声の、それも悲鳴に近かったんだもの。軋むような叫びを上げる人面樹じゃないことは確実だ。
まだ地震はやまない。もしかして嫌な予感が最悪な形で当たろうとしているのでは。悲鳴の出どころが本当に人で、どこかで災害にでも遭っていたとしたら。
ごくりと唾を飲んだ。
「……いい? 地震がやんで、三十分しても戻ってこなかったら、自分たちだけで来た道を戻って、大人を呼んで」
呑気な顔した子どもたちが、あたしの取ろうとしている行動を察し、ぶうたれる。「おれも行く!」「ずりいぞ富子」あたしは目線を合わせて敬礼して見せた。
「あとを任せられるのは、きみたちだけであります」
最近の小学低学年のブームが日曜朝八時からやるアニメ『海底戦艦ウミト』なのは把握済みだった。
「ッサー! お任せあれでごぜえます!」
五人はきりりとした笑顔で敬礼をした。
――あああ……ああ、あ――
徐々に近づいてきた悲鳴はやはり人のようだった。声の低さからして男だということ、楽しさなど微塵も感じさせない色を含んでいることが分かってくる。
腕時計を確認する。単身山道から茂みへと突っ込んで十分、地震がやんでから五分が経過していた。あと十分探して、それでも悲鳴の主を見つけられなかったら戻ろう。
「あ痛っ」
剥き出しの腕が枝葉で傷つけられていく。あまり長居するとこっちが危ない。
「すみませーん! 誰か、大丈夫ですかあ!?」
あらんかぎりに声を張るも、誰も何も返さず。
近づいてきたとはいえ木霊のように響いてハッキリとした位置が分からない。なんとなくの方角で進んでいるが、本当にこっちで大丈夫だろうか。これは帰り道が分からなくなったりしないだろうか。
暗い影が増えてきたこともあり段々不安が大きくなる。
――水仙山には冥界への出入り口がある。
あたしが小さい頃から、両親が祖父母が、その代よりもっともっと以前から流れている噂だった。実際、深淵が広がる穴を見たという話や、水仙が咲き誇る季節に死人と鉢合わせたなんていう話が文献にも載っているらしい。
なのに噂の域を脱しないのは、冥界への穴を見たという人が周りに一人もいないからだ。
怖がっても仕方ないのだが、人間は本能的に死を恐れていると思う。
地震を起こし津波で襲いくる海神ポセイドンや、知には劣るが戦争の厄災を司る軍神アレスも、もちろん恐ろしいけれど。そんなオリュンポス十二神にこそ含まれていないが、人間とは切っても切れない死を抱き込む冥界の王ハデスの方が、よほど恐怖を煽ってくる。
あたしは死が怖かった。
それは突然やってくるから。いつもぴったり背中に貼りついていて、気まぐれに身体の動きをとめてくるから。
この地面の下にハデスの治める地下世界がある。でも、あたしはいかない。いけない。あたしの心臓はまだ、こんなにも温かい。
――あああああッ!!
びっくりして温かい心臓がとまるところだった。
いつの間にか悲鳴がすぐ近くで轟いている。濁点がつきそうな悲痛な雄叫びだった。腕時計を見る。探索開始から二十分が経っていた。この期に及んで時間なんて構っていられないわ。
耳をそばだてて必死に草木をかき分け、這うように傾斜を上がり、そして。
視界の端に白い花を捉えた刹那、階段を一歩踏み外したような心地になった。
それは水仙だった。
水仙は冬から春にかけて咲く花だった。
それから、冥王ハデスの聖花だった。
斜面に凛と咲く白色にゾッとし、一歩踏み外したような心地はすぐに体感となって世界を反転させる。
あたしは急斜面をなすすべもなく滑り落ちていた。
誰かのと自分の悲鳴が重なる。木の根や岩にあちこちぶつかりながら、滑落は急激にとまった。
「っつぅ……!」
死ぬかと思った。全身つきつき痛むが幸運なことに骨折はしていない。ああ、水筒がどこかへ行っちゃった。ままならない呼吸を繰り返しながら、のろのろと上半身を起こす。
切り開かれた山野が眼前の光景だった。背後を振り仰ぐと、自分が足を踏み外した場所は急斜面の頂上だったということが分かる。水仙(に見えただけで本当は違うかもしれない)に目移りしたばかりに、こんな崖みたいになっているなんて気づかなかった。
「あーあ……」
嫌な予感てこれだったのかも。何が誰かが災害に遭っているかもだ。とんだ二次災害だ。あたしはマヌケ野郎だ。そしてもっとマヌケなことに、自己嫌悪に陥ったあたしは遅れてそれを視認するのだ。
開けた空間の真ん中に、誰かが蹲っていた。
「っははあああああ……! なんてことだろうか!」
蹲った塊は震えながらそう叫んでいた。男の声で、いかにも嘆いているふうで、絶望が色濃く滲んだ悲鳴だった。
見つけた! あたしは痛みも忘れて泥だらけの顔を喜色に染める。あの人で間違いない、落ちたのは悪いことじゃなかったのね、良かった!
頭を抱え込み地面に伏しているその人は、まだこちらには気づいておらず、ぶつぶつと何か呟いては発作のように叫んでいる。正直、ちょっと、不気味と言えなくもないけれど、要救助者だ。きっとあたしと同じで滑落してしまって、往生していたんだわ。声をかける。
「あのっ、すみません。大丈夫ですか? あなたの悲鳴を聞いて来たんですけど、……」
様子がおかしい。
近づかなくてもおかしなことが分かってしまった。
「おれはなんてマヌケ野郎なんだ!」
つい先ほどのあたしが思ったことと同じことを口に出しながら、だんと地面を叩いた拳。両手とも白い軍手がはまっていた。ここまではいい。多少ぼろぼろだけど、厚手の長袖だけど、白いTシャツと黒い長ズボンを身に着けているのもまだいい。黒い長靴。まだ許容範囲。
ここから、おかしなことに。
露わになった頭部は真っ黒かった。体の向きからして横顔だけど、髪がない。耳がない。目がない。鼻がない。口がない。
卵型の頭部は黒い布で覆われていたのだった。首の部分も黒い布が巻かれており、そこから覗く茶色から、頭部と体を繋いでいる首は木でできていることが察せる。
おかしかった。
あれは人間じゃなく案山子だと誰もが揃えて言うに違いなかった。
あたしはあの案山子を知っていた。
水仙山の麓で田畑を耕している嘉納さん家の案山子だった。
そしてあたしは知っている。
案山子は動くが、決して喋らない。それはこの世の常識で、ルールで、神々が決めた理のうちの一つだということを。
「――かっ……!」
つまるところあたしは非常に恐れおののいたのだ。
「案山子が喋ってる……!」
十七年生きてきて、初めてのことだった。田畑も棚田もあるこの街には踊り狂って害獣や害鳥を追い払う案山子が何体もいる。学校の帰り道でだって見かける。あたしは踊り狂う案山子に手を振ったことはあっても呼びかけたりはしなかった。だって彼らは喋らないし喋れない。案山子が動けるのは製作者が身近な神の力を借りて念をこめた石を与えるからで、その僅かな神力では自由に動き回ることしかできなくて。だから案山子は喋る機能はおろか魂も心もないただの踊る藁なのだ。
決してあんなふうに叫んで自己嫌悪して拳を叩く生き物であってはならないのだ。
ずりり、お尻と手で後ずさる。どうしよう。困ったことになった。とても恐ろしいことに。腰が抜けてしまっている。
「落ち着いて……大丈夫よ……何か策があるわ、考えるの……」
案山子があたしに気づいていないのをいいことに、胸を渦巻く混沌と恐怖を宥めようと言い聞かせる。大丈夫。あの案山子は何やら自分のことで手一杯だ。このまま何も見なかったふり聞かなかったふりをして、静かにそっと這ってでも退散しよう。
「ところでお嬢さん。お嬢さんは案山子の目がどこにあるか知ってるかい?」
案山子に見つからない逃げ道を視線だけで探している最中だった。それはぶつぶつとしたひとり言ではなく、明確に誰かに話しかけている台詞だった。案山子にとっての誰かはこの場にあたししかいない。
どっと冷や汗が湧き出る。恐る恐る視線を移すと、卵型の頭は変わらず横を向いていた。
「多くの案山子はちゃんと頭部を作られる。目を描いて貰ったりしてな。それが目だと思うか? でもするってえと顔がない案山子はどうなる? どこが目なのか? そもそも案山子は世界をきちんと見ているのか? 見ているはずだよな、じゃないと鳥を落とせない。気配で察しているのか? 音で分かるのか? 不思議だよな。どれも違うんだ。案山子は触覚なんだ。世界の全てが感覚となって分かる。見えているわけじゃない、聞こえているわけじゃない、直感みたいなもんなんだ。つまり」
ぐるり。黒いのっぺらぼうがあたしを見た。
「おれに気づかれてないと思ったのなら、そいつは残念。気配なく逃げるなんて幽霊でも無理だよ」