イェンシュテン司教 7
ムスタファー伯爵邸への道筋は、平民であるが二度目でもあるゼンタは既に知っていた。少年は、エイコンの先にある貴族街と市民街の間の壁まで駆け足で辿り着くと、迷う事無く、その脇にある小窓を叩く。――僅かな間を置いて窓が開き、顔に入れ墨のある男が顔を出した。
「こ、こんにちは」
「お、おう。こんにちは……?」
ゼンタが緊張を滲ませて言うと、相手も又、僅かな驚きを浮かべて返事をした。その表情は、知らぬ相手を見るものではあらず。ゼンタは、少しばかり救われたような心持ちになったが、目的地は此処ではないので、気を取り直して口を開いた。
「あの、ここを通してほしいんです。勿論、貴方の事は誰にも言いません」
少年の願いに、相手は当然良い顔をしなかった。
しかし、ゼンタは相手が拒絶の言葉を口にする前に、畳み掛けるようにこう言う。
「お願いします。オイスタインさん! 絶対迷惑はかけませんから!」
「……ちょっと待ってろ」
相手の男――オイスタインは、低い声でそう言うと、窓を閉めた。
途端に、ゼンタの心に不安が渦巻く。面識があるとは云えども、深い関りがあるとは到底言えない相手である。ラーセンの友人であるからと頼ったのは軽率だったかもしれない。窓を閉めたのは、騎士にゼンタの事を知らせる為なのではないだろうか。――ゼンタは、今直ぐ逃げるべきではないだろうかと、周囲を窺った。
そうして、とうとう、ゼンタがその場を立ち去ろうと踵を返した時である。門の隣にある扉が開いた。弾かれたように顔を上げた先で、オイスタインがこちらに向かって来る。その表情は、少年を売った事への罪悪感が無ければ、追手を捕まえた達成感も無い。素の儘の顔をして、彼は入れ墨の横にある口を開いた。
「持っていけ」
そう言って、拳を差し出したオイスタインに、ゼンタはおずおずと手を伸ばす。
すると、少年の小さな掌の上に、ぽとりと何かが落とされた。見ると、それは楕円形の綺麗な石で、表面はつるりと滑らかである。青と云うよりは藍色に近い深い海の色をしたそれは、ゼンタの手の上で日の光を受け、水面のように色を変えた。
ゼンタは前に一度だけ、――それは暗い月夜の下で、この石と同じ物を見た事があった。ラーセンの手の中にあった丸石は、夜闇の中では随分と黒かったが……。
「“魔法避け”だ」
オイスタインの声に顔を上げると、彼は入れ墨のある顔で薄く微笑んでいた。その表情が随分と穏やかで、ゼンタは思わず息を呑む。
「ムスタファーの屋敷に行くんだろう。持っていけ」
選別だと、オイスタインはそう言って、少年の頭を叩くように撫ぜると、返事を待たずに門を開けた。そうして、唖然とした表情のまま固まっているゼンタの背を、門の向こう側へと優しく押し遣った。
小さな体はあっけなく門を潜り抜け、ゼンタは貴族街の中から呆けた顔をして振り返った。オイスタインは好々爺が如く眦を下げて手を振っている。――それを見たゼンタは、自身の胸の中に言い様の無い感情が激しく湧き立つのを感じて、思わず、手の中の丸石を握り締めた。
掌から硬く冷たい感触が伝わると、熱感情の波も僅かに冷やされる。が、それでも尚、堪え切れぬ程の熱が、両目を介して零れ出そうとするので、そうなる前にゼンタは瞳を硬く閉じた。不自然に思われぬよう、深々と腰を折って顔を隠す。そうして、それから、顔を上げずに踵を返すと、一目散に駆け出して、二度と振り返らなかった。
***
灰色の石畳を走る、小さく軽い足音が聞こえる。貴族街に相応しくない格好の少年を咎める声は未だ無い。時折街を警邏する騎士たちは皆、平民街へと降りて、王が命じた探し人を探し歩いているのだ。――その中の一人が、まさか貴族街に居るとは誰も思わない。
辿り着いた屋敷の塀際で、ゼンタは眼元を袖で拭った。そうして、顔を上げた時には既に、少年の顔付きはいつものように無謀にも勇ましいものへと戻っている。
ゼンタはオイスタインに貰った丸石を塀に当て、魔術式の縫い目を探った。あの夜、ラーセンは見当を付けていた為に直ぐに見付けていたが、唯の少年であるゼンタにそれが判る筈も無く、コリコリと石が塀を撫でる音が暫く続いた。――と、思うと、壁を擦る音が変わって、大人一人が余裕で通り抜けられる程の穴が開く。ゼンタは誰にも気付かれぬ中に、その穴へ躊躇なく身を躍らせた。
***
ムスタファー伯爵邸の中を進む間、ゼンタは何度か他の人間と擦れ違いそうになったが、動じる事無く物陰に潜む事が出来るくらいに落ち着いていた。それはいっそ奇妙な程であったが、少年の心に迷いが無いおかげである事は言うまでもないだろう。ゼンタの心は今正にティサを救い出す事しか考えていなかった。
故に、地下牢を目前として、ゼンタの足取りは急激に早まった。と同時に、抑えていた筈の足音も響くようになる。しかし少年は構わず進んだ。以前は無理やり引っ立てられて連れて行かれた牢屋へと、今度は自分の意思で足を踏み入れる。
「ティサ姉ちゃん! 此処に居るの!?」
静まり返った石造りの部屋にて、とうとう、声を上げてしまったゼンタであったが、幸か不幸か、見張りは全て出払っていた。冷たい程に静かな地下牢に、少年の甲高い声が空しく響き渡る。――すると、その時であった。
「ゼンタ……?」
弱々しくも美しい声が、か細く消えそうな音量で答えた。
ゼンタが声のした方へ足を進めると、最奥にある牢屋の中で、暗がりからぼんやりと一人の影が浮かび上がる。それは少年の足音に釣られるようにして、鉄格子の側へと進み出でた。
「ティサ姉ちゃん!」
ゼンタの上げた叫び声は、冷たい牢屋の中で反響した。隠す事を辞めた足音が、それを上回る大きさで石畳の上を駆け抜ける。そうして、辿り着いた牢屋の中に、少し草臥れてはいるが上等な巫女服を来たティサの姿を確かめると、ゼンタは無事見付ける事が出来た安堵と喜びに、晴れ晴れとした笑顔を浮かべた。
「姉ちゃん助けに来たよ。一緒に逃げよう!」
「…………」
ティサは何も答えない。それどころか、常であれば装う感情の乏しい顔も其処には無く、彼女は唯、目の前にいる少年を憎悪に顔を歪ませて睨み付けた。
「どうしたの、ティサ姉ちゃん」
再会に浮かれていたゼンタもそれに気付いて、顔から笑みが消える。
「……じゃない」
「姉ちゃん?」
「全部アンタの所為じゃない!」
ティサが突如として怒鳴り声を上げ、ゼンタは驚きの余り小さく飛び跳ねた。そうして、思わず後退ったゼンタに向かって、ティサは勢いよく身を乗り出すと、掴み掛らんと腕を伸ばした。が、その手は鉄格子に阻まれて、唖然とするゼンタの前で空を引っ掻くに終わった。
届かぬと判るや否や、ティサは怒りを露に鉄格子を握り締め、乱暴に揺さぶった。当然、娘の力ではビクともしないが、その姿はまるで狂女のようで、ゼンタは目の前の人物が本当に自分の探していた相手であるかどうか、急にわからなくなってしまった。
「アンタが力を弱めたからでしょう! おかげで私は聖女を騙った罪人としてこの様よ!」
お前の所為だと罵るティサを前に、ゼンタは唯々、狼狽える事しか出来ない。
「何を言っているんだよ。僕は何もしていないよ」
「だったらどうして首は残ったのよ! おかげで私は嘘吐き呼ばわりよ。こんな牢屋に入れられて、服だって着替えられない。こんなんじゃ妃になるなんて夢のまた夢よ。私の人生もうお終いだわ!」
わっと顔を覆って泣き始めたティサを、ゼンタは始めて見るが、先程感じた違和感も相まって、わざとらしく不気味に思った。故に、何も言えず啜り泣く姿を見詰める事しか出来ない。
そうして、愈々、ゼンタが何か言わねばと口を開いた時だった。
「――誰かいるのか?」
見知らぬ男の声が響いて、ゼンタは全身に水を浴びせられたような気持がした。慌てて振り返ると、地上へと続く扉から差し込む光の中に、人影が揺らめいて見える。石畳を靴底が叩く音も響き始め、誰かがこちらに向かって歩いて来ている事は明白だった。
その瞬間、――それは文字通り一瞬間に、ゼンタはティサの居る牢屋の前から逃げ出した。考えるより早く、ゼンタは小さな体を影に隠して男をやり過ごす。男がティサの方へと向かった隙に地下牢を飛び出し、少年は月明かりに照らされた無人の廊下を走りに走った。そうして、ムスタファー邸を離れて尚、少年は努めて何も考えなかった。牢屋の中に居たゼンタの美しい人が、かつて狂女と知った別の顔と混ざり合い、自分を口汚く罵るのを思い出したくなくて。……
***
不意に、何かに呼び止められたような気がして、ゼンタは足を止めた。視界の端に見えるのは、どうも覚えのある景色のようである。近付くと、其処が聖なる炎の使い手を披露するのに使われた広場であると直ぐにわかった。中央奥には儀式で使われた祭壇が、その儘の状態で放置されている。
すると、ゼンタは、祭壇の上が僅かな光を帯びている事に気が付いた。誘われるようにして近寄ると、光は祭壇の上に描かれた魔法陣からドーム状のように覆っている。その中にあるのは――首だ。聖なる炎によって灰になる筈だった化物の首が、祭壇の上に置かれてある。
「この首があるから、姉ちゃんは……」
そう口に出したゼンタは、このとき何を思っていたのか。茫然として、或いは魅入られたかのような虚ろな表情をしたゼンタが徐に伸ばした腕が、光のドームに遮られるかと思えば、すんなりと通り越して、怪物の首に触れる。
瞬きの後、ゼンタは惧れを忘れて首を引っ掴んだ。彼の心に湧いたのは、停滞するマグマの様な緩やかだが酷熱な怒りと僅かばかりの期待である。そうして、又しても魔法陣の光は少年を拒まずにそれを許した。
ゼンタが己の腕の中に招いた首を一瞥すると、首はまるで本当に死んでいるかのように目を瞑った儘、微塵も動かなかった。――その様子は、不死者予防の仕事で見た光景と何ら変わりない。そう思うと、ゼンタは本当に何も恐れる事は無いような心持ちになった。すると、忽ち、表情が明るくなり、果てには笑みまで浮かべたと思うと、ゼンタは首を抱えて駆け出した。
向かうは彼が知る中で最も怪物が嫌う場所、即ちエイコン孤児院教会である。
***
ゼンタは首に上着を被せ、何気ない顔をして孤児院教会に向かった。途中、誰かを探している様子の騎士たちと行き遭ったが、開き直ったゼンタは逸る足を抑えながら平静を装って、その横を堂々と通り過ぎた。
孤児院教会の周囲には、今日もイェンシュテン司教を探す騎士たちが彷徨いていたが、少年が首を抱えているなどとは誰も思わず、ゼンタが司教の行方を知らぬと答えると早々に放された。
祈りの場に再びやって来たゼンタは、脳裏を掠める嫌な記憶を努めて考えないようにしながら、祭壇の裏戸を開いた。そうして、邪悪な者も此処ならば悪さ出来まいと、木箱があった場所に首を置く。すると、まるで誂えたかのようにピタリと収まったので、ゼンタは思わずじっと見詰めてしまう。が、首の方は相変わらず瞳を閉じた儘、微塵も動かない。
「よき竜の神徒よ。竜の祝福とあなたの幸運を」
ゼンタは自分でもわからなかったが、教会で教わった祈りの言葉を口にした。
致善礼とも呼ばれるこの詩は、二回続けて首を垂れ、最後にもう一度お辞儀をしながら祈りの言葉を口にするのが習わしだ。そうする理由をゼンタも誰も知らないが、今は魔除けの意味を込めて口にした。
「この者を良き神徒と成し、良き最期に導いてくださいますよう聖なる竜にお祈りします」
言い終えるや否や、天から光が差したり首が灰になると云う事も無く、ゼンタの前には、化け物の首が目を瞑って其処にある。が、元より変わると思っていなかったゼンタが落胆する筈も無く、少年は平然として祭壇の裏扉を閉じた。
するとその時、ゼンタの懐から、つるりと滑り落ちた何かが、教会の床に当たって乾いた音を立てた。見ると、オイスタインから貰った丸石が、着色硝子の窓から差し込む光を受けて、虹色に輝いている。
ゼンタは石の事などすっかり忘れていたが、これも大事なものだからと、首の横に置いた。そうして、今度こそ扉を閉じると、確りと鍵を掛ける。ゼンタは賢いので、鍵は祭壇の下に貼り付けるのではなく、自分で持っている事にした。
ゼンタがこの場を後にすると、教会は以前と何ら変わったところが無いように見える。祭壇の上には何も無く、その手前を古い木製の会衆席が左右に並び、深い赤色の絨毯が敷かれた通路がそれを隔て、主神である竜とドラコニカの民の物語を表した硝子窓が、それらを照らしていた。
人一人居ない祈りの場は、シンと静まり返って耳が痛い程で、その中にある暗がりは、きっと孤独と同じくらい何も無かったであったろう。そうして、中でも一等暗い場所で、濁った眼球が目を覚ました事には、当然、誰も気が付かなかった。……




