イェンシュテン司教 6
ゼンタはエイコンの街を風の様に駆けた。――実のところ、それは疾風と云うより微風程度の速さであったが、少年は、小さな足を懸命に動かして、孤児院教会までの大路小路を駆け抜けたのである。
エイコン孤児院教会の周辺は、常よりも一層と閑散としていた。王城からやって来た屈強な騎士たちが、苛立たし気に、司教の行方を鋭い口調で尋ねて回った所為で、殆どの人々が関わり合いにならぬよう、戸の向こうに息を潜めてしまったからである。――ゼンタは貴族の屋敷に侵入した罪人である。又、処刑を待つ牢屋から脱獄した逃亡者でもある。その事を知らぬ儘、司教を救いたい一心で街道を駆け、騎士たちと鉢合わせる事無く協会まで辿り着けたのは、殆ど奇跡のようなものであった。
教会側の扉を開けて駆け込むと、そこは変わらず祈りの場であった。
騎士たちも中を荒らす事は流石に憚られた様子で、深い赤色の絨毯は今も綺麗な姿を保った儘、古い木製の会衆席を別っている。ゼンタは着色硝子から差す色取り取りの光を全身に受けながら、一目散に真奥にある祭壇へと向かった。
祭壇は、通路に向いている面とは反対側に、鍵の付いた小扉がある。イェンシュテン司教は、大事なものを其処に仕舞い込む愚かな癖があった。幼い頃から敬謙な信徒であった所為で、人を疑うと云う事を知らないのか、或いは孤児院教会にやって来る人間は学の無い平民ばかりだと思っているからか、司教は時折、驚くほど無防備になるのだ。――ゼンタが祭壇の下を弄ると、案の定、一本の鍵が張り付けられていた。
ゼンタは素早く鍵を差し込んで扉を開いた。中を覗き込むと、儀式で使用する銀の杯や豪華な装飾の成された分厚い本の他に、萎び始めたシエルの実がいくつか。それから拳二つ分ほどの大きさの木箱がある。
ゼンタは本の隣に鍵を手放すと、両手で木箱を取り出した。今直ぐにでも駆けだそうになるのを堪えて箱の中を確かめると、液体の入った小さな小瓶が幾つか並んでいる。生憎とシエルの実の配給に必要だった『エイコン孤児院教会』以外の文字を知らないゼンタには、何と書いてあるのか分からなかったが、少年は顔に安堵と喜色とを浮かべて蓋を閉じた。そうして、それから、木箱を大事そうに抱えると、他の物には見向きもせずに、再び教会を出て駆け出した。
***
ゼンタが汗を滲ませ、ジョスの家の側にある襤褸小屋に辿り着こうと云うとき、大人たちの何人かが、丁度外に出て来るところであった。少年の小さな足音は、彼らの囁くような話し声に紛れて消えて、未だ誰も気付いていない。故に、ゼンタは、親切心から声を掛けてやろうと、片手を上げて大きく息を吸い込んだ。――その時である。
小屋の中から、ヴェンツェルの取り巻きが二人掛りで、腰を曲げて、何か重たく長いものを運び出して来るのが見えた。その後ろに、常にも増して表情の読めぬジギスムントと不貞腐れたようなヴェンツェル、それから顔色の悪いジョスが続く。
嫌な予感が胸を過り、ゼンタはその場で踏鞴を踏んだ。
見ると、彼らが運んでいるのは、二本の棒に布を張っただけの簡易性の担架である。ゼンタは以前、街に駐在する兵士がそれに老人を乗せて運ぶのを見た事があった。――少年は、無意識のうちに乾いた喉を潤す為に、喉を鳴らして唾を呑み込んだ。強張った体は、自然とその場に留まる事になる。
視線の先では、大人たちが何時の間にか口を閉じて、担架が通り過ぎるのをじっと見守っていた。担架が目線より下にあるからだろう。静かに俯いて見送る姿は、まるで落ち込んでいるか、悲しんでいるかのようである。不意に、ゼンタは、大人たちがそう云った悲し気な姿になるのを、不死者避けの仕事をした際に目にした事があった。――そう、例えば葬式のような。
そう思った瞬間、ゼンタは全身に水を浴びせられたような心持ちがした。
「司教さま!」
ゼンタは悲鳴のような声を上げると、固まっていた体が嘘のように駆けた。
少年の足でもあっという間に距離は縮まり、か弱い手が担架に伸びる。――が、事物を覆う襤褸切れに手が届く前に、大きな体が遮った。顔を上げると、表情を失くした同志たちが、ゼンタの事を無機質な眼で見おろしていた。
はくり。――少年の口は空を食んだ。血色を引かせた幼い顔が、忽ち恐怖に強張った。弾むように駆けていた足も、今は唯ジリジリと地面を擦りながら後退しようとしている。大人たちは憐れな少年を慰めるどころか口を閉ざした儘、観察するのにも似た黒々とした眼差しで以て、じっと見詰めている。
その時、ゼンタの小心臓に呼び起こされたのは、孤児院教会で過ごした日々の事であった。――
ゼンタは、物心ついた頃には既にエイコン孤児院教会で暮らしていた。親の顔は知らず、教会で働く数人の大人が親代わりであった。他の孤児と比べてゼンタは幾らか頭が良かった所為で、彼らが決して善意だけで子どもを育てているのではないと直ぐに気が付いた。そうして、自由に生きれるようになる迄の間、待遇を少しでも良くする為に、彼らが望む好い子の振る舞いを始めたのである。
それは大凡、ゼンタが思った通りの結果を齎した。敢えて誤算を挙げるとすれば、同じく好い子であるべき側の子どもたちからも仕事を押し付けられた事だろう。どれも賢いゼンタにとっては容易い事ばかりであったが、年少であるが故に断る事は許されず、又、苦痛にもならない代わりに戯れにもならない雑務を繰り返す事は、精神的に辛いものがあった。
エイコン孤児院教会で過ごす日々は、ゼンタにとって退屈で、窮屈で、端的に言えば不幸であった。唯一ティサと出会えた事は僥倖であったが、彼女との生活も又、良い思い出で満ち満ちている訳ではない。
しかし、だからと云って、イェンシュテン司教に対して少しの恩も感じていないのかと云うと、それは全く正しくない。ゼンタは、教会に勤める極僅かな人数の大人たちや理不尽な振る舞いをする年上の子どもたちの事を、程度の差こそあれ須らく愛していた。それは教会で説教されただけではなく、少年が賢くあった所為で、人一人が生きるのに最も必要なもの、――つまり金を、物心が付く前の己が到底持ち得ない物であるとわかっていたからだ。
ゼンタは、イェンシュテン司教を含む大人たちに対して、拾ってもらった恩がある。年上の子らに対して、仲間外れにして追い出されなかった恩がある。だからこそ、理不尽な仕打ちを受けて尚、彼らを恨み切れない。だが、そう思うと同時に、貴重な菓子を自分だけで食う司教や、ゼンタの事を奴隷の如く酷使する職員、癇癪を起して手を振り上げる年上の子たちに対し、堪え切れないほどの殺意を抱く事もある。そうして、そう思った時の事を、ゼンタは賢いが故に忘れられない。……
運ばれて行く担架を、ゼンタは今一度見やった。薄黒く透けた布の下には、自分も良く知る相手が横たわっているのだと、殆ど確信していた。すると、少年の心は不思議な気持ちになった。司教を死なせた同志たちに対する怒り。親しい相手が死んだ事への悲しみ。それらと共に、司教に対して、ある種の悍ましさを感じたのだ。
自然と、ゼンタの足は音階を踏むように二つ三つ後ろへ下がる。しかし、その視線は、まるで縫い留められでもしたかのように担架の方を向いた儘だった。遠のく担架の上、イェンシュテン司教は襤褸布に包まれて身動き一つしない。それ正しく、先程少年の脳裏を過った光景と重なった。――即ち、倒れた老人と、それを運ぶ兵士である。
弾かれたように顔を上げたゼンタが見たのは、まんじりともせず自分を見おろす大人たちである。その黒々とした瞳が、まるで運ばれているのは自分自身であるかのような錯覚を、少年の心に齎した。――忽ち言い様の無い恐怖に駆られて走り出したゼンタの事を、一体誰が咎められると云うのだろう。
ゼンタは走り走り、頭を振るった。そうする自分の後ろ姿を、無数の瞳が追い掛けて来ているような気がした。考えを散らすよう、足を動かすのに集中する。ふと、――運ばれた老人は、あの後どうなったのだろう。そう云う疑問が頭を過ったが、又直ぐに頭を振って追い払った。
そうやって、ゼンタは自身の気が済むまで、決して足を止めなかった。
***
ゼンタは目指す宛ても無く、再びエイコンの街を駆けていた。短期間で二度も駆ける破目になったおかげで息が弾み、荒く上下する小さな肩からは新陳代謝による汗が滴っている。と、同時に、少年の顔面は異様な程に青褪め、爽やかと云う言葉とは正反対に歪んでいた。
少年の心を占めるのは、彼らがイェンシュテン司教を、――その亡骸を、どうするつもりなのかと云う事だけであった。否、もしかしたら司教は未だ息をしていて、治療院へ運ぶだけだったのかもしれない。布で巻いていたのも、単に司教と明かさぬ為と考えられなくもない。……
そうやって良い方に考えれば考える程、ゼンタは自身の体が冷や水に曝されているような心持ちになった。どうして司教はあの場所に居たのか。どうしてあんなにも傷付いていたのか。どうして彼らは司教を助けようとするゼンタを待たなかったのか。そうして又、彼らは司教を何処に連れて行こうと云うのか。――そう云った疑問が、絶えずゼンタの頭の中を駆け巡り、答えは悪い方にばかり傾いていった。
すると、その時である。不意に、ゼンタの耳にこんな声が聞こえて来た。
「偽物の聖女は今ムスタファー伯爵の屋敷に捕まっているらしいな」
自ずと立ち止まったゼンタの、幼子特有のまろい顎の先から汗が滴り、乾いた地面に落ちて色濃い染みを作った。が、ゼンタの瞳はそれを追う素振りがまったく無い儘、会話をしている男たちの方を向く。
「貴族の屋敷に捕まえておく場所なんてあるのか?」
「なんでも地下に牢屋があるって話だぜ」
聞くや否や、ゼンタは弾かれたように駆け出した。――目的地を見付けた少年の足取りは先程よりも力強く、それでいて軽やかだった。
ゼンタは己が成すべき事を思い出した。元より自分の行動原理はティサと云う唯一つであったはずだ。神聖同盟もシエルの実も、ゼンタの行動を決める指針には成り得ない。彼らがティサを救わないと云うならば、自分が協力する道理も無い。
そう思うと、ゼンタは意識の中に過った司教の姿を、今だけは忘れてしまう事にした。何故なら司教も又、ゼンタにとってティサ以上には成り得ないのだ。




