イェンシュテン司教 3
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市民街エイコンにある人気の無い通り道を、ひとりの若者が足早に駆けていた。キョロキョロと忙しなく顔を動かし辺りを伺い、人目を忍ぶように身を屈める姿は奇妙であり、一見しただけで何やら良からぬ事を企んでいると判りそうなものだが、生憎、街の人々は、数日前に起こった、夜でもないのに空が暗くなった所為で、空を恐れるように――そこから来る何かから身を隠すように、家の外に出なくなってしまったので、彼が不審に思われることも無かったのである。
そうして、街の人々が恐れているように、又、自身と仲間とが秘める事由からも、彼は出来る限り外へは出たくなかったのだが、拠点にある食料が底を突きそうになると、否応なしに買い出しを命じられてしまったのだった。
必要以上に警戒しながら、彼は食料の入った袋を抱いて、足早に駆ける。そうして、町外れの寂れた襤褸小屋の前で立ち止まると、辺りを見回し、誰も居ない事を確認してから、その戸を小さく叩いた。
「お、おれだけど。開けてくれ」
無い返事に再び拳を上げると、叩く前に、扉は少しだけ開いた。
暗がりの中で、濁った薄水色の瞳が、光を吸ってキラリと光る。――その眼が、彼を認識した途端、扉は人一人が通れるだけ開いた。外からの光を受けて、ヴェンツェルの顔がぼんやりと浮かび上がる。
「早く入れ」
顎で杓られると同時、荷物と一緒に部屋の中へと躍り込む。ヴェンツェルは彼の背後で外の様子を伺ってから、又素早く扉を閉めた。シンと静かになった扉の前で、暫しの間、二人で安全を確かめる。――扉の外に駆け寄る足音が聞こえないことを確かめてから、二人は破れた絵画で隠した扉の向こうへと踏み込んだ。
「帰って来たのか、ジョス」
「おかえりー」
部屋の中に居た二人の若者は、買い出しに出掛けた若者――ジョスを、軽い調子で労った。
ジョスもそれに軽く片手を上げて帰しながら、二人の足元に転がる一人からはなるべく視線を逸らして、部屋の脇にある机の上へと荷物を下ろした。
忽ち横からヴェンツェルの腕が伸び、荷物の中を漁る。出迎えなど、ヴェンツェルにしては珍しい事をすると思ったが、どうやら腹が減っていただけらしい。四つしかない硬焼きパンを両手に掴んで食べ始めた姿を横に、ジョスは残り二つとなったパンへと手を伸ばした。――が、彼が触れる前に、側から伸びて来た色違いの手がそれぞれ持って行ってしまう。
「えっ、あっ」
「うわ。なにこれ硬ぇー」
「ジョスってばもっと良いの買って来いよ」
文句を言うなら食わなければいいのに、と、ジョスは思うのだが、それを其の儘口に出来る筈も無く、空腹を悟られぬよう腹が鳴るのを抑えるしかない。と云うのも、反論したところで思い直すような奴等では無いと判っていたし、反って相手を喜ばせるだけだと知っていたからだ。
ジョスが彼らと出会ってから、もう三年程になるが、その間一度だって対等に扱われたことは無い。彼らにとってジョスは体のいい小間使いと云ったところで、居なくなろうがどうでもよい存在なのだ。寧ろ他に行くところのないジョスの方が、彼らに見限られるのを恐れて居る素振りすらある。
ジョスは彼らの機嫌を損ねないよう荷物から離れ、空腹を紛らわせるために水を汲んで来ようと踵を返した。すると、遮るものが無くなったことによって、二人が居た場所に寝転んだ儘の人影が、ジョスにもよく見える。
倒れ人は、常日頃から栄養を十分に取れている所為でふくよかになった体を、平民ならば余程出世しなければ着られないような良質の衣装に包んでいる。――尤も、それらは今、泥と血とに塗れ、仕事終わりの冒険者か傭兵か、或は浮浪者が如く汚れてしまっているのだが。
ジョスの目には、その人物が地面に俯せに倒れている所為で顔が見えず、当然、誰だかも判らない筈だった。が、ジョスはそれが誰であるかを、既に知っている。
「な、なぁ、司教は何か吐いたのか?」
ジョスは震えそうな声を必死に抑えて訊ねた。小心者だと思われて、彼らに見捨てられるのは御免だった。が、ジョスのそう云う態度は、――丹田を食む空腹も、水を取りに行こうとしていた事もすっかり忘れている姿は、恐怖と不安とに怯えているのが誰の目にも明らかであった。そうして、それを小心者と言わずに何と云うか。
しかし奇妙な事に、その場に居る誰も蔑むどころか気にした風も無い。
「全然。なんにも言いやしねぇよ」
ヴェンツェルは事もなげにそう答えた。
すると、それに連なるように、見張りを務めていた二人も口を開く。
「そのくせ、目を覚ました途端に騒ぐんだよな」
「どうせ逃げられないんだから、さっさと話しちゃえばいいのに」
世間話に興ずるように、二人は何と云うことは無い様子でこう言ったが、ジョスは恐ろしくて堪らなかった。――
事は数日前まで遡る。
その頃のヴェンツェル一派は、ヴェンツェル自身がジギスムントと新参者のヨアニスとの会話を幾度と無く妨害したことによって謹慎を言い渡されていた。元より神聖同盟の活動に積極的に参加していた訳では無いが、禁じられてみると何故だか急に暇になったような気がしてしまうもので、若者たちはジョスの家で自堕落な日々を送っていたのだが、ある日、いつものようにヴェンツェルが急にやって来たと思うと、聖なる炎の使い手の秘密を掴んだと言ったのだ。
「貴族と司教がグルだったんだ。ゼンタとか云う餓鬼が知っているのも、この事に違いない。なぁ、俺たちの手で司教に吐かせないか。謹慎なんかさせやがったアイツらに目に物見せてやろうぜ」
暇を持て余していた若者たちは、忽ち活気を取り戻した。中でも血の気の多い二人は、ヴェンツェルの気が変わらぬうちに、我に返った誰かが止めるより先に、と、その日の間に仮の隠れ家を飛び出して、気付いた時には、イェンシュテン司教の身柄は、ジョスの家の横にある襤褸小屋の中に置かれるようになってしまった。
幸か不幸か、ジョスの家族は、最近ずっと少し離れた場所にある職場に泊まり込んでいる。司教の存在がバレる心配はなさそうだが、ジョス自身は、ヴェンツェルとつるんではいるが、その実、至って平凡で、温厚な人間だ。日に日に酷くなる説得と云う名の暴力に、司教を逃がしてやるべきかとも考えた。が、そうして、今度は自身が捕らわれるかもしれないと思うと、それも出来ずにいる。
それでも時折、途方もない不安が胸の内に湧き起こることがあった。そう云う時、ジョスは決まって、こう云う言葉を口に出す。
「な、なぁ、ヴェンツェル。やっぱりこんな事バレたら不味いよ。逃がしてやろう」
「うるせぇな。テメェもグルなのか?」
「違うよ! お、おれは唯、ヴェンツェルがこんな事をしているって、ジギスムントさんが知ったら、どう思うのかなって……。そ、それだけだよ」
そう言うジョスの事を、ヴェンツェルは強く睨み付けた。すると、忽ち、ジョスの口は思うように動かなくなってしまう。――声にならない動きを繰り返してから、ジョスは、さも今し方思い付いた事があるかのように、勢いよく顔を上げた。
「お、おれ、ちょっと外の様子見て来るよ!」
言うや否や、ジョスは踵を返した。その背中に三つの視線を感じる。――その視線が、丁度、司教を見る時の視線と重なって見え、ジョスは背筋に薄ら寒いものを感じながらも、自分は仲間なのだからと、虚勢を張って歩き続けた。
***
小屋の外の井戸で水を汲み、空きっ腹がタプタプと音を立てるくらいに水を飲んでいると、急にその背後から、ジョスの名を呼ぶ者が現れた。
「おーい、ジョス!」
思わず肩を震わせたジョスが、勢いよく振り返ると、こちらに向かって手を振るダラントと目が合った。
ヴェンツェルにこき使われているジョスの事を気に掛けてくれるような、何かと気の良い男だが、今はあまり会いたくない相手でもある。
「最近見ないから心配してたんだぜ。今からアジト行くんだけど、お前も顔出せよ」
「ご、ごめんよ。家の仕事があるから……」
ジョスの口からは、自然と嘘が紡がれた。ダラントへの罪悪感よりも、秘密が露見してしまうことへの恐怖の方が勝ったのだ。
「あれ? お前の家族、今は隣町の工房で住み込みで働いていると聞いたけど」
「それは、ええと、そ、そうだ。おれは残るからって、いろいろ任されたんだよ」
「ふぅん」
と、ダラントは興味深そうに頷いた。じっと見詰められて、ジョスは気不味さのあまり、思わず目を逸らしてしまう。――その様子を何と思ったのか、ダラントは急に自分も手伝うと言って、ジョスの家に向かって歩き出した。
「俺も手伝うからよ、ちゃっちゃと終わらせて皆に顔見せに行こうぜ」
「いや、そんな、いいよ。悪いよ」
当然、ジョスは慌てに慌てた。目敏いダラントの事だ。近付けば、襤褸小屋の中に別の気配がある事に気付くだろう。そうすれば、ジョスが一番恐れているものが、見付かってしまう。
気の良い男は、今日は何故だか止まってくれない。ジョスはとうとう腕を掴んで行く手を阻んだ。そうして、漸く立ち止まったダラントは、狼狽え切ったジョスを無感情に見おろす。
「裏切るのか」
「え、な、なんのことだよ。おれは別に……」
「匿っているのはわかっているんだ。同志たちを裏切るのか」
ジョスは本当に何の事だか分からず口を閉じたのだが、ダラントはそれを図星を指された所為だと考えた。――瞬間、ダラントは引き留めるジョスの腕を振り払い、彼の背後にある襤褸小屋に向かって、一目散に走り出す。
それは文字通り瞬く間の事で、ジョスが空を切った己の腕に気が付いた時には、ダラントは既にこちらに背を向けていた。慌てて追い掛けたジョスの視線の先で、襤褸小屋の戸が、勢いよく開け放たれる。
「ここに居るのはわかっているぞ――ルベリア・シェルグラス!!」
ダラントの咆哮は、閑散とした小屋の中によく響いた。
中に居た面々は、彼の登場に意表を突かれ、目を丸くしたまま硬直している。その顔を、ダラントはぐるりと睨め付けた。そうして、それから、思っていた人物の代わりに、全く異なる風貌の人間が、地面に転がった儘である事に気が付いた。
女のそれとは違うふくよかな体に、分厚い線を覆い隠すような形のローブ。自分たちと異なる温和そうな顔つきは、心の余裕が滲んだものであることを知っていた。と、同時に、自分はそれが憎らしくて堪らなかったことも。
ダラントは、その人物の名を、自らに言い聞かせるように、ぽつりと呟いた。
「イェンシュテン司教……?」




