イェンシュテン司教 1
「居たぞ! あそこだ!」
「追え! 追えー!」
ゼンタの足が止まりそうになる度、男たちのそんな声が聞こえ、少年は必死に駆けた。常は買い物客で溢れる市場も、今や人の影ひとつ無く、しんと静まり返っている。――皆、巻き込まれては堪らぬと、戸の奥の方へと身を潜めているのだ。当然、兵士に追われているゼンタを助けようとする奇特な人は居らず、身を隠す場所も見出せぬ儘、少年は只管に走り続けていた。
すると、空き樽に隠れた裏路地から腕が伸び、少年の小さな体を瞬く間に掻き消した。それは文字通り一瞬の事で、ゼンタを追って来た兵士たちは少年が先へ逃げたものと思って、あっさりと通り過ぎて行った。
ゼンタは息を落ち着けながら振り返る。そうして、驚きのあまり叫びそうになったところを、皺くちゃの手で口を覆われた。寸前のところで声を上げずに済んだゼンタは、相手に頷き返して手を離してもらってから、今度は小さく口を開いた。
「ジギスムントさん」
どうして此処に、――僕を助けてくれたんですか。
そう問おうとしたゼンタの口は、ジギスムントの剣幕に圧倒されて、直ぐ又閉ざされてしまった。
「シェルグラス嬢が何処に居るかわかるかね」
老教師の表情は硬く、瞳に宿る必死な様子が、少年にはなんとも歪に思えた。が、助けてもらった事は事実であり、同時に又、隠しておく事でもないので、ゼンタは素直に答えてやった。
「あの、いいえ。今日は一度も見ていません」
「なに。それで追われていたのではないのかね」
「えっと、どういうことですか?」
ゼンタには心当たりが全く無かったので、怪訝に思って問うた。
すると、ジギスムントも妙に素直に答えてくれた。
「あの娘を逃すために君が囮になったから追われていると思ったのだが、違うのかね。ああ、勿論、安心してくれ。私は君たちを売るつもりはない。寧ろ助けに来たんだよ」
僅かに笑みを浮かべた老人と向き合う中、ゼンタは罪悪感を覚え始めていた。彼が必死に求めている答えを、自分は持っていない。そう告げることが、ひどく不誠実な事のように思えて仕方が無かった。それ故に、ゼンタは、眉を下げた、申し訳ないと思って止まない表情をして、こう答える。
「あの、ごめんなさい。本当に知らないんです」
「行先に心当たりは」
「ありません。でも、あの人だって、何処にも逃げられない筈です。アジトに帰ったんじゃ?」
ゼンタの答えは、ジギスムントに届いたか否か。老人は何も言わなかった。
すると、その時である。表の通りを甲冑を着た男たちが、再び足早に通り掛かった。彼らは口々に、こう云った事を話している。
「居たか?」
「いや。何処にもいない。もう逃げたんじゃないのか」
「子どもの足だ。そう直ぐに遠くまで行けるはずがない。匿っている者が居るはずだ。探せ」
誰の話をしているかなどと、考える必要もない。ゼンタは、全身に水を浴びせられたような心持ちがした。すると又、硬直したゼンタの手を、ジギスムントは矢庭に掴み、兵士たちが居るのとは反対に向かって歩き始めた。
「ジギスムントさん、どこへ……」
焦って口を開いたゼンタのことを、ジギスムントは歩きながら、僅か振り返り、唇の前に指を一本立てる、――幼子にしてやるような動作で以て諫めた。忽ちゼンタは赤面したが、老教師は気にした素振りも無く、再び前を向く。そうして、兵士たちから離れると、ゼンタは無理やりに手を振りほどいた。
「僕、行けません!」
そう言いながら立ち止まったゼンタに向かって、ジギスムントはやおら振り返った。――静かで緩慢とした動作に、ゼンタは我が身を振り返らされるような心持ちがしたが、それを振り切るように頭を振ると、改めて、強い口調でこう言った。
「ティサ姉ちゃんが捕まってしまったんです。助けに行かないと!」
必死な形相のゼンタに対し、ジギスムントは凪いだように穏やかである。
「落ち着きなさい、ゼンタくん」と、老教師は諭した。
「急いては事を仕損じると云う言葉を知っているかね。何事にも機を見るに敏な者であれば、成し遂げられぬ事などこの世には存在しない。だからこそ我々は焦ってはいかんのだよ」
「でも、姉ちゃんは……」
反論を言い淀むゼンタに、ジギスムントは静かにこう説いた。
「君がそうだったように、何も今日明日のうちに処罰を受けると云う事ではないんだ。落ち着いて計画を練る時間くらいの猶予はあるだろう。君だって、行き当たりばったりでは上手くいくはずが無いと判っているね。だとすれば、我々に協力を求めても良い筈だ」
ジギスムントの言う事は、なるほど盟主と云うだけの事はある。忽ち幼いゼンタは、今直ぐ独り行動を起こすことが、如何に愚かな事であるか解ったような気になった。そうして又、少年がそう思った事が、老教師にも判ったのだろう。ジギスムントは透かさず促した。
「その為にも、皆に詳しく話して聞かせてやってはくれないかね」
少年の自尊心を擽るような物言いに、気付かぬは当の本人だけだった。ゼンタは、それが自然の摂理と云わんばかりに徐に顔を上げ、ジギスムントの穏やかな顔を見やる。
老教師は、少年の無垢な瞳が己を仰ぐのを見おろしながら、囁くように導いた。
「はじめから君は、あのお嬢さんは聖なる炎の使い手では無いと、そう言っていたね。その理由をまだ教えて貰っていなかった。君が何を知っているのか、どうか皆に言って聞かせてやってくれないか」
***
広場に居た貴族たちは、エッカルド王ムラトの怒りを前に、漸く常の平静さを取り戻した。と、思うと、苛烈な王の不興を買わぬよう、各々、表情に乏しい顔を空へと向け、悪司教の行方を予測立てたりしながら、首の事など一様に忘れたふりをして、帰路に就く。
王ムラトは、そんな男たちを咎めぬ代わりに、麗しき男爵令嬢を呼び止めた。
「オビチュアリ、少し用がある。この後良いか」
聞くや否や、側にいた近衛騎士の中の一人が、俄かに反応したが、それに気付く者は居ない。
そうして又、オビチュアリはその命に頷かなかった。
「申し訳ありません、ムラト様。私には首の封印が残っておりますので」
己が身に纏う宮廷魔術師の証――真紅のローブの端を掴み、足元に転がったままの首を視線で示したアンホールド男爵令嬢は、常と変わらぬ美しさで以て静かに辞する。残っていた貴族の幾人かは、思わず冷や汗を浮かべたが、王ムラトは怒るでもなく鷹揚に頷いた。
「そうであったな。致し方が無い。又の機会としよう。頼んだぞ」
「畏まりましてございます」
美しいカーテシーをしたオビチュアリを見やり、満足げに頷くと、王ムラトは踵を返して颯爽と去って行った。残っていた幾人かが慌てて追い掛けて行くのが見える。
オビチュアリは王の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていたが、やがて徐に踵を返すと、誰もが見て見ぬふりをしていた首の元へと近付いた。そうして、それから、彼女の白魚のような美しい手が、不死身の怪物の首に向かって伸ばされた、――その時である。
「オビチュアリ様。そのようなもの、このヨアニスがお運びいたします」
彼女に声を掛けたのは、先程人知れず肩を跳ねさせた近衛騎士の一人であった。見ると、揃いの拵えの兜の下から、精悍な眼元が覗いている。その瞳に、確かな熱を宿らせながら、彼は言った。
「貴女のような御方が触れて良いものではございませんでしょう」
「……ありがとう、ヨアニス騎士」
オビチュアリは、僅かに躊躇ったような沈黙を置いた後、首をヨアニスに任せるべく、一歩後退った。
「ですけれど、側近の方たちが行ってしまったものですから、何処へ運べば良いのか、わからないのです。元の会議室に置くと皆さま嫌がりますでしょう? 地下も安全とは言えませんですし。とりあえずではありますが、奥の机の上にでも置いておいてくださいますか」
そう言われて、ヨアニスは暫し戸惑った。彼女の言う奥の机と云うのは、何を隠そう祭壇なのである。が、直ぐ又、彼女のような貴族にとっては、平民の祭壇など唯の机と同じなのかもしれないと思い直した。
ヨアニスが首に触れると、燃やされた後にもかかわらず、冷やりとしていた。正に、死体の温度である。が、百年も前に死んだ者であるにもかかわらず、長い髪の間から見える肌には張りがある。そうして又、肉が腐った臭いがしなければ、皮膚の下に虫が湧いている様子もない。
自然と、――それは殆ど本能によって、ヨアニスは首を慎重な手付きで持ち上げた。騎士としての職務が故、人の首の重さを知らぬわけでもないヨアニスだが、何故だか酷く重いように感ぜられた。と、同時に、首を持つ腕から這い上がるような、言い知れぬ不快感、そして恐怖が、彼の足取りを大きく早くする。
首を抛ったヨアニスが、オビチュアリを置き去りにしてしまったと気付いたのは、彼女がヨアニスの後ろから祭壇を覗き込んだからだった。オビチュアリの美しい手が、ヨアニスが投げた首を、祭壇の中央へと嫋やかに置き直す。驚き振り返ったヨアニスは、彼女の美しい唇が呪文を紡ぐのを見た。――淡い光が立ち込めて、首の周りを光の壁が囲む。
「格子でも良いのですが、雨曝しでは可哀想でしょう」
怪訝な様子を隠せなかったヨアニスだが、オビチュアリの苦笑のような言葉を聞くや否や、忽ち感銘を受けたようで、表情を緩めるに至った。そうして又、ヨアニスは言う。
「オビチュアリ様は、とてもお優しいのですね」
美しい令嬢は何も答えなかったが、首を見詰めた儘の横顔が、僅かに微笑み返してくれたように見える。――ヨアニスには、それだけで十分だった。




