聖なる炎の儀 5
壇上の貴族たちの中に居た幾人かの聡明な者は、聖なる炎が怪物に通用しなかったと云う事が、立所に判った。と、思うと、使い手の娘と、彼女を連れて来たムスタファーに対し、猜疑的な嫌悪の視線を向ける。この場所で、誰かを非難するよりも先に、原因を探るべく思考を働かせたのは、現エッカルド王ムラトだけだったのかもしれない。
「オビチュアリ! どうなっているのか解るか!」
王が叫ぶと、狼狽えるばかりの貴族たちも正気に戻った。そうして、それから、一団の後ろへと下がっていた、真紅のローブに身を包んだ美しい女の事を、無言の中に、誰からともなく見やった。――突如として、多くの視線を浴びる事となったオビチュアリ・アンホールド男爵令嬢は、流石に狼狽えたようだったが、直ぐ又、貴族らしい冷艶な表情と容とに立ち直る。
常と変わらぬ女の姿に、現王ムラトは、胸の内に湧いた焦燥を、束の間、忘れる事が出来た。そうして、それ故に、王は先よりも落ち着いた声音で以て、もう一度問うた。
「魔術師としての君の意見が聞きたい。これはどういうことだと思う」
皆が固唾を呑んで見守る中、オビチュアリは、一拍の逡巡の後、極めて冷静な声で答えた。
「恐らくですが、彼女のそれは聖なる炎ではなかったのでしょう。首は、幸いにも王城の魔法陣に拒まれて、外に逃げることが出来なかったのだと思います。だから、こうして又、この場所に戻って来た。――戻って来るしかなかったのです」
オビチュアリの言葉に、王ムラトは幾度も頷いた。が、そうして、頷く度に、眉間には色濃い皴が浮かび上がっていく。
「どういうことだ、ムスタファー!」
王の怒号に、ムスタファーは肩を震わせた。顔からは血の気が引けて、動揺している事が手に取るように分かるその様子は、常の彼と異なるものであれれば、貴族としての態度とも違っている。
偶然にも彼の近くに居た者たちは、触らぬ神に祟りなしとばかりに距離を取った。反して、王ムラトは彼に近付いた。ムスタファーは、助けを求めて視線を左右に走らせたが、誰一人として眼も合わせようとしない。
「この女が聖なる炎の使い手だと言ったのはお前だったな。私を謀ったのか!」
「とんでもございません!」
ムスタファーは、半ば悲鳴のような声で否定した。
そうして、貴族たちの視線が、必死に弁明するムスタファーに向いたその背後で、誰の目にも留まらぬ中、近付く小さな姿があった。先のゼンタである。
ゼンタ少年は、壇の上で忘れ去られたように独り立ち尽くす美しい人のことを、一心に見詰めながら、祈りの為に留まっている人の影に隠れつつ走り寄った。当然のように、誰も少年のことを気にも留めない。それ故に、ゼンタは或る意味で堂々と、人目を避けた所為で必然的に近くなってしまった首の側から、こう呼び掛けた。
「姉ちゃん。ティサ姉ちゃん」
囁くように叫んだゼンタの声に気付いたのだろう。呆けた様子で貴族たちの方を向いていたティサの視線が足元に向いた。すると、勿論のこと、壇の縁から顔を覗かせたゼンタと目が合った。途端に、表情が一転して、常の感情に乏しい美しい顔が、強い驚きを浮かべたので、ゼンタは思わず破顔する。
そうして又、ゼンタは驚きから抜け出せない彼女に向かって、こう言った。
「迎えに来たよ。一緒に帰ろう」
「嫌よ! 私は聖なる炎の使い手なのよ!」
ティサは、忽ち我に返った様子で叫んだ。――その声は、同様としたムスタファーの声に隠れ、貴族たちの元にまでは届かなかったようだが、ゼンタの背筋に冷やりとしたものが走ったのは間違いない。
慌てて彼女の後ろを見やった、その時である。弁明を繰り返していたムスタファーが、こちらを指で示しながら、こう叫んだ。
「私はティサめが不死者をその炎で焼き殺すところを見たのです!」
ムスタファーは続けて懇願した。
「信じてください、我が王よ! エッカルド貴族の名に誓って本当です!」
「ではエイコンのティサに問う。お前は自分が聖なる炎の使い手だと言って、こやつらを騙したのか」
静かに振り返った王に促されるように、貴族たちの視線が集まった。ゼンタは咄嗟に身を潜めたが、隠れる場所の無いティサは、壇上で針の筵となっていることだろう。
而して、ティサは強かった。
「違います。私は本当に聖なる炎の使い手なのです」
彼女は気丈にも、王に向かって釈明を口にした。
「先程ご覧になったでしょう。私は炎が出せるのです。この力が神が与えたものでないならば、どうして平民である私が魔術を使えるなどと云う事があるのでしょう。この力こそが神が私に授けたという証明。私が聖なる炎の使い手であると云う証拠ではございませんか」
「平民でも魔術が使えるものは居りますわ」
貴族たちが顔を見合わせる側、オビチュアリが冷静に言った。考えるまでもなくティサの言葉を否定する内容のそれに、ティサの美しい顔が苛立たし気に歪むが、オビチュアリは意にも介さず、王に向かって進言した。
「国王陛下、やはり聖なる炎など始めから存在していなかったのではないでしょうか。ムスタファー様がお始めになったのか、この娘が言い出したのかは、私めには分かりませんが、どちらにせよ、本当の目的は貴方に近付くことだったと考えれば、何も不思議な事はありません」
「なに、私にだと」
王は怪訝そうにしながらも、険相を緩めて先を促した。
「ムラト様は強く、若く、それでいて民を気遣うお優しい御心を持ってもいらっしゃいます。そんな貴方様に近付きたいと思い願ってしまうのは、貴族としても、女としても、なるほど道理と云わざるを得ません。であるならば、その為の手段を択ばないという者が居ても、何ら可笑しい事ではないのではございませんでしょうか」
「それはお前もか、オビチュアリ」
「はい。勿論でございますわ」
そう答えながら、小さく会釈してみせたオビチュアリに、王ムラトは満足げに眦を細めた。その顔からは、苛立ちも何もかもが既に拭い去られている。――そんな王の様子に、貴族たちが胸を撫で下ろす側、ベイヤーが暗闇に潜む影のようにそろりと近付いた。
「ムラト様、遅ればせながら申し上げます。このベイヤーめも、ムスタファー伯爵と同じものを見て居りますれば、彼は貴方様を謀っているのとは異なるかと」
「ベイヤー殿!」
ムスタファ―伯爵は、そう言ったベイヤーの事を、救い主でも見たかのような顔で仰いだ。
そうして又、ベイヤーの言は終わりでは無い。
「そうして、先程これを見つけた次第です」
ベイヤーは夜闇のような袖の先、対比が眩しい真白の掌の上に、透き通った瑠璃色の楕円型の石を乗せて、王へと差し出した。――見るや否や息を呑んだのは、王か、ムスタファーか、或いは其処に居る全員だったのか、陰に隠れるゼンタにも聞こえる程であった。
「それは、まさか、竜の鱗か!」
王ムラトが叫びながら問うと、貴族たちは全員、釣られるようにベイヤーを見やった。
すると、ベイヤーは静かに頷き、それからこう答えた。
「小さいですが、おそらく。これを持っていたならば、不死者を消せたのも頷けるというもの。伯爵が彼女の出す炎が『本物』だと確信したのも仕方の無いことです。――この鱗に宿る力は『本物』なのだから」
「己の力ではなく、鱗に宿る聖なる竜の力を使ったという訳か……!」
ムスタファーは憎々し気に呟いた。その表情は嫌悪に塗れて居り、騙された己に対して、又、騙した相手に対して、貴族としての体面を保てぬ程に苛立っている事が、言わずともわかる様相である。――当然、王を始めとするこの場に居る誰の目にも、決して王を謀ろうとしたのではないと云う事が、明らかとなった。
すると又、今度は彼を騙したであろうティサに対し、厳しい目が向けられたが、ティサは尚も気丈に言い放った。
「違います! 私はそんなもの知りません!」
「だが、竜の鱗はお前が居たところに落ちていたのだぞ」
ベイヤーは静かに告げたが、ティサは怯まなかった。――否、寧ろ此処で怯んでしまったが最後、彼女は虚言で以てエッカルドの貴族を騙し、王の寵愛を受けようとしたとして、在らぬ罪を裁かれることになってしまう。それ故に、ティサは口を噤むことをしなかった。
「つい先日まで平民だった私が、そんなものを何処から手に入れられると云うのですか。きっと私の力を恐れた誰かが置いたに違いありません」
「ふむ。理由は兎も角、入手については一理あるな」
ベイヤーは至極涼しい顔で言った。詐術の証拠を持って来たのと同じ人物とは思えない程に、あっさりとティサの言い分を信じたので、必死に言い募るティサとの対比が、奇妙な程である。
「だが、それなら――」
「お前! そこで何をしている!」
何やら問おうとしたベイヤーの側で、近衛騎士の鋭い声がした。
「わっ!」
と云う少年の声が聞こえると同時、壇上の脇から、襟首を掴まれたゼンタの姿が、貴族たちの目に晒される。先程とは比べ物にならない程の冷や汗が少年の背を伝う側、貴族たちの方は、騎士の片手で吊り上げられた小さな姿に微塵も興味を抱いていなかった。逃げ遅れた平民の子どもなど、今この場に置いては、気に掛ける必要のない些細な出来事だったのだ。
ゼンタは予想と反する貴族たちの態度に、安堵の息を吐いた。そうして、どうにかこの場を脱せないものかと、――それも出来ればティサと共に立ち去れないものかと、幼いながらに考えを巡らせた。
が、その時である。貴族の中から一人の男が身を乗り出して、こう言った。
「その子ども、どこかで見た覚えがあるな」
言いながら、ベイヤーは近付いて来た。この国の宰相を務める男の視線が、平民であるゼンタとの遭遇を思い出さんと、じっくりと見詰めて離さない。ベイヤーの持つ夜闇よりも黒々とした瞳で見られると、ゼンタの心には唯々惧れが湧く。この男とムスタファー邸で遭遇した後、ゼンタは囚われの身となった。――ゼンタにとってベイヤーは鬼門なのだ。
どうか思い出さないでくれと云う少年の願いは、とうとう叶わなかった。
「ムスタファ―伯爵邸に忍び込んだのは、君ではなかったかね」
ベイヤーが言うと同時、ゼンタの背筋に氷の刃が振り下ろされたような感覚が走った。その途端、少年は襟首を掴む騎士の腕を軸とするように、クルリと一回転して、脱兎の如く逃げ出した。
「逃げたぞ!」
「追え!」
少年の後を追うように、騎士たちが走り出す。
それを横に、王はムスタファーに向かって、こう問うた。
「何故そんな子どもが此処に居る。牢に入れなかったのか」
「脱獄されたのです」
「なんだと?」
王の瞳に、再び苛立ちが浮かぶ。が、それを遮るように、ベイヤーが口を開いた。
「そう言えば、あの少年の出身もエイコンでしたな。それも孤児ではなかったか」
「エイコン孤児院教会か」
ムラトの問いに、ベイヤーは唯、頷いた。が、その途端に、誰からともなく視線がティサへと向く。聖なる炎の使い手と名乗った際に、彼女は何と言ったのだったか、貴族たちの脳裏には、白いベールを被った美しい修道女と、その隣に立つ司教の姿が蘇った。
貴族たちの無機質な視線を受けて、ティサは忽ち叫んだ。
「私は関係ありません! 私は――」
「黙れ!」
王の怒号に、ティサは弾かれたように肩を揺らし、口を閉じた。
貴族たちも恐れる王の苛烈さが、今を以て外に現れている。ティサは青褪め震えながら、己を睨み付けるムラトの精悍な顔立ちを、惧れと恐怖を抱いて、唯々、見上げる事しか出来なかった。
「この娘を地下牢に入れよ」
王は、言葉少なに近衛騎士たちに命じた。
ティサの恐怖が解け消えるより早く、騎士たちの屈強な体が、非力な娘の体を引っ立てて行く。それを見送ったムラトは、依然として厳しい表情のまま、再び口を開くと、こう言った。
「ムスタファー。あの娘を連れて来たのはエイコンの司教だと言っていたな」
「はっ! エイコン孤児院教会のイェンシュテンにございます」
「俺の前に連れて来い!」
王ムラトの瞳には、反逆を企んだ名ばかりの聖職者に対する憤怒の炎が、地獄の業火の如く真っ赤に燃え上がっているのであった。




