聖なる炎の儀 1
ヴェンツェルが、苛立ちを露に隠れ家の戸を開くと、丁度、取り巻きたちが暇を持て余して、ちびちびと酒を舐めているところであった。何処から手に入れたのか、高級な干菓子を肴にしている。ヴェンツェルは荒々しい足取りでその輪に近付くと、どかりと腰を下ろした。
「謹慎させられたんじゃなかったのか」
取り巻きの一人は、こう問いながら、彼の機嫌を損ねないよう、酒で満たした杯を差し出した。透かさず別の者が干菓子を集めて、彼の前に寄せる。ヴェンツェルは乱暴な仕草で杯を受け取ると、一気に呷った。そうして、集められた干菓子を鷲掴むと、ニ三個纏めて口の中に放り込む。――ガリボリと骨が砕けるような音が、暫くの間、沈黙を絶やした。
やがて、甘さに癒されたのだろう。ヴェンツェルは苛立ちを治めて一息吐くと、取り巻きの一人に空になった杯を向けた。直ぐに又、杯を酒で満たされて、ヴェンツェルの機嫌はそのまま上昇すると、彼は再び杯を呷って、半分ほど減らしてから、何やら言いたげな雰囲気を滲ませる。
取り巻きたちはそっと顔を見合わせた。――こうした場合のヴェンツェルを放っておくと、反って面倒な事になると知っていたので、彼らは、特に気になるわけでもないのだが、興味深そうな顔をして訊ねてやることにした。
「何かあったのか?」
「いや……」
ヴェンツェルは勿体ぶって明かさなかった。
が、彼は、詳細を言わぬ代わりとばかりに、まるで天命でも受けたかのような、又或は、己が英雄譚の登場人物に選ばれたかのような――取り巻きたちには、彼の中で肥大していく矜持が透けて見えるような表情をして、こう言ったのである。
「混乱するこの世で皆を導くのは、貴族でも老人でもない。この俺なのかもしれない」
流石の取り巻きたちも、この発言にどう賛同して良いのかわからず、互いに顔を見合わせるだけだったが、ヴェンツェルがそれを気にした様子は無い。彼は唯、己が口にした輝かしい未来の情景を思い描いて、恍惚として醜悪な笑みを浮かべているのであった。……
***
同じ頃、近衛騎士としての務めを果たすべく、イオ・ヨアニスは王城へと向かっていた。城門から城へと通じる通路を歩きながら、彼の視線は、自然と、宮廷魔術院の方へと向かう。――と、その時である。真紅のローブがヨアニスの視界を横切った。
思わず足を止めたヨアニスを、側を行く同僚騎士が怪訝そうに呼び掛けたが、ヨアニスは彼に先に行くよう告げると、脳裏に焼き付いた真紅の残像を探して視界を巡らせた。そうして、ヨアニスは、魔術院の側を歩く可憐な魔術師の姿を見付けたのである。
「オビチュアリ様」
ヨアニスが騎士の歩く速さで近付くと、濃い紅色のローブを身に纏った可憐な魔術師――その名を、オビチュアリ・アンホールド男爵令嬢は、貴族と云うに相応しい嫋やかな動きで以て振り返った。今日もフードを被っていないため、彼女の持つ豊かな金髪が、日の光に照らされて輝いて見える。――ヨアニスは、それを眩しく思った。そうして、その顔に笑顔こそないが、彼女の透き通るような青い瞳の奥に、親しみと確かな信頼とを感じたのである。
「ヨアニス、ごきげんよう」
オビチュアリは、ヨアニスの感じ取った通りの声で言った。が、その瞬間、彼の心に過ったのは、月夜の晩に見た彼女の哀れな姿である。
ヨアニスは、騎士としての正義感を、そして確かな恋慕とを、王に対する義憤で以て激しく燃え上がらせようとしていた。しかし、淑やかな令嬢は、騎士の胸に湧き上がった感情に気付かぬ儘、美しい会釈を以て背を向けてしまう。今度ばかりはヨアニスも掛ける言葉が見付からなかった。――否、違う。彼は未だその時ではないと判断したのだ。
それ故に、ヨアニスは、彼女の姿が見えなくなってしまうその時まで、その場に留まることになった。そうして、それから、彼の口からは確固たる意志を持って、こう云う言葉が紡がれたのである。
「私が」と、彼は静に口を開いた。
「このイオ・ヨアニスが、必ず貴女をお救い致します」
見ると、彼の瞳の奥には唯、一人の男の妄執が、渦巻いているだけだと気付く者が居たかも知れないが、側には誰も居らなかったので、彼の考えを止められる者は、誰一人として、存在しないのであった。
***
ムスタファー伯爵邸の中にある、真新しい調度品で誂えられた部屋の中、一人の娘が、月明かりの下で、無表情ながらに口元だけを緩めていた。整った顔立ちは、貴族の中でも美しい方であるが、座り方や動作の節に粗が見える。そうして、それらの何よりも先んじて、瞳の奥に滲む欲に満ちた邪悪な眼差しが、貴族と云うには些か相応しくないように感ぜられる。
「いよいよ明日」
娘は薄く笑みを浮かべたまま、極小さな声で呟いた。シンと静まり返った夜闇の中では、小さい声でも随分よく響いたが、部屋の中には彼女の他に誰も居らぬので、声を拾う者は存在しないのと同じ事だった。彼女に唯一寄り添っていると見える月も、星々も、邪悪な娘の声など聞こえやしないだろう。
「私が。この聖女ティサが。皆を導くのよ」
娘は尚も独り呟いた。恍惚として、夢の世界を見やるかの如く。その瞳には、一体どんな景色が見え広がっているのだろうか。それは、やはり誰にも解りやしないのである。
が、屋敷を離れた何処か平民街の裏路地で、一人の少年が、娘の事を想って、空に浮かぶ月を見上げていた。――離れたところに居る娘が、己と同じ様に月を見上げていると信じての事である。
「ティサ姉ちゃん」
少年――ゼンタは、己の瞳の中に月の姿を映しながら、そっと娘の名前を呼んだ。その声には、縋るような響きと共に強い決意が感じられた。――平民の娘を騙くらかして留め置かんと画策する貴族の元より、同じ秘密を共有する自分のところへと、必ずや連れ戻してみせる、と云う決意である。
「ゼンタ、行くぞ」
その背に声が掛かった。振り返った先には、頼もしい傭兵の姿と一緒に、幼い少女の姿もある。少女は、小さな手をこちらに向かって名一杯伸ばしていた。――その手を握り返すと、ゼンタ少年は、傭兵に向かって、唯一つ、頷いた。そうして、それから、三人は夜闇に紛れて、平民街の大路小路の間の深い闇の中へと、消えて行った。
それぞれの想いを胸に、夜は更けて、又、ゆっくりと日が昇る。……
***
その日、王都はいつにも増して活気に溢れていた。
エイコンを含む城下平民街だけでなく、その側にある貴族街にも、常にない喧騒があって、人々が左右に行き来している。二つの間にある廃墟同然の神聖同盟の隠れ家でも、同じ事が起こっていた。
隠れ家には、何時に無く大勢の同志たちが集まっていた。バーデンやダラントと云ったエイコンに詳しい者だけではない。ゼンタが一度も見たことも無いような人も大勢居る。が、それに驚く少年の声は、何時まで経っても聞こえて来ない。
それも当然の事であった。ゼンタ自身が此処に居ないのである。見ると、ラーセンやスノーレ、それからヴェンツェル一派の姿も無かった。が、同志たちの誰一人として、それを気にした様子が無い。
勿論、彼らが気付いていない訳ではなかった。皆これから起こす革命の方が重要であると知っていただけなのだ。――如何なる理由があれ、陽動にも使えないような幼い少年少女や、信用ならない傭兵、手に余る若者たちが消え失せようが、計画の要となるルベリア・シェルグラス唯一人さえ残って居れば、革命は成功する。故に、あのダラントですら、少年たちを探そうなどとは思いもしなかったのである。
集まった者たちの中心で、ジギスムントが咳払いをした。忽ち室内は水を打った様に静まり返る。老教師は満足げに頷いてから、皴の刻まれた口を大きく開いた。
「同志たちよ!」
ジギスムントは年寄りとは思えぬ大声で言った。
「時は満ちた。今こそエッカルド王家からの脱却の時。ルベリア・シェルグラスの証言を以て、王家の企てた悍ましき魔術の真実を、すべての人々に伝える時が来たのである!」
名を呼ばれたルベリアは、ジギスムントの隣で鷹揚に手を掲げた。貴族らしくなく笑みを浮かべた顔は美しく、民衆を導く女神が如きその姿に、彼女の性根が腐っている事を知らない者たちからは、好意を過分に含んだ熱視線が送られた。
「決行は本日正午過ぎ。聖なる炎の儀の為に広場に貴族どもが集った、その時である」
同志たちは、盟主ジギスムントの決起の声を聞きながら、己の血潮の中に湧き立つ“何か”を感じ始めていた。それはこの国に生きる者として、長年に渡り尊んで来た王家に反する事への恐怖だったのか。或は、長年に渡り理不尽に奪われ続けて来た魔力が、シエルの実を食わなくなったことで、漸く自身の体に留まるようになったのか。真実は誰にもわからなかったが、言葉に出さぬ儘に誰もが後者であろうと考えて、一層奮い立ったのであった。
ジギスムントは、老教師たる察しの良さで、彼らの中に生まれた猛然たる勇気を感じ取った。そうして、それを更に高まらせるべく、こう叫んだ。
「真実をもって“聖戦”は始まるのである!」
気付かぬ中に、ジギスムント自身も瞳の奥を情熱で燃え上がらせながら、右手の拳を高く掲げた。と、思うと、次の瞬間には――それは文字通り一瞬間の後に、同志たちの口からは、大きな大きな「応」と云う言葉にならない声が上がり、大きな一塊の音の壁のようになって、崩れかけた隠れ家の壁や塀を、ビリビリと震わせたのである。
革命の狼煙は、愈々として、上げられようとしていた。




