シエルの実 1
あれから数日が経った。
ゼンタたちは隠れ家の外に出る事一切叶わず、退屈な日々を過ごしている。
手遊びに勤しむスノーレの傍ら、ゼンタは歯痒い思いをして、これからの事を考えていた。ティサを救い出す唯一の手段は潰えた。何より、今のティサは平素と違っている。貴族と云う名の呪縛から解き放たなければ、彼女がゼンタの元へ戻って来てくれる事は無いだろう。ならば、自分はどうすれば良いのか。ゼンタはそればかり考えていた。
ふいに隠れ家の戸が開き、騒がしい連中が入って来た。年は二十を少し過ぎたくらいで、皆ダラントやラーセンよりも幾らか若い。貴族を真似た上物の上着に、冒険者のようなズボンとブーツを履いている。――ゼンタは、教会に来る裕福な家の主人らから、ここ最近になって、手塩に掛けて育てた倅が、傾奇な格好を好むようになったと嘆くのを聞いた事があった。
若者たちは、何やら盛んに言い合っては、その都度、腹を抱えて笑った。突如として響く大声に、ゼンタは無意識の内に身を竦めた。それは何もゼンタだけの事ではない。彼らがあまりに賑やかな様子なので、家の中の視線が集まっていた。が、若者たちにそれを気にした様子は無い。それどころか、注目を浴びる事に対して、愉悦すら覚えて居そうな様子であった。
ゼンタは、若者たちの異様な態度に、声を潜めて、側に居る男へ問い掛けた。
「あの人たちは誰?」
「ああ、ヴェンツェルだよ」
顔を上げたラーセンは、一瞥した後、嫌そうな顔を隠しもせずに、そう答えた。
彼は又直ぐに視線を戻してしまったが、その先では、スノーレが小さな手を使って、彼の手指を握ったり離したりして遊んでいるのが、平和な様子だった。
「俺の聞いた話では、なんでもジギスムント様の息子だか甥だかって事らしいが……。あんまり近付くなよ。見れば分かるだろうが、良いヤツだなんて言えたものじゃないからな」
ラーセンの語り口は静かなものだったが、話の後半は特に声を潜めて言った。周りに居る誰にも聞かれたくないようだった。
ゼンタは忽ち興味を引かれ、身を乗り出した。――心の中に蟠っていた不満や憤りが、謎めいた言葉によって好奇心へと姿を変えて、一挙に溢れ出ようとしていたのだ。
「なにかあったの?」
「スノーレが、ちょっとな」
しかしラーセンは、そう言うのみで、苦笑を浮かべる他、それ以上の事を明かすつもりは無いようだった。ゼンタは詳細を聞きたい己を抑え込んで、「ふぅん」と、気の無い返事をした。
折に、隠れ家の戸が開き、同志の一人が入って来た。先の若者たちとは違い、一般的な平民と同じ格好をして、手には大きな籠を持っている。その中には、赤々としたシエルの実がいっぱいに入っていた。
籠が机の上に置かれると、砂糖に群がる蟻の如く、家中の者たちが一斉に集まった。そうして、まるで示し合せたように、実を一つだけ手に取ると、元居た場所へと戻って行った。
「あら、懐かしいわね」
人の動きに興味を引かれたルベリアが、机の上に置かれた籠を覗き込んで、こう言った。
「これって配給制でしょう? よくこんなに手に入れられるわね」
ルベリアは御座なりに籠へ手を入れると、実を二つほど取り出した。どちらの表面にも傷が無い事を確かめると、より綺麗な方を手に持って、袖で拭うと、齧り付いた。すると自然に、男たちの視線が集まった。――室内には、彼女が実を咀嚼する音だけが、奇妙な程に響き渡る。
その中、意を決したような表情をしたヴェンツェルが、仲間が囃し立てるのを横に一歩踏み出した。彼は、ルベリアの側まで来ると、顎を反らして、得意げに話し始めた。
「俺たち神聖同盟には、たくさんの同志や協力者がいるのさ。この実も、俺たちの神聖な活動の糧になるならばと、町に居る支持者たちが快く譲ってくれるんだよ」
「へぇ、そう」
と、素気無く答えるルベリアに、ヴェンツェルは、手本の様な、意表を突かれた人間の顔をした。が、それを見て、尚、ルベリアは、彼に対して少しも興味が湧いていない様子を隠しもしなかった。そうして、終には、残るもう一つの実を、指で撫でて磨き始めた。
ヴェンツェルの顔が、屈辱に赤く染まるのを側に、ルベリアはこう問うた。
「ねぇ、あのバーデンって人は、ここへはあまり来ないの?」
「バーデンだって?」
ヴェンツェルは気に入らないと言わんばかりに語気を強めた。
「ああ、バーデンね。腰抜けのバーデン。あの野郎は平民街には来ねぇぞ。同盟の活動だってやらねぇしな。金持ちと茶でもしばいてる方が性に合うんだろ。お貴族サマが好きみてぇだからな」
悪意と侮蔑が富んだ声に、ゼンタは思わず顔を顰めた。否、寧ろヴェンツェルとその仲間以外が、不快感を露わにしていた。が、誰もがヴェンツェルとルベリアとを注視していた為に、その事実に気が付く者は一人も居なかった。
家中の注目が集まって尚、ルベリアの言動は変わる事を知らない。彼女は、側に立つヴェンツェルを見上げると、美しい顔にあからさまな嘲笑を浮かべた。――刹那、若者の顔は真っ赤に染まる。その様子を、ルベリアは再度、一笑に付した。
「普通に考えて、そう思うに決まっているでしょ」
「なに」と、ヴェンツェルは気色ばんだ。
「誰が平民でなんて居たいと思うのよ。こんな狭くて汚い所にだって、本当は居たくないわ。――アンタはそうは思わないみたいだけど」
ルベリアは、言外に、信じ難いと告げるや否や、蔑みで以て口を反らした。ヴェンツェルは先の言もあって反論する事が出来ず、二人の間には無言が成った。が、それは決して穏やかな静寂ではない事は、誰にでも分かった。
その時である。再び隠れ家の戸が開いたと思うと、ダラントが足取り軽く現れた。彼は家中に満ちる重苦しい程の沈黙が分からぬ儘に、二人の横を通り過ぎようとして、その側にある籠に気が付いた。
「おっ! シエルの実があるじゃねぇか。そうか、今日は配給日だったな」
静かな中に、陽気な声が木霊する。――ダラントは籠から実を一つ取ると、視線を巡らせ、こちらを見る視線の中に、少年ゼンタの姿を見付けた。そうして、何にも気付かぬ儘に、少年の元へ歩み寄った。
ゼンタは、ダラントが近付くに釣れ、すべての視線が自分にも又、向けられるのを感じた。が、逃げる訳にもいかず、唯、その障りを受けぬよう身を小さくするしかなかった。
ダラントは俯く少年の横に腰を下ろすと、シエルの実に齧り付いた。――顔を上げぬゼンタとは違い、ぼんやりと眺めるスノーレの眼には、男の指の間から覗く赤い果実の表面に、虫食いの跡が覗いて見えたが、元より口の利けない幼女にそれを指摘する術は無かった。
半分程実を齧り、芯を避けるために引っ繰り返しながら、ダラントは漸く、隣の少年の手に、実の残骸すら無い事に気が付いた。と、思うと、彼は当然の様に、実を口に含みながら、こう訊ねた。
「なんだ、ゼンタは食ってねぇのか。剥いてやろうか?」
「いらない」
と、ゼンタは顔を伏せた儘、素気無く答えた。そうして、それから、何をそんなに恐れる事があるのだろうと思い至って、顔を上げた。すると、集まっているとばかり思っていた視線の一つも、自分たちを見ていない事に気が付いた。――恐れていた災いは、やって来なかったのだ。
ゼンタは忽ち元気になって、こちらを窺うダラントに向き直った。
「ティサ姉ちゃんは……、ムスタファ―伯爵はどうだった?」
少年の期待に反し、途端に眉を下げて、ダラントはこう答えた。
「お前たちが逃げたのなんか、どうでもいいって感じだったぜ。貴族街も平和なものらしい」
「一応は死刑が決まっていた人間が逃げたっていうのに、気にしていないのか」
側に居るラーセンが口を挟んだ。ゼンタは、ティサの事を問いたかったが、彼の真剣な表情を見ると、利口ぶって口を閉じる事にした。
「どうもそうらしい。まぁ、貴族どもは皆、何を考えているのか分からねぇ顔をしていやがるからな、腹の中じゃあ、どうなのかは知らねぇが。何にせよ、捜索隊が組まれた様子は無いらしいぞ。あの門番……オイスタイン、だったか? 色々教えてくれたぜ」
良い奴だな、と、ラーセンに笑い掛けたダラントだったが、それを遮るように、別の声がした。
「首が出たからでしょ」
ルベリアだった。彼女は、驚き振り返ったダラントやラーセンに対し、高圧的な態度で以て、続け様に、こう言った。
「たかが平民二人の命より、首をどう処分するかの方が重要だからよ。決まっているでしょ」
大人たちが見るのと時を同じくして、ゼンタも女の方へと顔を向けたのだが、彼女の背中越しに此方を睨み付けるヴェンツェルに気が付くと、又直ぐに視線を戻した。
が、男二人は、それに気付いているのかいないのか。何を恐れる様子もなく、唯、怪訝そうな顔をして、彼女に向かって問い掛けた。
「二人って言うが、あんたも捕まっていただろうが」とはラーセンの言だ。
「その言い分なら、貴族であるアンタが逃げたって事は、又別の話になるだろう。捜索隊が出るのが当然じゃないのか」
「私の場合は冤罪だもの」
ルベリアは平然として、解り切った事を言うなとばかりに一蹴した。が、ルベリアは、それだけでは納まらなかった。彼女は、目の前に居る男二人と、ついでに、側に居た少年に向かって、勝気な態度を崩さずに、こうも言って退けた。
「それにね、首が出たとなれば、今直ぐにでも私の言い分が正しかったのだと、馬鹿な貴族連中は疎か、エッカルド王さえも分かったはずだわ」
聞くや否や、三人は顔を見合わせて、誰からともなく、片方の頬だけを持ち上げた、歪な笑みを浮かべた。そうして、それから、誰が一番に口を利くのかを、目線だけで押し付け合って、終に、根負けしたダラントが、口を開いた。
「じゃあ、なんだ、貴族のお仲間さんの元に帰るのか」
言いながら、顔を顰めたダラントに、ゼンタは女が怒り出すのではないかと冷や汗を掻いた。が、少年の不安を余所に、ルベリアは上機嫌な儘、こう言った。
「アンタ馬鹿なの。そんなことする訳ないじゃない」
「あ?」と、ダラントは片眉を吊り上げた。
「一度だろうとこの私を地下牢に入れたのよ? そう、それもあんな化け物がいる地下に! 信じられないわ。なんでそんな奴らの元に帰らないといけないのよ! それこそ頭でも下げられなければ帰ってなんかやらないわ! 考えればわかるでしょ!!」
ルベリアは、話の途中で、唐突に怒りを思い出したらしい。果てには肩を怒らせて、そう叫んだ。――ゼンタの恐れていた事が、僅かに遅れて、現実のものとなったのだ。
狂女の再来に、少年が身を縮める中、ルベリアは怒りを落ち着かせようと云う気持ちが全く無い様子で、鼻息荒く、部屋を出て行った。その後を、ヴェンツェルたちが、一度、勝ち誇った笑みを浮かべて振り返ってから、足早に追いかけて行った。――彼女に与えられた部屋で、美しさを褒めそやして、機嫌を取るのだろう。
高いヒールが床を打つ音が消え去り、暫くしても戻って来る様子が無くなってから、漸く、ゼンタは安堵の息を吐いた。
「おお、怖い怖い」
と、ダラントが言葉とは裏腹に、厭味らしい笑みを浮かべながら言った。
「美人だがあんな女は御免だな」
同意するように頷いたラーセンの側で、ゼンタはひとり、浮かない顔をしていた。
気付いた男たちが、如何様か問うと、
「本当に帰らないのかな」
ゼンタは静かに不安を零した。すると、男たちは顔を見合わせ、同時に破顔した。
「帰らないんじゃなくて帰れないんだよ。冤罪だろうと、貴族がそう簡単に地下牢なんかに入れられるかよ。他にも相当不味い事をやったに違いないぜ」
ダラントはそう言ったが、ゼンタには違いが分からず、唯「ふぅん」と、分かったような口を利く事しか出来なかった。が、そうして又、ダラント自身も、少年に話して聞かせてやれるほど貴族社会に明るくない為に、言及はしなかった。――その事に気が付いたのは、同じ年の功を生きたラーセンくらいのものである。が、彼も又、ダラントの為を思って、それを指摘しなかった。
「そんなことよりゼンタ。お前、本当に食わねぇのか?」
問いを重ねられぬ内にと、ダラントは別の話題を口にした。彼の手の中にあるシエルの実は、既に、種と芯を残すのみとなっている。
「いらない。あんまり美味しくないんだもん」
「そうか? 美味いけどな」
「僕の分はダラントさんにあげるよ」
「いいのかよ。食ったら好きになるかもしれないぞ」
そう言いながらも、ダラントはいそいそと籠へ近付いていた。そうして又、実を一つ取ると、ゼンタの隣に戻って来て、軽く袖で拭っただけで齧り付く。――シャリシャリと、歯が果実を削ぐ音がした。ゴマ髭の生えた口の中に、皮の赤色と果肉の薄黄色とが消えて逝く様子を、ゼンタが、嫌悪に近い感情を浮かべながら、黙って見詰めていた。
が、そうして又、その横では、ラーセンとスノーレが、そんなゼンタの様子を、表情を失くした顔で、じっと見ていた。……




