隠された真実 その裏で
神聖同盟の隠れ家を離れると、ひっそりと静まり返った夜がある。
元より人気の無い大監獄アブラプトゥムの側は、夜ともなれば一層静かなものだった。そうして、道などの極僅かな範囲を残し、人の手を離れた大地には、自然が溢れ、背丈を超える草木が覆い茂っている。――その中で、一匹の狼が眠っていた。否、寧ろその生物は、狼にしては異様な程に長い手足をして、まるで人のような姿形をしている。が、服から覗く手足は、獣の姿をした顔と同じく毛深くあって、どう捉えようにも人間では有り得なかった。
沖合から、――大監獄を挟んだ遠く海の果てより、生暖かく湿った風が吹くと、半獣半人のソレは、眠ったまま、獣の顔を顰めた。まるで人間のような表情だが、そうして又、人には到底成し得ないような、僅かな臭いを嗅ぎ分けている。――死臭だ。世界を巡る海で死んだモノの臭いと、大監獄に眠る亡霊たちの臭いだ。
ソレは、不快そうに鼻を擦った。それは又、人間のような仕草だったが、そう思ったところで、草に体を擦り付け、――つまり殊更野性的に――地面の上で居場所を整えたのを見ると、やはり人では無く、獣に近い存在のようであった。
半獣半人のソレが、再び寝息を立てようとした、その時である。
「寝てるんじゃないよ、犬ッコロ!」
「痛ってぇ!」
何者かが、ソレの腹を蹴り上げた。すると、ソレは痛みに声を発しながら飛び起きた。蹴られた場所を擦りながら呻き声を上げる、その様子は、やはり人間のようであったが、同時に、追撃を警戒して全身の毛を逆立てる様子は、正しく獣であった。
ソレは、寝起きの所為で意識がはっきりとしない中、目を白黒させながら辺りを見回し、直ぐに、僅か数歩の距離に立つ女の姿を捉えた。膝丈程のマントを羽織った、長い赤毛の人間である。半獣半人には、それが誰か一目で分かった。と、同時に、驚きのあまりポカンと口と目を開いて固まる。――すると、女は嘲りに満ちた物言いをした。
「アホ面曝してんじゃないよ」
「テメッ、オルテガァ!? なんでここに、いや、それよりもテメェ、この俺を蹴りやがったな!」
「サボりを叱って何が悪いって言うんだい、この駄犬が」
言うと同時に、女は腰に手を当てて仁王立ちになった。マントの合わせ目から、傷一つない美しい肌が露わになる。――彼女は、太腿すら覆えないような丈の短いズボンと、胸当てだけしか身に纏っておらず、殆ど裸に近い状態だったが、それを恥じ入る様子は無い。
又、半獣半人も、女の所業に対しての非難こそ口にしたが、その恰好に対しては何も言わない。否、寧ろ興味すら湧いた様子が無いので、やはり、その大凡は人間ではないのかもしれなかった。
「それで? なんでお前が居るんだよ」
大凡は狼だが人でもあるその生物は、不機嫌そうに、女――オルテガに問うた。
すると、彼女も又、苛立ちを返すように顔を顰めて、後方を指差しながら、こう言った。
「アタシだけじゃないさ」
彼女の背後で、茂みが忙しなく動いた。と、思うと、草陰の合間から、年若く小綺麗な格好をした青年が姿を現した。――彼は、自分に向いた視線に気付くと、忽ち表情を明るくした。
「ガルムヘッグさん、お久しぶりッス!」
「セリオンか!」
狼と人間の境目の生物――ガルムヘッグと呼ばれた半獣半人のソレは、喜色を浮かべて、彼の名を呼んだ。下手をすれば百年ぶりともなる再会だったが、オルテガに対してもそうだったように、相手の姿形が微塵も変わっていないおかげで、彼が誰なのか直ぐに分かった。そうして又、彼――青年セリオンは、素直に再会を喜んで良い相手だった。
喜びを分かち合おうとガルムヘッグが腰を上げると、セリオンの後に続いて、今度はとんがり帽子の娘が、草を掻き分けながら現れた。
「ヴィーカまで居るのかよ!」
ガルムヘッドは、再び、喜色を浮かべて名を呼んだ。が、ヴィーカは、ローブに着いた葉を払うのに夢中で、顔を上げる事すらしない。その背中では、菫色の細く長い三つ編みが、草を巻き込んで絡まっており、見兼ねたセリオンが手を貸したが、彼女は尚も顔を上げなかった。
大方綺麗になってから、漸くヴィーカは顔を上げた。そうして、己を見やる狼人間に目を向けると、僅かに瞳を輝かせながら一歩近付き、ソレに向かって、己の柔い右手を差し出した。
「お手」
「ぶっ殺すぞテメェ」
ガルムヘッグは牙を剥き出しにして、唸り声を上げた。――怒りを露にした半獣の姿は、見る者に生臭い血のにおいを錯覚させる。又、頭部を上下に別つが如く、頬を裂く様に開かれた口は、人間の頭部など軽く丸呑み出来てしまいそうで、心底から悍ましいと思わせる物であった。
が、ヴィーカは怯えるのではなく、しょんぼりと肩を落として手を引っ込めた。
それを見ていたセリオンが、へらりと軽薄な笑みを浮かべて言う。
「お手ぐらいしてあげたらいいじゃないッスか」
反論しようと口を開いたガルムヘッグだったが、それよりも早く、オルテガが鼻で笑った。見ると、彼女は心底からの嘲笑を浮かべて、半獣を見下していた。
「しないんじゃなくて出来ないんだろ。馬鹿犬だからね」
「あっなるほどー」
「なるほどじゃねぇんだよ!」
ガルムヘッグは低く唸ったが、三人はどこ吹く風と云った様子で、怯えの欠片も無い。
先に諦めたのは、半獣の方であった。彼は舌打ちの後、不貞腐れた様子で地面に腰を下ろすと、膝を抱えて丸くなった。その耳は、力無く伏せられている。――それを見て、ヴィーカが再び身を乗り出したのを、皆が気付いたが、促す者は居なかったし、彼女も又、再び手を伸ばすような愚行はしなかった。
その時、沖合から、又、風が吹いた。
草木が騒めき、辺りは一瞬、――それは文字通り瞬くような間だけ、生き物の気配が消え失せた。そうして、ガルムヘッグは再び鼻を掠めた死骸の臭いに、顔を顰めつつ、口を開いた。
「それで? 勢揃いでどうした。こっちは相変わらず何の動きもねぇぞ」
風が止み、辺り一帯が静まり返る中で、半獣の声は妙に良く響いた。――僅かに、硬く強張って聞こえたのは、静寂が齎した錯覚か、或は真実そうであったのか。発したのが獣の顔では、誰にも分からない。
耳に痛い程の静寂が一拍通り過ぎると、傲慢とも取れる勝気な女の声が、こう言った。
「さぁてね。参謀の御命令さ」
「命令?」
と、ガルムヘッグは鸚鵡返しに訊ねた。
見ると、オルテガは、半獣に対して常に浮かべていた嘲りを消して、心底から愉快そうに唇を反らしていた。人間に獣の表情は分からない。が、半獣には人間の表情が良く分かった。そうして、それから、ガルムヘッグは、彼女が自分に対する嘲笑を消すときを、昔に知っていた。
「“全部壊せ”」
オルテガはそう言って、反らした口から犬歯を覗かせる。――野蛮な笑みだった。半獣であるガルムヘッグよりも獣に近い。彼女の心の内に居る野蛮な精神が、滾滾と溜まり積もった怒気を、殺意を、怨恨を、ぶつける場所を与えられ、歓喜に表情を歪めているのだ。それは正に、血に飢えた獣が如く、見る者に嫌厭の情を抱かせる。
が、彼女の衣装を咎める者が居ないのと同じで、忌避する者は、生憎ここには居なかった。セリオンやヴィーカ、そして半人のガルムヘッグも、皆が皆、彼女と似たり寄ったりの歪な笑みを浮かべている。何故なら、彼らの心にも又、百をも過ぎる長い年月の間、積もり積もった恨み憎しみが、行き場を求めて蠢いていたのだ。
――そうして今、それは示された。
「漸く、アブラプトゥムを崩壊させる時が来た」
そう言った女の前に、地面は無かった。大監獄と本土とを繋ぐ橋は既に無く、両者の間には、底が見えぬほど深い堀が続いている。その淵に、月明かりを受けて浮かび上がる四つの影が、並び立っていた。
忘れた頃に吹くだけだった海風が、奈落の底より、絶えず強く吹いている。オルテガの長い赤髪や、ヴィーカの細い三つ編み、それから彼らが身に纏うローブが、はたはたと音を発ててひるがえった。――人間の鼻にも分かる程の死臭が、風に乗って地上まで漂って来ている。が、オルテガはその先にある廃墟を見ると、堪え切れぬ笑みを零しながら、口を開いた。
「いいかい駄犬、中身の事は気にしないで、全部壊すんだよ」
「あ? いいのか、だって……」
「参謀からのご命令だよ。“中身は気にするな”ってね」
言うや否や、オルテガは愉快とばかりに声を上げて笑う。今宵の彼女は、何時に無く上機嫌だった。が、それは四人の誰にも言える事でもあった。故に、ガルムヘッグは、常であれば噛み付くような呼ばれ方をしたが、大人しく彼女の視線の先を見やった。
「じゃあ、行きます?」と、セリオンが常と変わらぬ飄々とした態度で言った。
「早く行こう」ヴィーカは逸る様子を隠しもしない。
「よし、行くか!」ガルムヘッグは胸の前で両の拳を突き合わせた。
そうして、地面を蹴ったのは誰が最初だったのか。四人は殆ど同時に、その身を宙へと躍らせた。




