逃亡者 1
ゼンタたちは、神聖同盟のアジトには向かわず、ダラントの知り合いが営む寂れた宿に匿われる事になった。今にも外れそうな扉を開くと、壁板の間から差し込む光に照らされた薄暗い受付があり、初老の男が肘をついて転寝をしていた。彼は、ゼンタたちが入ってきた事にも気付かず、無防備に寝息を立てている。
一同は、ダラントの後に続いて、無言の儘その脇を通り過ぎ、抜け落ちそうな階段を上がった先にある角部屋に案内された。
「しばらくの間は、ここに隠れていろ」
室内は、受付と同じく薄暗いが、辛うじて宿としての体裁を保っていた。
二つ並んだ寝台に、傾いた荷物代がひとつ。壁板の間にある溝には、粘度の様な物が埋められており、光が漏れ込む事も無い。そして驚く事に、元は高級宿だったのか、備え付けの洗面台があった。――蛇口は赤く錆び付いて、周囲の壁は湿気で腐っていたが、それを態々指摘する程、彼らは疎かでは無かった。もっとも、ゼンタが置かれていた孤児院の一室に比べれば、隙間風が入らないだけマシだと云えたし、傭兵であるラーセンにしても、屋根があるだけで有難かった。
が、その一方で、空気を読まぬ声が上がった。
「ねぇ、お風呂はどこにあるの?」
「風呂!?」
と、ダラントは裏返った叫び声を上げたが、女はそれを気にせず、無遠慮に室内を見回した。そうして、窓とは反対側の壁にある扉に気付くと、断りも無く開け放った。――勿論、浴室があると思っての事だろう。が、其処に在ったのは、寝台がギリギリ置ける程度の広さの、物置の様な別室だった。
「平民の宿に風呂なんかあるわけないだろう」
「シャワーでも良いわ。ずっと閉じ込められていた所為で肌が気持ち悪いのよ」
「いやだから……」
と、呆れ返ったダラントの言葉を、何故かラーセンが制した。彼は視線だけで何かを伝えると、ダラントは渋々と云った様子ではあったが、一転して、彼女の希望を叶える言葉を口にした。
「わかったよ。でも裏庭で水浴び程度でいいか? 風呂なんて貴族か教会にしか無い。そんなところに連れて行ったら一瞬でバレちまう」
「ハァ!? この私に、庭なんかで裸になれって言うの!?」
「見張りでも付ければいいだろ!」
ダラントは苛立ちに任せてそう叫ぶと、女を連れて部屋を出て行った。
残されたゼンタとラーセンは、互いに顔を見合わせた後に、揃って肩を竦める。
「あの人、本当に貴族なのかな」
ゼンタがそう訊ねたとき、ラーセンは、床の上に座り込んだスノーレを抱え上げて、寝台の上に座り直させたところだった。そのまま倒れ込んだ少女の背を、優しく叩いてやっている。
ラーセンは、それとは反対の手で、思案深げに顎を撫でながら、こう言った。
「シェルグラスと云う土地は、確かに存在する。つまり、その名を持つ貴族が居るって事だ。それがあの女かどうかは、俺には判らないが、あの妙に自信ありげな態度が気になる」
「あんな貴族もいるんだね」
ゼンタは、思っている事が手に取るように分かる女の表情を思い出して、そう言った。あれならば、ティサの方が反って貴族らしいのではないだろうか。――と、思うと、彼の脳裏には、一瞥もくれないで自分を知らないと言った彼女の美しい横顔が蘇った。そうして、それから、彼の臓腑の奥底から、云い様の無い不快な感情が、蜷局を巻いているのが分かった。
「まぁ、どちらにせよ、あの女に同盟の存在がバレる訳にはいかない」
ラーセンは、ゼンタの心持ちには気付かず、そう言った。否、寧ろ気落ちして見えたので、彼は、努めて明るい声を出した。
「アジトまで逃げられれば安全だ。だから適当に機嫌を伺いながら、隙を見て逃げるぞ」
「うん。わかっているよ」
と、ゼンタは笑みを浮かべて頷いた。彼は賢い子どもだった。
「そうか。よし、それじゃあ、とりあえず、お前もベッドで休め」
ラーセンは、安堵の微笑を浮かべて寝台を勧めた。
ゼンタが隣の寝台に大人しく横になると、当然、スノーレの頭と同じ高さになった。が、その視線が交わることは無い。彼女は、既に夢の世界へと旅立っていた。――ゼンタたちが牢に囚われている間、彼女が何処でどうしていたのかは知らないが、きっと不安で眠る事も出来なかったのだろう。ラーセンの腕の中で、安心しきった顔で眠っているスノーレを見て、ゼンタは穏やかに微笑んだ。
その一方で、彼は少しも眠くなかった。反って、眼が冴えているくらいである。見れば、ラーセンもスノーレの側に腰かけて居るだけで、横になる気配は無い。
気が付くと、ゼンタは横になった儘、口を開いていた。
「ラーセンさんは、よく逃げられたね」
「ん?」
ラーセンは座った儘ゼンタを見下して、首を傾げた。
そうして、真意が伝わっていない事に気が付いて、ゼンタは言葉を付け加えた。
「貴族の女の人に連れて行かれたでしょ。あの人は魔術師で、ラーセンさんは魔術の実験台にされるって聞いたよ」
ゼンタがそう言うと、ラーセンは漸く合点がいった様子で何度も頷いた。そうして又、思案するように顎に手を当てると、暫くの間じっと考え込んだ。ゼンタは何をそんなに考える事があるのだろうと、寝台の上で顔を上げ、ラーセンが口を開くのを待った。
「……もしかしたら、わざとだったのかもしれない」
ラーセンは、難しい顔で、秘密を打ち明けるが如く声を潜めて、話し始めた。
「お前も知っている通り、俺は城の地下から連れ出されて、あの貴族の屋敷に連れて行かれたんだんだが、――其処にスノーレが居たんだ」
「スノーレが」
と、ゼンタが思わず口を挟むと、ラーセンは、ひとつ頷いた。
「あの女貴族は、たとえ平民であろうと子どもは皆、慈しむべきだと言っていたが、それはどうやら本当らしかった。スノーレは、お前と別れて直ぐに彼女に見付かって、そのまま匿われていたようなんだ」
ゼンタが驚愕の叫びを上げると、ラーセンは同意を示すように何度も頷いた。が、驚くべき話は、尚も続いた。
「彼女は、俺に最期の挨拶をさせてやると言って、スノーレと二人だけにした。この時までは、俺も助かるとは思っていなかったんだが、話が終わった事を伝えようと扉を叩いても返事が無い。怪訝に思って扉に手を掛けると、なんと鍵が掛かっていなかったんだ!」
「それじゃあ……!」
「俺が恐る恐る部屋から顔を出すと、廊下には誰も居なかった。俺はスノーレの手を引いて、部屋を出て、無人の屋敷を歩いた。――そうなんだ。屋敷の外に出るまで、俺たちは誰にも行き会わなかった! ムスタファーの屋敷を覚えているか? 建物の中にも門の前にも、見張りが大勢居ただろう。貴族の屋敷なんて何処も同じだ。女の屋敷にも、連れて行かれるときには確かに大勢居た。だが、俺たちが逃げるときには一人も居なかった!」
ラーセンが語勢を強めるに連れ、ゼンタも殆ど興奮した状態で、鼻息荒く何度も頷いていた。と云うのも、彼の話を聞けば聞く程、あの女貴族は、始めから二人を逃がす為に動いていたとしか思えなかった。――貴族にも良い人が居る。一人居たのだから、もっと居るのかも知れない。そう思うと、ゼンタの心を覆っていた憂いが僅かに晴れて、希望と喜びが湧いて来た。
が、それも束の間、ラーセンは少年の前で、再び顔を曇らせた。
「だが、そうする理由がわからない」
「どうして? あの人が、唯、良い人だったって事でしょう」
「お前、本当にそんな事が有り得ると思うか?」
険しい顔で訊ねたラーセンに、貴族の事など大して知らないゼンタは、何も言えずに俯いた。
その時である。部屋の扉が、見た目通りの軋んだ音を発てて開いた。
「あぁー! クソッ! 何様なんだあの女は!」
思わず身を竦めたゼンタたちを余所に、入って来たのはダラントだった。
彼は、怒りで顔を赤く染め、足音荒く部屋に踏み込んで来た。と、思うと、彼はその儘、ゼンタが横たわる寝台に勢い良く腰掛けた。――その反動で、少年の体は、一瞬、宙に浮いた。が、それは文字通り一瞬の事である。ゼンタは、弾んだ拍子に鞭打った首を撫でながら、肩を怒らせたダラントに話しかけた。
「そんなに怒ってどうしたの、ダラントさん。あの女の人はどこ?」
「まだ庭で水浴びだよ。俺は覗きをするからって、準備が終わったら追い出されたんだ! 確かに顔は美人かもしれねぇが、誰が好き好んで、あんなクソ女の事なんか見るかってんだよ!!」
少年の無垢な瞳に、ダラントは怒りを抑えて答え始めたのだが、語気が荒くなるのをどうする事も出来ないようで、最後の方は殆ど怒鳴るように言っていた。
ゼンタとて、女の身体に興味が無い訳ではなかったのだが、あの女に対しては、その一切が湧かなかったので、あらぬ疑いを掛けられたダラントの胸中を察して、年齢に似合わぬ苦笑いを浮かべた。
すると、その時、二人の会話に別の声が割り込んだ。
「じゃあ、見張りは無しか?」
と、横から訊ねたのはラーセンだった。
「いや、受付のじーさんだよ。可哀想に、あのキンキン声で叩き起こされていたぜ」
ゼンタは、その答えに、受付で微睡んでいた老人の事を思い出した。そうして又、あの自称貴族の狂女の放つ、甲高く頭に響く不快な声の事も。
「ったく、そんなもんだから、水浴びだけでも随分掛かるって言うのに、しっかり見張り代まで取られたぜ。――まぁ、驚いた拍子にじーさんの心臓が止まらなくて良かったな」
ダラントは、そう言いながら、ゼンタに向かって悪戯っぽい笑みを浮かべた。と、思うと、透かさず横からラーセンが、
「災難だったなぁ」と、労わる言葉を紡ぎ、ダラントが「まったくだぜ」と、答えた。
「匿ってくれているんだ。此処の経費は俺が持つよ」
そう言って、ラーセンが懐を漁るのを、ダラントは押し止めた。
「いやいや! それには及ばねぇ。知り合いの宿なんだ。まけてくれることになってる」
「だが、結構掛かったんじゃないか?」
「それくらいの甲斐性はあるさ! それに、アンタにはこいつの頼みを聞いてもらったしな」
ダラントはそう言って、ゼンタの頭を乱暴に撫で回した。
そうして漸く、少年は、彼が、決して自分の事を蔑ろにした訳では無かったのだと思い至った。それもその筈、孤児院を出て其処で過ごす間の、食事に始まる少年一人が何不自由なく暮らす為の彼是は、誰かの助けがあったから成立していたに相違無い。そうして又、それを要立てたのは、少年の事を思って秘密の同盟へと誘い入れた、この男に他ならなかった。
そう思うと、ゼンタは勝手に貴族の屋敷に忍び込み、彼の手を煩わせる事になった自分を恥じた。湧き立つように顔へ血が上ると同時、鼻の奥が痛みを訴え、視界が滲んだ。
少年が俯いたのを、ダラントは、赤く染まった耳朶から、照れているのだと推察した。又、子ども扱いをした事に腹を立てているのだとも思った。そうして、それから、ダラントは、此処に来て初めて、機嫌良さそうに口を反らした。
「――そうさ、俺たちは同志だろう」




