大監獄アブラプトゥム 2
気にしないように努めても、啜り泣きが聞こえるたびに歩調が乱れた。
その美しい外見のおかげで華やかな任務の多いルベリアはもちろん、勇敢なるバース・エッカルドの騎士たちも、暗闇から何かが飛び出してこないか落ち着かない様子。ガードナーだけが、慣れているとばかりに普段と変わらぬ早さで歩いていた。
やがて一行は牢獄の最奥にある、少し開けた場所へと辿り着いた。
円錐状の広場は、それまでとは打って変わり、天井から零れんばかりの光が差し込んでいる。そうなると呑気なもので、不死身の亡霊の泣き声も遥か昔のことのように思えた。
「地図によれば、ここに地下へと続く階段があるはずなのですが……」
辺りを見渡すが、どう見ても行き止まりであった。
「足元だ」
ガードナーの低い声がルベリアの隣を通り過ぎる。
光が差すその真ん中に膝をついた英雄は、床に降り積もった砂を手で払った。
「なるほど、隠し扉ですか」
「そう大したものではあるまい」
ガードナーに倣って騎士たちが床を払うと、石で出来た扉が現れた。
「開けなさい」
ルベリアが命じるが早いか否か。見るからに重そうな扉を、騎士たちが一丸となって持ち上げる。
そうして漸く、地下へと続く階段が姿を見せたのだが、光の届かぬ地下は、まるで地獄の釜が口を開けているように見えた。
ガードナーは、思わず身を竦めた騎士たちを見やると、
「この先はわし一人で良い」
「しょ、将軍!?」
大英雄は言うや否や、結晶石を懐から取り出して光を灯し、一人で降りて行ってしまった。
「困ったわね……」
ルベリアは迷った末に、ふと思う。アンデッドがいるかもしれない地上に騎士たちと残るより、英雄と共に地下へと潜った方がまだ安全かもしれない。
横目で辺りを伺うと、残されることに不安そうな、けれど同行を求められないことに安堵した様子の騎士たちがおり、ますます自分の考えが正しいような気がする。
「……仕方がない」
その台詞になるべく実感が伴うように、ルベリアは努めて声を発した。
「将軍閣下にはこの私がご同行いたします」
「シェルグラス様!」
「あなたちはそこで待機していてちょうだい」
情けない表情の騎士たちの顔を最後に、ルベリアはガードナーの後を追った。
***
地下は腐った血の臭いがした。
ルベリアが自分の結晶石に光を灯すと、ガードナーは誰を待つこともしなかったようで、随分と先に進んでいた。
その背中が闇に紛れて消えてしまわないように、ルベリアは小走りで追いかける。
地上と同じく石畳が敷かれた通路を走ると、踵が石を叩いてカンッカンッカンッと、甲高い音を立て、それが反響してひどく耳障りだった。
ガードナーはその音に気付いていないはずがないにもかかわらず、振り返ることもせずに進んでいく。
「将軍! 案内はもうご不要ですか?」
ルベリアはガードナーの横に並びながらそう問うた。
本当のことを言えば、地下に分かれ道はなく、彼女の案内は必要なかった。最も大英雄が地下の構造を知っていればの話だが。
「わたくし、これでもバース・エッカルドの小隊長を務めております。ご同伴させてください」
ガードナーはルベリアを一瞥したが、何も言わない。
彼女は己を歯牙にもかけない大英雄に少々腹が立ったが、ここで難癖をつけるわけにもいかず、地下牢を観察することにした。
牢屋の殆どは地上と同じく空になっている。
結晶石をかざすと、壁から伸びた鎖の下に血溜まりがそのままになっているのが見えた。壁には血飛沫のような汚れがいたるところについている。爪で引っ掻いたような跡も少なくなかった。石を傷つけるほどの力とはどれほどのものだっただろう。
そう考えた途端、背筋に寒気が走り、ルベリアは地下へ降りたことを後悔した。
英雄が持つ結晶石の光の中になるべく入ろうと、そっと近づく。
「…………」
ガードナーは、男であれば誰もが羨むであろうルベリアが近付いても何も言わなかったが、斜め下にある彼女の美しい顔を一瞥した。
地下に入ってはじめての反応に、ルベリアは気分を良くして更に寄り添う。
そのとき、牢屋の一つに大きな塊が転がっていることに気が付いた。思わず注視してしまったルベリアは、そのボロ切れに未だ鎖が繋がったままであることに気付いたが、何を言うでもなく、また一歩ガードナーに近づいた。
やがて二人は地下の一番奥へと辿り着く。
ガードナーが立ち止まったので、ルベリアもそれに倣った。
「ここが目的の場所ですか?」
立ち止まったまま、ピクリとも動かない英雄に、ルベリアはしびれを切らして問いかけるが、それでもガードナーは人形のように固まったまま微動だにしない。
ルベリアは思わずその横から牢屋の中を覗き込んだ。そして落胆する。救国の英雄が硬直するほどの何かがあるのかと思えば、牢の中には死体しかなかったのだ。
一目で死体とわかったのには理由がある。
だが、何ということは無い。首から上が無いのだから死んでいるに決まっているのだ。
牢屋の中には首を切り落とされた男の死体が、鎖につながれたまま残っていた。その両手は、左右を離して上から吊り上げられ、足からも伸びた鎖が部屋の角へとそれぞれ繋がっている。少しの自由も許されぬそれは、余程の重罪だったのか。
「四肢拘束など随分厳重ですね。それだけ脱獄が上手い者だったのですか?」
ルベリアはそう尋ねつつも、落胆を隠せないでいた。
態々アンデッドが出るかもしれない場所を通ってまでしたかったことが、脱獄していないかどうかの確認だとは。――大英雄がその最期に望んだことが、これかと。
「この男が処刑されたことをご存じなかったのですか?」
ここまで綺麗に首を落とされていれば、囚人同士の殺し合いと言うことは無いだろう。そうであれば、エッカルド王の名の元に処刑の発表があって然るべきなのだが。
先程から硬直したままの大英雄に、ルベリアは大して返事を期待していなかったのだが、予想に反して彼は口を開いた。
「知っていた。だからこうして確かめに来たのだ」
ガードナーはそう言って、牢屋に一歩近づく。
「久しぶりだな、ヘルヴェテ」
大英雄は死体に向かって語りかけた。
驚くルベリアを余所に、ガードナーの声が冷たい石壁に虚しく響く。
「此度の竜神の儀により、わしは姫巫女の護衛に選ばれた。ここアブラプトゥムより帰投次第、聖都ドラコニカへと発つことになるだろう」
その時、暗闇の中で何かがガードナーの持つ結晶石の光を反射した。
彼女がもっとよく見えようと身を乗り出すと、ガードナーの丸太のような逞しい腕が遮った。
不満に思って見上げたところで、ルベリアは再び驚く。英雄の顔は牢の中に向いたまま、けれどその眼はまるで戦場にあるが如く硬く鋭いものだったのだ。
「たとえお前が地獄の底より蘇ろうと、姫巫女のいる神殿までは入って来られやしまい。それどころか、こうして鎖につながれたまま埃を被っているのを見るに、どうやらアブラプトゥムから出ることすらままならぬようだな」
英雄は、ここで初めて感情を爆発させた。
「エッカルドも粋なことをする。アブラプトゥムはアレの故郷であったな。お前にとっては第二の故郷と言っても過言ではあるまい。もっとも、そのどちらもあのころの面影すら残っていないとは哀れだな」
軽薄な笑みで皴を深め、大英雄ガードナー・スピンディルは嘲った。
ルベリアは驚きのあまり息を呑み、自然と一歩下がる。
彼女を守るために掲げられたはずの英雄の腕は、何もない空間に虚しく浮いていた。
「ああ……」
長い哄笑の後、ガードナーは感じ入るように目を閉じた。
そして再び目を開くと、英雄らしい哀れみをその顔に浮かてみせた。
「こうしてお前と顔を合わせるのも、これが本当に最後になるだろう」
英雄は噛みしめるように言った。
「さらばだ、賤しき好敵手よ。永遠に」
それが手向けの言葉だったのか。ガードナーは未練ない様子で踵を返す。
あまりの差異に呆けていたルベリアは、慌てて後を追おうとした。
――ふぅ。
誰もいないはずの背後から、何かの息遣いが聞こえた。
思わず振り返ってしまったルベリアは、牢屋の奥に何か丸いものが転がって来るのが見えた。
古びた監獄の中にいったい何があるのだろうと、好奇心のままに結晶石をかざす。
その瞬間、何かと目が合った。