ムスタファー邸 5 END
愚かにも、そんなことを考えたゼンタの心は、隣から響いた打撲音に現実へと引き戻された。
振り向くと、ラーセンが口の端から血を滴らせている。
「ラーセンさん!」
案じるゼンタに、ラーセンは血の滲む唇で微笑んだ。
だが、その顔を目障りに思った一人が、もう一度殴ると、痛みのあまり表情を作る余裕も無く、顔を顰めて、ぐったりと床の上に座り込んでしまった。
「どうやらこの男、例の一味のようです」
囲んでいた男たちの中から、一人、前へ出て言った。
するとムスタファーは貴族らしく微笑して、「ほぅ」と、何やら良いことを思い付いたときのような声を出した。
ゼンタは妙な胸騒ぎを覚えて、思わず口を開いた。
「あ、あのっ!」
彼らの言う“例の一味”が同盟のことを指すならば、隠さなければ。――でなければ、ティサを助けられない。ゼンタはそう思い、必死の形相でこう言った。
「僕はティサ姉ちゃんが聖女になったって聞いて、確かめに来たんです! ラーセンさんは、この人は、僕の頼みを聞いてくれただけで、だから、ごめんなさい!!」
少年の必死の訴えも虚しく、貴族は冷たい眼を寄越しただけだった。
「君は?」
「ゼンタと云います。エイコンの孤児院教会で、姉ちゃんと一緒に育って……」
ムスタファーは、ゼンタの言葉を聞いてはいられないと言った様子で、額を押さえながら頭を振ると、呆れたように、深い溜息を吐いた。そうして、それから、こう言った。
「それが何だというんだ?」
貴族の男は、まるで刃のような冷たさで、少年の言葉を斬って捨てた。
「君とティサは、もう身分が違うんだよ。君のような犯罪者と同じところで育ったことは、聖女となった彼女の唯一の汚点となるだろう」
「そ、んな……」
言葉を失くすゼンタに、ムスタファーは興味すら無い様子で、一瞥もせず、顎で杓った。
「牢に入れておけ」
そう言って、背を翻したムスタファーに向かって、ゼンタは有らん限りの声で叫んだ。
「待って! 最後に一目だけでも姉ちゃんに会わせてください!」
少年の言葉は誰にも届くことなく、貴族を通した扉は無慈悲に閉まった。
ゼンタはその場にがっくりと項垂れ、そうして、その儘、彼の小さな体は、屈強な大人たちの手で簡単に連れ出され、冷たい地下牢の中へと放り込まれて、動かなくなった。
***
神聖同盟のアジトにて、血相を変えて駆ける男がいた。
彼は、視線の先に貴族のような風体の男――バーデンの姿を見つけると、その勢いの儘、駆け寄った。そうして、相手が気付くや否や、堪え切れない様子で、口を開く。
「バーデンさん! ゼンタが捕まっちまったんです!」
一方、バーデンの方はと云うと、尋常ではない様子で駆け寄って来た男が、そう口にした途端に、普段の穏やかな静寂さをどこにやったのか、険しい顔で問い返した。
「なんだと?」
「どうやらムスタファー伯爵の屋敷に忍び込んだそうで……」
どうしてそんな無謀なことをしたのか、男は口にこそ出さなかったが、表情が、目が、そう告げていた。けれど、男は何も言わぬバーデンに、勢いよく頭を下げる。
「お願いします! アイツを助けてやってください!」
そう言って、バーデンがこれを了承せぬ限り、男が頭を上げないのは明白であった。
バーデンは妙なことになったと、感情の薄い表情の中で思うと、ひとつ、溜息をついて、
「ダラント」と、彼は男の名を呼んだ。
「生憎だが、少年一人を助け出すために、我々の存在を公にする訳にはいかない。それはお前も、わかっていることだろう」
「でも……!」
ダラントと呼ばれた男は、尚も何か訴えようとした。が、その時、別の声がその場に加わった。
「何事だ」
問うと伴に現れたのは、白髪の老人であった。両脇に伴を連れた姿は威厳に満ちており、それでいて、どこか冷たい印象を抱かせた。彼も貴族なのであろうか。姿形はバーデンほどあからさまではないが、その身に纏ってた衣装は、教育者が着る物によく似ている。
「ジギスムント様!」
ダラントが、思わずと言った様子で、大きな声を上げた。
老人は、それに微塵も表情を動かさない儘、バーデンへ視線を向けると、こう言った。
「外まで声が漏れていたぞ」
「それが……」と、バーデンは暫し言葉に詰まる。
「実は、先日ご紹介した少年が、ムスタファーの屋敷に忍び込んだようで……」
バーデンは恐れるように、ジギスムントから視線を逸らした。
だが彼は見ずとも、老師の視線が続きを促しつつ、彼に向けられているのを感じたのだろう。言い淀みながらも、バーデンは、続きを口にした。
「今は、おそらく、地下牢に」
老人のシワに覆われた唇の間から、深い溜息が零れ落ちる。誰もが、呆れかえり、先にある計画への影響を憂いた中、ダラントが空気を読まずに口を開いた。
「お願いします! ゼンタを助けてやってください!!」
跪かんばかりの勢いで、ダラントはジギスムントに懇願した。
しかし、老人は彼を一瞥の後に、首を横に振る。
「無理だ。我々の計画をここで無駄に明かすわけにはいかない」
「そんな!」
ダラントが悲痛な声を上げた。その横を通り過ぎながら、ジギスムントはもう一度首を振った。バーデンがその後に続き、ダラントが独り残される、そうなると思ったが、彼は尚も追い縋った。
「ゼンタの証言が必要なんじゃなかったんですか!」
「そもそも彼の存在は計画には無かったものだ。新案は白紙に戻す」
老人の冷たい一言に、ダラントは殆ど憎悪に近い瞳を向けた。バーデンは、それに気付くと、一考の後、後から向かうと一言告げて、その場に残った。
「アンタも同じ意見なんだろう」
ダラントは、恨みがましい視線でバーデンを見た。
「申し訳ないが、その通りだ」
「子ども一人救えないなんて、こんな組織、抜けてやる!」
そう吐き捨てたダラントを、バーデンは慌てた様子を面に出して、呼び止めた。
「いいか、ダラント。我々神聖同盟は、大きな目標のために活動しなければならないんだ。ここでゼンタくんを助けるために姿を現してしまえば、その先にある無数のゼンタくんを救えなくなるんだぞ!」
必死な様子を見せたバーデンに、ダラントは少し冷静になったようだった。
それから、二人は一言、二言、言葉を交わすと、ダラントは安堵した様子で泣き笑いを零すと、最後には笑顔になって、手を振って出て行った。
バーデンは彼を同じく微笑を浮かべて見送り、――振り返ると、そこに表情は無かった。
***
彼がアジトの奥に向かうと、ジギスムントは既に部屋の中で、一番奥の椅子に座って待っていた。彼の伴らは、その後ろに立ったまま、相変わらずの態度で、微動だにしない。
「どうだった」
老人の静かな問いに、バーデンは感情の見えぬ顔に、僅かな侮蔑を浮かべて答える。
「大いなる未来のためだと言ったら納得しましたよ。最も、助けには行くようですが」
バーデンの答えに、ジギスムントは不快そうに眉を顰めた。
そして、ふと耳を疑った様子で、再び問うた。
「一人で行ったのか?」
「外から様子を見て、助けられそうだったら自分だけでやる、こちらに迷惑はかけないとのことでした」と、バーデンが答える。
「最も、あの男のことで明日から、自分の身が危なくなるくらいでしたら、子どもを見捨てるくらいはするでしょう。この一件も、子どもを見捨てる自分が嫌なだけですからね。彼ほど偽善者という言葉が似合う男もいない」
こう言うと、ジギスムントは鼻で笑った。
「そう言った男の方が、上に立つ者としては使い易いのだ」
「ならばもう少し配慮したらどうです。彼が同盟のことを話せば面倒ですよ」
「それこそ、偽善者が口にするはずがないだろう」
ジギスムントはそう言って、喉の奥で、咳のような低い笑いを零した。
バーデンは彼とは反対側に腰かけながら、思い出したように、こう言った。
「そういえば、そのゼンタですが、ラーセンという同盟者が手引きをしたようです」
「ラーセン?」と、ジギスムントは鸚鵡返しに口に出した。
「知らんな。何者だ?」
「最近加わった流れの傭兵ですが、平凡なだけの男でして、きっと子どもを哀れにでも思ったんでしょう」
バーデンはこう言ったが、老人はもう一度記憶を辿りながら、何やら納得がいかない様子で、口の中でその名を何度も転がした。
「幼い子どもも一緒だったので、王都のスパイではありえないかと」
バーデンは念を押して言った。
しかし、ジギスムントは何かが未だ気になる様子で、こう言った。
「相手はあのエッカルド貴族だぞ? 血も涙もないやつらだ。平民の子どもならばいくらでも使うだろう。用心するに越したことは無い。その男の背後は洗っておけ」
「畏まりました」
老人の未だ衰えぬ鋭い眼光に、バーデンは恐れを抱いて恭しく頭を下げた。
ジギスムントは、そんな部下の様子に、予約憂いが晴れた様子で、鷹揚に頷いた。そうして、それから、遠い未来の輝かしい様子を思い浮かべて、口を開いた。
「聖なる炎は惜しいが、我ら神聖同盟はこの程度では揺るがぬ」
「もちろんです」
バーデンの同意を最後に、二人の会話は、先に待つ計画についての入念な打ち合わせへと、移行していき、ゼンタの名前は、二度と紡がれることはなかった。




