ムスタファー邸 3
その夜、皆が微睡み始める時間帯に、貴族街を三つの影が駆け抜けた。
影たちは足音を立てぬよう静かにムスタファー邸の傍までやって来ると、昼間と変わらず門の前に甲冑姿の男たちがいるのを見て足を止める。
三つの影はそのまま門番たちの様子を観察していたが、小さい方のひとつが声を発した。
「ほ、本当に大丈夫なの?」
月明かりに照らされて、その顔が夜闇に浮かび上がる。――ゼンタであった。
「バレなきゃ大丈夫だ」
ゼンタの不安に答えたのはラーセンだった。傍らにはスノーレもいる。
雲が流れて月を遮るものが無くなると、辺りは一層明るくなった。ゼンタは今にも誰かに見つかってしまうのではないかと落ち着かない。
そんなゼンタを余所に、ラーセンは全く気負っていない様子で笑う。
「姉ちゃんを助けたいんだろ?」
「そうだけど……」
ラーセンの揶揄するような声音に対し、ゼンタは渋い顔のまま沈黙した。それを引き合いに出されると、少年は何も言えなくなってしまう。なぜなら彼がここにいるのは、ゼンタのその願いを叶えるためでしかないのだ。
「でも、やっぱり勝手に人の家に入るなんて良くないよ」
「いいから、こっち来い」
ゼンタの言葉を聞き流し、ラーセンはスノーレの手を引いて動き始めた。
門番たちに見つからぬよう、闇に紛れてムスタファー邸の塀に近付いていくその背中を無視できるはずも無く、ゼンタも渋々後に続いた。
近くで見ると、塀は随分高く大きかった。おそらくラーセンの肩に乗ったとしてもゼンタの手は上まで届かないだろう。
ラーセンはその壁に手をついて、何かを探している。
「あった。ここだな」
ラーセンが示したのは、丁度ゼンタの膝くらいの高さのところ。
特に変わったところもないので、ゼンタは疑問をそのまま口にすることにした。
「そこに何があるの?」
「魔法陣のはじまり。透明塗料で描かれてるんだ」
ラーセンは答えてはくれたが、ゼンタにとってはまったく答えになっていなかった。
少年が首を傾げていると、ラーセンは少しだけ笑って「普通知らないよな」と言うと、屈むのを止めて話し始めた。
「ムスタファーみたいな貴族はな、塀とか壁に侵入防止や感知の魔法陣を描いているところが多いんだ。だから賊やなんかが入るとすぐにバレちまう」
「そうだったの!?」
ゼンタは驚いた。
市民街で暮らすゼンタは例に漏れず、そんなことを知る機会が無ければ、当然聞いたことも無かった。もしその話が本当ならば、ゼンタたちはどうやって忍び込めばいいのだろう。
「魔法陣は牽制も兼ねて普通は見える塗料で描かれるものなんだが、一部の貴族は景観を損ねるとか言って透明のインクで描くやつもいる。ムスタファーはその筆頭だな」
ラーセンはそう言いながら、懐を探る。取り出したのは綺麗な楕円の石だ。
月明かりしかないため確かな色はわからないが、光を吸って淡く青色に輝いている。
「それは?」
「“魔法避け”」
一言そう答えると、ラーセンは石を塀に翳す。
石がぶつかる小さな音がゼンタの耳に届くと同時に、壁が歪む。見間違いだろうかと少年が目を凝らした次の瞬間には、大人一人が余裕で通り抜けられるほどの穴が開いていた。
「ど、どうやったの!?」
「魔法を避けたんだよ。陣も魔法だからな。それが描かれた塀もまた魔法ってわけだ」
ラーセンはそう答えながら躊躇いなく中へ足を踏み入れた。
ゼンタは魔法について詳しく聞きたかったのだが、それを見て慌てて後に続いた。悠長にしていると、石の効果が無くなってしまうかもしれない。もしそうなれば、貴族街のことなど何も知らないゼンタは忽ち罪人として捕らえられてしまうだろう。
ゼンタはそうしてラーセンと共に屋敷の中へと進もうとして、ふと、もう一人の存在を思い出した。慌てて振り返ると、小さな少女は穴の淵を興味深そうに触っている。
「スノーレ、君はどうする?」
ゼンタが問うと、スノーレは顔を上げた。
何もわかっていない様子の少女を巻き込みたくはなかったが、この場所に置いていくわけにもいかない。彼女の返事を待っている間にも、穴が閉じてしまうかもしれなかった。
スノーレが何か答える前に、ゼンタは彼女の手を引いた。
***
夜も遅い時間の所為で、屋敷の中は暗く静まり返っていた。しかし通り過ぎる部屋のいくつかからは光が漏れていたので、油断はできない。ゼンタたちは息を潜めて奥へ進んだ。
床一面に敷かれた絨毯は赤く、長い毛並みは足音を消してくれる。
ゼンタは歩きながら辺りを観察して、貴族の家というのは教会のような場所だと思った。どこにも傷や隙間の無い壁。飾られた調度品は金で縁取られ、竜の絵が描かれている。
「ねぇ、ラーセンさん」
ゼンタが話しかけると、ラーセンは昼間と変わらぬ様子で自然に振り返った。
その顔に忍び込んだ者としての罪悪感や恐怖といった感情は一切見受けられず、この状況と合致しないため奇妙な印象を受けるが、今回ばかりはそんな彼の様子が頼もしく思えた。
「ティサ姉ちゃんはどこに居るのかな」
どこまでも実直な少年の問いに、ラーセンは暫し考えたようだった。
「聖女として捕らわれているとは言っても、牢屋や使用人部屋のようなところには入れられないだろうな。来客用の部屋か、ムスタファー伯爵の傍に居るんじゃないか」
どうして、とゼンタは見上げることで訊ねた。
「王が探している相手を粗末に扱うわけがないだろ。ましては聖女だ。恩を売っておいて後々自分の役に立たせたほうが良いに決まっているさ」
「でも姉ちゃんは本物じゃないんだよ?」
「そんなこと、知っているのは俺たちとそのお嬢ちゃんだけだろう」
そう言ってラーセンは笑う。笑声無く笑ったので、ゼンタ以外に気付いた者はいなかった。
スノーレは相変わらず何もわかってい無さそうな顔で、手を引かれるまま付いてくる。
「ティサ姉ちゃんだって、それがバレたら不味いことくらいわかってるよ。だから、伯爵の傍にはいないんじゃないかな」
ゼンタは心の内に奇妙なざわめきを覚えながら言った。何故だか酷く落ち着かない。
ラーセンは急に足を止めると振り返った。
「本当にそう思うか?」
彼は笑みを消し、真剣な表情になって、ゼンタに向かって妙な問いをした。
「どういうこと……?」
「見てみろ」
ゼンタが恐る恐る問い返すと、ラーセンは窓の外を顎で杓った。
少年はゆっくりと窓に近付いて覗き込むと、そこは庭だった。屋敷に入る前、塀との間にも庭のような場所があったので、実質二か所がそうだということになる。貴族というのは自然が好きなのだなぁ、と感心するような呆れるような。
「庭がどうかしたの?」
「違う。その向こうだ。反対側の窓をよく見てみろ」
ラーセンは厳しい顔で再度そう促して、今度は指で示した。
ゼンタは目を凝らして、彼の指す先をよく見た。
ぼんやりと明るいのは、蝋燭の灯りだからだろうか。窓辺に二人の人間がいる。
一方はラーセンほどの背丈の貴族だろう。窓にかけられたカーテンに隠れて顔は見えないが、ゼンタが着たのでは笑われること間違いなしの装飾が成された服を着ている。ボタンの数だけで嫌になってしまいそうだ。
その人が、後ろから声をかけられたようで振り返る。
無数のボタンが見えなくなった代わりに、ひとつに結ばれた長い髪が尻尾のように揺れているのが見えた。
手を広げたその人に向かって、もう一方の影が近付く。
そちらはどうやら女のようで、伸ばされた手にかかる袖の淵には華奢なレースがあしらわれていた。背もそんなに高くないようで、顔が隠れてしまうことはない。
誰だろうと見つめていると、女性は窓から見えるところまでやってきた。
「あっ」
ゼンタはその顔を見て、思わず声を上げていた。
女の方はティサであった。彼女はゼンタが今まで見たことも無い豪華なドレスに身を包み、まるで本当の貴族のようであった。顔を隠してしまえば、ティサだと判らなかっただろう。
彼女はそのまま窓に――貴族の男に近付くと、広げられた腕の中に進み入った。男が閉じた腕の隙間から、レースに包まれた女の手が伸びて背中に周る。
「なんで……」
ゼンタは無意識のうちに後退った。
けれど視線は二人の様子に釘付けになっている。
そんな少年のことなど知る由も無く、二人はその態勢のまま言葉を交わしているようであった。特に動きも無くただ抱き締め合っている。
少年にとっては随分長い時間そうしていただろう。
急に男の方が動いたかと思うと、二人は窓からよく見える位置で見つめ合った。
そして男はゆっくりと身を屈める。
ゼンタたちのいる所から男の顔が漸く見えた。イェンシュテン司教よりは若く、ラーセンよりも年を取った男だ。薄く皴のできた顔は、ティサと並ぶと親子ほどに見える。そんな男が、ティサに顔を寄せていた。
ティサに嫌がる様子はなく、ゼンタはただ喘ぐ。
少年は今すぐにでも二人の間に割って入りたかった。だが何故か足が動かない。
ゼンタは視線も逸らせないまま、二人の顔が近づいていくのを見ているしかできない。
「そんな……やめてよ……」
ゼンタの願いもむなしく、二人は月の窓辺で唇を重ねた。




