エイコン市民街 3
翌日、ゼンタは普段通り、孤児院の掃除をはじめていた。
最年少であるゼンタは裏にある井戸での洗濯が義務付けられている。錆び付いた井戸を漕いで水を汲み上げて、孤児院に暮らす者たちの服は糠袋で洗い、司教らのトゥニカは仕上げに香油を混ぜることが決まっている。一人で熟すにはかなりの量となり、冬にはひどく辛い作業であるが、今の時期はまだ楽な方だ。ゼンタは敬虔な神徒のように黙々と手を動かした。
ふと、教会の方が騒がしくなり、ゼンタは手を止めて耳を澄ませた。
歯車が回るような音が、すぐ近くで止まったようだ。それから甲冑の擦れる音と、複数人の想い足音がする。
ゼンタは洗濯物を放り出すと、慌てて駆け出した。
***
エイコン孤児院教会は、その名の通り孤児院と教会が隣り合っている。ゼンタの居た場所からは、子どもの足と言えども、時間がかかるものではない。それにも拘らず、ゼンタが扉を開けたとき、そこは既に無人であった。
少年は祈りの場を突っ切って、外へと続く扉を開け放った。
扉の向こうには甲冑を纏った騎士たちがおり、そのうちの何人かは驚いたように目を丸くしている。その胸に掲げる紋章が鍵と果実であることを気にしながら、ゼンタは辺りを見回した。そして騎士たちの向こう、馬車の近くに、純白のベールを纏った人を見付けると、再び駆け出しながら声を張り上げた。
「ティサ姉ちゃん!」
馬車に乗り込む寸前に、その人はゼンタの声に気付いて振り返った。美しい顔の横で白い布が揺れる。ゼンタはただ足を動かした。
近づくと、馬車の中にはすでに一人乗っていた。
特別な日にのみ身に着けている豪華な真紅の衣装に身を包んだイェンシュテン司教は、ゼンタに気付くと僅かに眉を顰めた。だが少年はそんな司教から視線を逸らし、すぐそばに迫った美しい顔を見上げる。
今日も白いベールを被っているティサは、普段と変わらぬ乏しい表情でゼンタを見下ろした。
「あらゼンタ、おはよう。随分早いのね」
ゼンタはその言葉を無視した。日が出ている今、彼にとって早いということは無いのは、ティサとて知っているはずだからだ。
「司教様とどこへ行くの」
ティサは気にした風もなく、その問いに答える。
「これから私が働いているお屋敷に行くのよ」
「それってムスタファー様のところだよね? 貴族で、伯爵様の」
「あら、知っていたの」
ティサは少しだけ意外そうな声音で言った。
その態度に、ゼンタは腹の底から湧き上がる感情を押さえられず、ティサとその後ろにいる司教を睨んだ。
「どうして司教様も一緒に行くの。それに出かけるなんて、言っていなかったじゃないか」
「あら、黙って出てきたんですかイェンシュテン様」
「ティサ姉ちゃんもだよ!!」
ゼンタが声を張り上げると、二人は顔を見合わせた。まるで狂人でも相手にするかのような態度に、少年の苛立ちは益々募る。
「昨日から二人とも変だよ! どうして僕に内緒にするの!?」
「誰も秘密になんかしていないでしょう。難しい話だから、子どものあなたにはまだわからないだけよ」
言い聞かせるようなティサの物言いが、ゼンタの心を煽る。
そのとき、彼の心の中で悪魔が囁いた。ティサの秘密を今ここで話してしまえ、そうすれば、彼女は留まることになるだろう、と。
ゼンタはティサの美しい顔を仰ぎ見た。そして――……
「ゼンタ、私が帰ってきてから話して聞かせてやろう。もちろん君がわかるようにだよ。だからもう駄々をこねるのは止めて、静かにお祈りをして待っていてくれないかね」
司教が馬車の中から口を挟んだ。
ゼンタは思わず口を手で覆う。自分が何を言おうとしたのかを思うと、震えが止まらなかった。
ティサの様子を伺うと、彼女は今しがたゼンタが裏切ろうとしたことなど気付いてもおらず、常と同じ貴族のような顔で司教の方を向いている。
その美しい横顔を見て、ゼンタはこれからも彼女の秘密を守り続ける意思を固めるのだった。
「さぁ、ゼンタよ。お忙しい騎士さまたちをこれ以上待たせるわけにもいかないし、私の言いたいことは、わかってくれるね?」
司教はゼンタの心不在焉な様子に、念を押すため再び問うた。
そこで漸く周囲に注意を向けることができるようになったゼンタは、騎士たちが自分に対し、怒りこそしないが面倒臭そうな表情を隠しもせずにいることに気が付いた。その顔はまさしく大人が子どもに向けるもので、ゼンタの顔が羞恥で熱くなる。
俯いてしまったゼンタに、司教は再び問うような酷なことはしなかった。
「じゃあね、ゼンタ」
ティサはそう言うと、身を翻して馬車に乗り込んだ。
ゼンタはそれをただ見つめるばかりで、司教は彼を見ることもしない。
騎士が馬車の扉を閉めると、ゼンタは退がった。少年が離れたことを確認すると、馬車がゆっくりと動き出す。教会前の狭い敷地では馬車は上手く回り込めず、騎士たちが押したり引いたりして向きを変えた。
しかしティサの姿が見えなくなると、ゼンタはやはり我慢できずに声を張り上げた。
「司教様! ひとつだけ教えて!!」
「なんだね」
親切な騎士が外から窓を開けてくれたので、司教は渋々ながら顔を出さないわけにはいかなくなった。
ゼンタは胸中にある無数の疑問の中から、彼が一番答え難いだろう問いを口にする。
「司教様は、ティサ姉ちゃんが聖なる炎の使い手かもれないって、本当にそう思っているの?」
驚いた司教の向こうから、ティサの人形のような顔がゼンタを見た。暗がりの中で、白いベールはぼんやりと浮かんで見える。
「急に何を言っているんだ! そんな、疑うようなことを!」
「ううん。別に……」
ゼンタは純粋な子どものフリをして続ける。
「司教様はドラコニカの神徒なのに、人が聖なる炎を使えるって言っても良いのかなって、そう思っただけだよ」
ドラコニカの教義では、聖なる力は竜が持つものである。だから聖都では竜を神と崇めるのだ。それは昨日のティサとの会話でも、彼自身が口にしていたことである。
それでもゼンタはあえて口にすることで、司教が考え直せばよいと思った。そしてどうか、二人が行かなくて済むようになればいい。
そこへ一人の騎士が近付いてきて、態々ゼンタの前に膝をついて話しかけた。
「すごいな、坊主。もうそんな難しいことがわかるのか」
その騎士は他の者と違って全身に鎧を纏っていたが、兜の隙間から見える目が優しかったため、ゼンタは恐れずに済んだ。
騎士はゼンタが頷くと、落ち着いた優しい声で話し始める。
「これは秘密の話なんだが、エッカルド王様は今とても困っていらっしゃるんだ」
ゼンタはその理由を知りたかったが、騎士は問わせてくれなかった。
彼は少年の物言いたげな視線を無視して、話を続ける。
「司教様はその話を聞いて、困っているエッカルド王様のために、ドラコニカの教えを少しだけ違うように考えてくださったんだ。竜には聖なる力があるのだから、人にはそれに似た魔法が存在する、という風にね。それはとても勇気のいることなんだよ」
でもそれは間違いなのだと、ゼンタはこの優しげな騎士に言ってやりたかった。だがそれは先ほどの決意が無かったことにするのと同じことだ。ゼンタはティサを裏切らないと決めたのである。
騎士は黙り込んだゼンタの頭を優しく叩くと、踵を返した。
そうして馬車は走り出し、二人を連れて行ってしまったのであった。




