エイコン市民街 2
扉を開けて中に入ると、そこは祈りの場であった。
深い赤色の絨毯が敷かれた通路を隔てて、古い木製の会衆席が並んでいる。その奥で一際目を引くのは、赤と黄色を基調とした着色硝子の窓だ。主神である竜とドラコニカの民の物語を表しているらしいが、ゼンタのような市井の人にとっては、空を飛ぶ大きな蛇とその下で逃げ惑う人々にしか見えない。
祭壇の前にいるのは司教だけではなかった。こちらに背を向けて立っているその人は、白いベールを被った修道女で、窓から差し込む光で赤く染め上げられていた。
女は扉が閉まる音に気が付くと、ゆっくりと振り返る。
「あら、ゼンタ」
聞き覚えのある声に、ゼンタは思わず駆け出した。
逆光で見難かったその顔が、近付くにつれてはっきり見えてくる。
「ティサ姉ちゃん! いつ帰って来たの!?」
美しい顔を無表情で固めたティサは、微笑むことなくゼンタを見下ろす。いっそ冷たくも感じる態度だが、それが昔からの常であったので、ゼンタは安堵した。
つぶさに観察するまでもなく、ティサは最後に見た時と変わらず、手本のように修道服を纏っている。同じ年頃の見習いたちが洒落っ気づいて前髪を出したりしたときも、彼女だけはすべての髪をベールの下に仕舞い込んでいたことを、ゼンタはよく覚えている。そして、その中の誰より美しかったことも。
「やっぱり戻ってきたんだね! 絶対そうだと思ったんだ!」
ゼンタが興奮して叫ぶように言うと、ティサは目を細めた。
美しい娘が微笑んだことに気を良くした少年が、更に言葉を続けようとすると、司教が間に割り込んできた。
「ゼンタや。シエルの実はちゃんと貰ってきてくれたのかね」
「もちろん」
腕に抱えていた袋ごと渡すと、司教は祭壇の上にひとつひとつ並べ始めた。
彼はそうしないと数を数えられないということを、少年はつい最近になって知った。だが態々馬鹿にするようなことでもない。司教のような幼い頃から敬謙な神徒であったような人物ならば、特段珍しいことでもないからだ。ゼンタは黙ってその作業を見守る。
しかしティサは、違うことが気になったようだった。彼女は司教に問う。
「イェンシュテン様。ゼンタ一人で貰いに行かせたのですか?」
「それが少し風邪を拗らせてしまってね。生憎と他の子たちは忙しいし……」
司教は言い訳をした。
「まぁ、それではこんなところで長々とお話してしまい申し訳ありませんでしたね」
「いいや!」
と、イェンシュテン司教は食い気味に否定した。
「もうこの通り元気になったからね。なに、昔の教え子と少し話すくらいどうってことないさ」
それから慌ててゼンタの方へ向くと、ティサの視界から隠すように上体を傾かせる。
「ゼンタもご苦労だったね。近所のご婦人からお菓子をいただいたから、後で食べなさい」
司教は袖から小さな包みを取り出すと、少年の手に押し付けるようにして握らせた。
少年は金縁の懐紙に包まれたそれが特別なものだと知っていたし、司教がこっそりと口に運ぶのを見た時から、いつか食べてみたいと思っていた。だが今は菓子よりもティサである。
ゼンタは菓子を突き返しながら、司教の影から飛び出した。
「ティサ姉ちゃんは孤児院に戻ってくるの? それとも司教様みたいに教会に住むの?」
「どちらでもないわ。司教様にお願いがあっただけよ」
ゼンタが見上げると、ティサはすでに彼を見ていなかった。彼女はイェンシュテン司教だけを強く見つめている。
「はっきりとお聞きになったでしょう、イェンシュテン様」
ティサの視線を追ったゼンタは、司教が表情を硬くしたのがわかった。
「ああ、近衛騎士から詳しく聞いたよ。しかし聖なる炎などとは……」
「王は聖なる炎の使い手を本当に探していらっしゃるのです」
「ああ、そのようだね。そう、わかっているとも」
司教は言い募るティサを手で制止ながら、額に滲んだ汗を袖で拭った。
ゼンタはそれに顔を顰めてしまう。洗濯係がまた苦労することになると思ったのだ。それはつまり、エイコン孤児院では最年少であるゼンタなのだが。
生憎と二人はお互いのことしか気にしていなかったので、ゼンタの表情には気付かなかった。
司教は首を何度も横に振りながら、ティサに言い聞かせるべく口を開く。
「教会史に無いものを司教である私が認めるわけにはいかないのだよ、ティサ」
「そこまでは申しませんわ。ご推薦していただくだけで良いのです」
「ここだけの問題ではないのだよ」
と、司教はほとほと困り果てた表情で言う。
「そもそも私が誰かを推薦するということ自体が教理に反すると言っているのさ。ドラコニカの教えでは聖なる炎は青い。火魔法で発生する赤い炎が聖なる力を持っていることはありえない。あってはいけないのだよ」
司教はそう言うと、深い哀れみを浮かべた。
「すまないね。けれど美しくも賢い君ならわかってくれるだろう、ティサ」
「いいえ、司教様。私は……」
ティサが更に何かを言おうとしたとき、ゼンタが我慢できずに叫んだ。
「何の話をしているの! 僕にも教えてよ!!」
二人はゼンタがそこにいることが信じられないとばかりに驚いた。
司教は普段の温厚さを取り繕い微笑むと、ティサはそっとゼンタの肩に手を伸ばす。
「ごめんなさいね。あなたにはまだ早いお話なのよ」
「僕もう子どもじゃないよ! シエルの実だって一人で貰いに行くことだってできるんだからさ。それに、字も書けるんだよ」
ゼンタは勇んで言った。
けれど本当は、彼も他の市民と同じく、配給の際に必要な己の所属を表す一単語しか書けないのだ。ゼンタの場合は『エイコン孤児院教会』という単語だけである。
「まぁ、すごいわね」
ティサはそのことに気付いているのかいないのか、大げさに感心してみせた。
しかしやはり、ゼンタの肩を押す力は強くなるばかりである。
「話は後で聞いてあげるわ、ゼンタ。向こうで待っていなさいな」
優しい力で背中を叩かれてしまうと、ゼンタに抗う術は残っていなかった。
少年の体は否応なしに出口に向かって歩き始める。
「私も少しは魔法が使えるのはご存知でしょう?」
ゼンタの背後で、ティサが話し始めるのが聞こえた。
「火の魔法も得意でした」
「少しだなんてとんでもない。君の魔法は実に美しく、素晴らしかった。魔力の回復がもう少し早ければ、宮廷魔術師だって夢じゃなかっただろうに……」
残念だと肩を落とす司教の姿が想像できる声音だった。
ゼンタの足が止まりかけたが、先ほどの手の感触を思い出して、なんとか歩み続ける。
「それはもう良いのです。代わりに伯爵様の元で働けているのですから」
「ああ、エイコンの伯爵様も良い人だと聞いているよ。そういえば……」
昔話を始めようとした司教を、ティサの静かな声が遮った。
「その伯爵様よりご推挙いただいたのです」
「なんだと!?」
鋭い非難の声に、ゼンタは思わず振り返った。
すると、ちょうどこちらを見た二人と視線が合う。司教にはすぐに視線をそらされ、ティサからはたおやかに手を振られた。
ゼンタも手を振り返して、再び歩き始める。
「お静かに」
と、ティサは前置きをしてから話し始めた。
「お勤めをはじめてすぐの頃に、伯爵様が私の火魔法をご覧になる機会があったのです。伯爵様は私の炎を美しいと仰ってくださいました。それだけだったのですが……」
ティサはここで勿体ぶるように間を置いた。
司教は心が急くのを押さえ切れずに、堪らず問いかける。
「いったい何があったというのだね」
「しばらく経ったある日、私は伯爵様に呼ばれて城に上がりました。伯爵様の執務室を訪ねると、そこには宰相様もいらっしゃいまして、私の魔法を見たいと仰ったのです」
司教は無言で宙を掻き、続きを促した。
「宰相様は私を城の地下に連れて行き、そこで不死身の化け物と対峙させました」
「なんと、城にアンデッドを連れて来たのか!?」
「倒せずとも良いと宰相様は仰いましたが、私が火の魔法を使うと、そのアンデッドは灰となって死んでしまいました。宰相様は私の魔法は特別だと仰いました。それこそ、聖なる神の炎のようではないか、と」
その言葉に司教は反論しようと大きく息を吸ったが、ティサが片手を上げて制した。
彼女は司教の勢いが削がれたのを見て、再び口を開く。
「もちろん。同じであるはずがありません。私の炎は赤いのですから。もちろん、そう申し上げたのです。けれども宰相様は、神の炎が青いならば、人の炎が違う色をしていてもおかしくはないと仰ったのです」
「しかし、ティサ」
司教の渋る声はすぐに止んだ。ティサがまた抑えたのだ。
彼女は畳みかけるように言葉を続ける。
「もちろん。イェンシュテン様のお気持ちもわかりますわ。ドラコニカの教えは素晴らしいものです。私も教会で育ち、今も修道女を続けているくらいですわ。その教えに反するようなことは私もしたくはありません」
そこで、ティサは急に懇願するような声を出した。
「ですが、どうか王や貴族様のお気持ちも考えてあげてください」
司教は言葉に詰まった。ムスタファー伯爵の元に奉公しているティサを相手に、知らぬ存ぜぬで済ませられる問題ではない。
ティサはまるで聞き分けの無い子供に言い聞かせるように、再び話し始めた。
「今も王は探しておられるのです。聖なる炎の使い手を。本当は私ではないかもしれませんが、もしかしたら王の求める炎の使い手であるかもしれません。けれどそのためには、私はその候補として城に上がらなければなりません。そのためには、イェンシュテン様のような聖なる方のご推薦が必要なのです」
「だが……」
司教は尚も渋っていたが、ティサは言った。
「イェンシュテン様にはご迷惑をおかけしないように努めますから。それに……」
ティサはここで声を潜めた。
扉を潜ろうとしていたゼンタは、急に聞こえなくなった声に思わず足を止めて振り返る。
二人はゼンタを見ていなかった。ティサが司教の耳に顔を寄せている。まるで、秘密の話でもしているように。
「もし私が聖なる炎の使い手であれば、伯爵様より特別なご支援をしていただけるとのことです」
ゼンタには何を言ったのか聞こえなかったが、ティサが何事かを囁くと、司教の表情が目に見えて変わった。
ティサはそんな司教に向かって小さく微笑む。ただでさえ美しい彼女の滅多に見ることのできない笑みは、ゼンタだけでなく、それを目にした誰もが何も考えられなくなってしまうような不思議な魅力がある。
今の司教は、まさしくその通りのことが起こっていた。
「わかったとも」
イェンシュテンは頷いた。
「君を推薦しよう。聖なる炎の使い手かもしれないと、近衛騎士に伝えよう」
「ありがとうございます」
そう礼を言ったティサは、またいつもの無表情に戻っていた。
ゼンタはその声が聞こえると共に教会を出て、後には扉閉じる小さな音が響いただけだった。