王城にて 上
――アンホールド男爵家次男アブサートが別人だった。
なんと彼に成り済ましていた人物は、大英雄の命を狙っていたらしい。発覚後は仲間と共に国外へ逃亡したという。
ルベリア・シェルグラスが封書の窃盗という大罪を犯したおかげで発覚したその事実に、集まった貴族たちは一様に顔を蒼褪めさせた。
「そんなことが、あるはずがない!」
悲鳴にも似た否定の声を上げたのは公爵だった。
エッカルドの中枢を担う身として、どんなときも貴族らしく、能面のような表情をしていた顔に、今は怒りとも恐れともつかない感情を浮かべている。
普段であれば、その粗相を嗤っていただろう他の貴族たちも、今は誰一人として指摘しない。それどころか、釣られるようにして、皆が皆その能面のような顔に恐れや焦りといった様々な感情を浮かべはじめていた。
「しかし港の警備に当たった騎士からも話が上がってきているのです」
「シェルグラスだけならば妄言とも言えますが、騎士たちもとなりますと、やはり……」
言葉を濁した男に、公爵は苛立ちを露に声を荒げる。
「ならば、どうして誰も気付かなかったのだ!」
バース・エッカルドは横の繋がり――特に貴族同士の絆が強い国である。
それは同じ秘密を抱えるが故の連帯感か。貴族であるというだけで一定の信頼を得られるのは、世界でもこの国だけだろう。
だからこそ、男爵とはいえ貴族であるアンホールド家の次期当主が入れ替わっていることに誰も気が付かないなどということはあり得ない。あってはならないのだ。
エッカルド貴族の筆頭たる公爵は、前代未聞の事態に動揺を隠しきれないでいた。
「いつからだ? いったい何時から入れ替わっていたのだ!?」
叫ぶような問いに誰もが口を噤んだそのとき、扉が断りもなしに開かれた。
それを非難しようと顔を向けた貴族が、思わず息を呑む。
「陛下!」
二人の騎士に恭しく案内されながら入室した、若く精悍な顔立ちの王の姿に、室内は忽ち活気を取り戻し、誰もがその名を口にした
――「エッカルド王」と。
王は頭を垂れる一同をぐるりと見渡すと、ひとつ頷き、皆の立位を許可した。
「話はこのアンホールド男爵令嬢より聞いた」
王の後ろに控えていた令嬢が頭を下げる。
自身の魔力で覆われた魔術師指定の濃い紅色のローブを羽織っているその姿は、アンホールド家の長女オビチュアリで間違いない。
彼女は普段と寸分違わぬ静かな表情を浮かべており、公爵は思わず噛み付いた。
「男爵令嬢! あなたは弟君が別人だと何故気付かなかったのです!」
「それはもうよい」と、王は切って捨てた。
それどころか王は、公爵のことなど歯牙にも掛けず、後ろに立つオビチュアリを優しく促すと、他の貴族たちの輪に迎え入れた。
「しかし王よ。彼女が気付いてさえいれば、このような事態には……」
「くどいぞ公爵。この私が良いと言っているのだ」
僅かな苛立ちを露にした王に、公爵は貝のようにピタリと口を閉じた。
今代のエッカルド王は、若くしてその位に就いただけあって自矜心が高く、苛烈とも言える性格をしている。特に、意味の無い詮議には容赦のないところがあった。
王は興味なさげに公爵を一瞥した後、室内にいる貴族たちに問うた。
「そんなことより、出発式の警備に当たった者たちから上がってきている話について、どういうことなのか誰か説明せよ。なぜ貴族でもない一介の騎士が、大監獄から囚人が脱走したなどと口にするのだ」
「シェルグラスの所為です!」
一人が叫ぶように答えると、周囲の者たちも「そうだ」「そうだ」と、口々に同調した。
エッカルド王は、失望したと言わんばかりに大きな溜息を吐く。
「では、その存在すら知らされていないシェルグラスの者が、どうして体ではなく首が現れたなどと申すのだ」
「それは……」
口籠る貴族たちの後ろから、ベイヤー宰相が進み出て言った。
「シェルグラスめの見間違いでは?」
周囲との温度差がはっきりと感じられるほど、平然とした声音であった。
宰相は一同の注目が集まっても、普段と変わらぬ気難しそうな表情のまま。王に臆した様子も無く、己が推測を口にする。
「アンホールド令嬢とご一緒であったならば、先日の封書盗難については既にお聞きになったことでしょう。あれは己が目的のためであれば、どんな相手からも平然と盗みを働くような女です」
オビチュアリは貴族らしく表情を変えぬまま、ベイヤーに目礼した。
彼女が自身のローブを奪われ、それを使って封書を盗まれた際に、疑うより早くルベリア・シェルグラスの捕縛命令を出したのは、何を隠そうこの宰相であった。おかげで下手人は早々に捕まり、オビチュアリの過失も許されることとなったのである。
しかし、ベイヤー宰相の推測に王は納得をしなかった。
「だから妙なのだ」
と、王は言う。
「封書を盗むなど、平民とて考えずともわかる大罪を、何故あのような若く美しい娘が犯したのだ。今や深く反省し国外追放してくれとまで言っているというではないか。――まるで、早くここから離れたいとばかりに」
しばらくの間、誰も何も答えなかった。否、答えられなかったのだ。なぜなら、王だけではなく彼女を知る誰もが、そのことを奇妙に思っていた。
彼らの知るルベリア・シェルグラスといえば、その美貌に比例して自己顕示欲の強い女である。たとえ罪を犯そうとも、己の美しさの前ではすべて許されると考えていてもおかしくない。
その彼女が、深く反省し国外追放を望むなど、何か想像に絶する出来事が彼女に起こったとしか考えられない。それは、いったい何なのか……。
何も言わぬ貴族たちを前に、王は嘆くように口を開いた。
「首のことなど、本来であれば話に上がることすらありえぬことだ。それもシェルグラスの口からなど……。どうして大英雄がこの地を離れる今となって、アレが私を煩わせるのだ。誰ぞ答えられぬのか」
答えを持っている者などいないことは、王とてわかっている。
だがしかし、ベイヤーが再び沈黙を破った。
「シェルグラスのことです、どこかで首のことを耳にして、今度はこの国を乗っ取ろうとしているのでは?」
宰相とは思えぬ暴論に、王は苛立ちとも呆れともつかぬ表情を浮かべた。
「令嬢一人で国を乗っ取れると?」
「ですからシェルグラスなのです。奴らの血は信用なりません」
「貴様のシェルグラス嫌いも、そこまで行くと異常だな」
言い切った宰相に、公爵が嘲笑を浮かべて言った。
ベイヤーが顔を向けると、公爵はその瞳に悪意を浮かべて睨め付ける。
「シェルグラスが居らねば戦争は終わらなかった。少しはその功績を認めてやればどうだ」
「だからこそ奴らの所領は未だに歪んだままなのだ」
ベイヤーは反論の隙を与えぬまま、言葉を続けた。
「裏切り者の血など、この国には必要ない。すべては我が王の栄光と安寧のため」
王はその言葉に幾分か気分を良くしたようだった。
先ほどの落胆を失くし、王はベイヤーに向き直ると、彼に問う。
「だが宰相。それならばアンホールド青年のことはどう説明する? 成り済ましていた者は、例の傭兵団の一員であると申したと聞いているぞ」
「悪には信奉者がいるのが常。その者が自称しているだけでしょう」
ベイヤーはすぐにそう答えたが、王は首を横に振った。納得には至らなかったらしい。
宰相が口を閉じると、息を吹き返したように今度は公爵が口を開いた。
「やはり封印が破られたのです!」
声高らかにそう言い張る公爵に、エッカルド王はうんざりとした様子を隠さずに首を振った。
「くどいぞ公爵」
「ですが王よ! それしか考えられません!!」
と、公爵は止まらなかった。
「やつらめ、ガードナー将軍がいなくなったことで手薄になったと考えて、今度こそこの国を滅ぼそうと画策しているに違いない!!」
「まさか!」
と、別の貴族が声を上げる。
その声は一つだけではなく、公爵の推測を否定する者は多かった。
「首だけで這い出てきたとでも言うのですか?」
「大英雄と言えども、今は老騎士。そこまで弱体化すると本当にお考えですかな?」
特に騎士団を総括する側の貴族たちから反論の声が上がる。
しかし公爵は、あえてそんな彼らに向かって話し始めた。
「アブサードは次のアンホールド家当主となる青年だった。当然、首の在り処も知っていたはず。だから成り代わられたのだとしたら!」
「成り済ましている間に、密かに掘り出したということか……」
ひとりが零した推測に、室内の緊張が高まる。皆が落ち着かない様子で視線を交わし合った。
「だが首を掘り起こしていることに、我々が気付かないなどということがあり得るか?」
「ない」と、誰かが即答した。
「ならば掘り返されていないのだろう」
強引な帰結に、またも反論が湧く。
「将軍は聖地へあまりにも急ぎ向かわれた。つまり危険なのでは?」
ガードナー・スピンディルの出発は、あまりにも早かった。
一度王都へ戻ってきて、そこから長い巡行の旅を経て、旅立つのでも良かったはずだ。
だが大英雄はそれを辞した。拒んだと言ってもいい。その理由とは……。