英雄の出発 7
思わず肩を揺らしたルベリアは、周囲の視線が全て己に向いているのに気付くと、慌てて表情を取り繕った。
ガードナーの宣誓に疑問が残るのは確か。
なぜならルベリアは、ガードナーが聖都へ行きたい本当の理由を知っているのだ。
それは竜への信仰でも姫巫女の護衛への憧憬でもない。己の安全のため。
それなのに、竜の誓いが成功するのか。
広場であの光景を目にした瞬間、ルベリアは少しだけ、本当に少しだけ、ガードナー・スピンディルという男を見直したというのに、もし青年の言う通り、誓いを述べる際に竜の鱗を持っていたのだとすれば、信仰も何もない男と誓約が成されてしまったことにも頷ける。
竜の鱗とはそういうものなのだから。
しかしそうは思っても、ルベリアはバース・エッカルドの貴族として、軍人として、青年の言葉に頷くわけにはいかない。
「私にはわからないわ」
ルベリアはそう答えるしかなかった。
「あれ、わかんないんスか?」
と、青年はただ笑う。
「てっきりそれに気付いたから止めようとしているんだと思ったッスよー」
「ち、違うわ。私はただ、将軍に大監獄でのことをみんなに話してほしくて……」
「まさか」
ガードナーの恐れるような声が、ルベリアの言葉を遮った。
皆の視線が、美しい令嬢から大英雄へと移る。しかしガードナーは狼狽した様子を隠しもせず、その口を戦慄かせた。
その視線の先には、笑い続ける青年がいる。
「まさか……、貴様は……」
思わず後退った英雄の姿に、青年は先ほどまでとは打って変わって、意地の悪い顔でほくそ笑んだ。
その笑みを恐れるかのように、英雄は更に後退する。
ガードナーは周囲を取り囲む騎士たちの輪から、そうして一歩外に出てしまった。
その瞬間、
「――オルテガさん!」
青年がそう叫ぶが早いか否か、騎士たちよりさらに後方、主人を失って困惑する他ないアンホールド家の護衛の中から、一人が飛び出した。
深くフードを被ったその人物は、目にも止まらぬ速さで一団から外れた老騎士の元へ向かう。
「オラ死になァ!!!」
はためくローブの隙間から、鋭い刃か飛び出す。
しかしそこは大英雄、自身も素早く剣を抜くと、刃は鋭い音を立てて交じり合った。
遅れてやってきた慣性が、襲撃者のフードを落とす。そこから現れた豊かな赤毛。そして己を睨み上げる夕焼け色の鋭い瞳を目にして、ガードナーは驚愕に眼を見開いた。
「き、さまは……ッ!」
「久しぶりだねぇ。会いたくなかったよ、クソ野郎」
言うとともに鋭い蹴りがガードナーの腹を撃った。
思わず仰け反ったガードナーとは反対に、女は蹴りの勢いを使って一回転すると、遠心力を刃に乗せて振り上げる。
そのまま切り裂くと思われた一太刀を、ガードナーはよろめきながらもなんとか防いだ。
「ハッ! 腕が鈍ったんじゃないかい!」
獰猛に笑いながら、女は邪魔そうにローブをかき上げた。
重たいローブの下から現れたのは、傷ひとつない滑らかな肌。局部しか覆っていないような胸当てに、太腿すら覆えないほど短いズボン。足首までのブーツ。殆ど何も着ていないのと同然な女の姿に、ガードナーは唾を吐いた。
「貴様、何者だ!」
「ガードナー将軍をお助けしろ!」
強者二人の戦闘はあっという間の出来事で、出遅れた騎士たちが漸くガードナーを囲むような陣形を取った。
謎の青年と謎の女。両者に挟まれるような状況かつ一方は大英雄でさえも苦戦するような存在である。騎士たちは緊張で滑る手で柄を握りしめた。
騎士たちに庇われるような形になったガードナーは、漸く態勢を整えると、蹴られた腹を摩った。後方にいる青年を一瞥した後に、女の方を向く。
「オルテガ、まさかお前がここにいるとは……。魔大陸に向かったと噂で聞いたが」
「アンタがこの国を出るって言うから、見送りに来てやったんだよ」
女は馬鹿にするような笑いを浮かべながら、そう答えた。
驚いたのは騎士たちの方であった。ガードナーは襲撃者の名を当然のように呼んだのだ。
「ガードナー将軍、お知り合いなのですか?」
「古い因縁だ」
それ以上口を開く様子の無い大英雄に、騎士たちは困惑するほかない。
代わりに口を挟んだのは、未だ剣を向けられている青年だった。
「自分からくっついてきたくせに被害者気取りッスか?」
と、青年は嗤う。
「アンタが団長を斬って埋めたときから俺らの間には死しかないんスよ。因縁なんてものはどこにもない。そんなことも忘れちゃったんスか? 馬鹿なんスか、馬鹿なんスよね、馬鹿なんだ」
「アンタの方が阿呆みたいだよ、セリオン」
女の声に、青年は「おっと、いけね」と、口を押える。
再び手を離した時には、青年は再び飄々とした笑みを浮かべていた。
「まぁでも、見送りに来たってのは本当ッスよー」
その言葉に、ガードナーは女を警戒しつつも青年に目を向けた。
怪訝そうに眉を顰めた様子の大英雄に、青年は機嫌良さそうに軽薄な笑みを深める。
「大英雄さんがつかの間の休息を味わいに行くっていうなら、その因縁の相手として、ちょっとくらい意地悪したっていいッスよね」
「つかの間、だと……?」
「そうッスよ。竜の国なんか行ったところで、あの人から逃げ切れるわけないじゃないッスかー」
青年は何を当然のこととばかりにケラケラと笑う。
ガードナーは悄然として言葉を失ったかと思えば、突如怒りを露にして声を荒げた。
「貴様らのような邪悪な者たちが、あの地に降り立つことは不可能だ!」
「でも団長に言われたんスよね、『また会おう』って」
その言葉に息を呑んだのは、ガードナーだけだっただろうか。
大英雄の口が戦慄く。
「な、なぜそれを知っているのだ……なぜ……」
「俺らの団長ッスよ? 知らないわけがないじゃないッスかー」
「なぜだ……なぜ……」
壊れたように問いを繰り返すガードナーは、生気を失くして一気に老け込んだように見えた。最早反論する気力も無いように見える。
代わりに口を開いたのは、事の成り行きを見守っていたルベリアであった。
「あなたの言う団長とは、もしやアブラプトゥムにいるアレのこと?」
青年は答えず、空虚な笑みを浮かべたままルベリアを見やる。
ルベリアは恐怖に竦みそうになる体で、負けじと息張み、一歩前へ踏み出した。
「アレが、あの化け物が大監獄に収容されたのは遥か昔の話でしょう? どうしてあなたのような若い人間がアレを団長だなどと言うの?」
と、言ってルベリアは更なる疑問を口に出す。
「そもそも、アブラプトゥムには玉璽のある許可証が無ければ入ることすらできないはず、あの日だって私たちは王より授かった封書を破いて入ったのよ。他に人がいる気配もしなかったわ。それなのに、どうしてガードナー将軍が言われた内容を知っているの?」
ルベリアが口を閉じると、小さな拍手が響いた。
そちらを向くと、女がルベリアに向かって手を叩いている。いつのまにか、その剣は腰に戻されていた。
「やっぱりこういうときは女の方が肝が据わってるねぇ」
機嫌が良さそうにそう言った女は、再び剣を握ることなく腕を組む。豊満な胸がその上に乗り上げたが、ここにいる誰一人として、それに気取られるような愚か者ではない。
「教えてやりなよ、クソ野郎」
女は大英雄に向かって吐き捨てる。
しかしガードナーは蒼褪めたまま、決して口を開かなかった。
「おや、大英雄ともあろう男がだんまりを決め込むみたいだよ」
「そりゃそうッスよ。そういう決まりなんスから」
「お貴族さんやってた人間が言うと違うねぇ」
女も青年も、何が可笑しいのかケラケラと笑いながら言葉を交わす。
その様子が妙に不気味に思えて、ルベリアは奮い上がっていた心が急速に萎んでいくような気がした。それは笑っているような傷をもつ生首を見たときと似た感覚だ。
――そう、あの首を。
あの恐怖を思い出してしまったルベリアは、思わず両手で自分を抱きしめた。
「ルベリアちゃん」
呼ばれた名前に、ルベリアは思わず肩を震わせた。
青年はアブサードとは違って、そんな彼女に優しく言葉をかけることもない。
「真実は知らないままの方が幸せなこともあるんスよ」
「……ええ、そうね」
それはルベリアも身を以て学んだことだ。彼女はアブラプトゥムの真実など知らない方が幸せだったし、己が惹かれたアブサードが本物だったのかどうかなど、きっと知らないほうが良い。
それはガードナーとて同じことだろう。軽率にもアブサードに触れなければ、彼は晴れ晴れしい心でドラコニカへ向かうことができたというのに。
「だからね、これだけは教えてあげる」
青年は、軽薄そうな笑みの奥に、果てしないほどの悪意を浮かべて口を開いた。
「君たちバース・エッカルドの人間がどれだけ邪魔をしようとも、俺たちはずっと団長と共に生きてきた。団長のいるところに俺たちは存在し、俺たちのいるところに団長は存在する。我が傭兵団とエッカルドの間にある死が二つを分かつまで、それは変わることのない真実なのだ!」
演説の如く高々と言い放った青年の瞳に理性は無く、軽薄さが姿を消して、狂気に染まった笑みを浮かべた顔が周囲を一望する。
その狂気に呑まれた騎士たちは、ひとり、またひとりと刃の切っ先を震わせ始めた。
「恐怖しろ! 泣き叫び許しを乞え!! 彼の御方の首を斬り落としたその時より、我ら一同エッカルドの血を根絶やしにすること運命と定めた!」
青年は尚も高らかに宣言する。
「――之は呪いを以て聖戦である!!!」
青年が口を閉じると、沈黙が辺りを支配した。最早誰も口を利くことができない。
ふと、絶望に駆られても尚その機能を果たす大英雄の耳が、僅かな機械音を拾い上げた。段々と近付いてくるその音に、気付けた者は他にはいない。
生きる気力を失ったと同然のガードナーは、それでも頭の隅で何の音かと思考した。
そして、その答えに至った瞬間、再びその全身に活力を漲らせて叫んだ。
「――海だッ!!!」
同時に、彼は丸太のような腕を撓らせて、駆け抜けた二つの影に向かって投擲した。
ガードナーの逞しい腕から放たれた大剣が、女が纏うローブの裾を切り裂きながら地面を削る。
剣はそのまま、深く地面に突き刺さって止まった。
「逃がすな!!」
老騎士の咆哮に、騎士たちの背筋が伸びる。
しかし彼らが活力を取り戻した時、二人の襲撃者の姿は海の上にあった。
竜の祈りによって渦潮が止まっているとはいえども、港とドラコニカの船の間という僅かな隙間を物凄い速さで走り抜けていく小型船に、二人は躊躇うことなく飛び移ったのである。驚くことに、船はその間、一度も速度を緩めなかった。
「じゃーな大英雄! つかの間の安寧ってやつを精々楽しんでほしいッス!!」
女に支えられながらも、青年は猛然と進み続ける船から手を離して、ガードナーに向かって手を振った。
その顔に先ほどまでの狂気は跡形も無く、はじめと同じヘラヘラとした笑みを浮かべている。
最後の挨拶は済んだとばかりに、船は一際大きな唸り声を上げるとともに速度を上げた。ガードナーの耳が捕らえた機械音は、船に積まれたエンジンが動く音だったのだ。
余程腕のいい技師がいるのだろう。騎士たちが手にした獲物を投げるよりも早く、船は港を抜け、地平線の向こうに消えて行った。
「追いますか!?」
騎士の一人が、海の向こうを見つめ続けるガードナーに問うた。
しかしガードナーは首を振る。
「もう追いつけまい。わしは予定通りドラコニカへ向かう」
「将軍! 彼は我が国の貴族に成りすましていたのですよ!?」
ルベリアがすかさず食って掛かった。彼女はこれを利用して大英雄を王都へ連れ帰ろうと考えたのだ。
老騎士はうんざりとした態度を隠すことなく、ルベリアを見下ろした。
「だがここにはもう居ない。ならば、わしにできることはもう無いだろう」
「そんな……」
言葉を失くすルベリアの横を通り過ぎ、ガードナーが船に乗り込むと、すぐに舷梯が外された。
旅立つ船の姿が見えたのだろう。少し離れた広場から歓声が沸く。
ドラコニカの船が地平線の向こうに消えていく頃には、海は無数の渦潮で満ちて、すべての侵入を拒んでいた。