英雄の出発 6
2020/03/10に使者の口上前の祝詞を修正しました。
出発式は祝砲から始まった。
ぬかるんだ大地をこの日のためだけに誂えられた赤い絨毯が覆い、その上を英雄がゆっくりと船に向かって歩いている。人々はそんな英雄に少しでも触れようと大きく手を伸ばし、口々に彼の名を叫んでいた。――将軍万歳! 英雄万歳! ガードナー・スピンディル将軍に竜のご加護あれ!
ルベリアはアブサードと並んで、少し離れたところからその様子を見ていた。その表情は、喜色満面といった様子の周囲とは正反対だと言っていいだろう。
アブサードは苦笑を浮かべながら声をかけた。
「そうご心配なさらずとも、この国は大丈夫ですよ」
「……ええ、そうね」
ルベリアはそう言いながら、英雄とは名ばかりの男を見つめた。
ドラコニカからの船の前で、使者たちとにこやかに会話する英雄の姿は、知らぬものからすれば英雄として相応しい姿に見えたのだろう。しかし、彼の笑みは名誉や心根からのもではないと、ルベリアはわかっていた。――彼は長い悪夢から解放されるのだ。
「そうであれば、どれだけよかったのかしら……」
ルベリアは思わせぶりにそう言った。
ガードナーが広場を抜けて祭壇に上がると、騎士の一人が片手をあげて宣誓した。
「これより大将軍ガードナー・スピンディル閣下のドラコニカ出発式をはじめとする!」
わっと歓声が上がるとともに、祝砲が轟きわたった。人々はこぞって手を打ち鳴らし、英雄の名を叫び、あるいは口笛を鳴らした。
騒ぎの中、ドラコニカの使者のうち一人が静かに立ち上がる。
美しいけれど複雑な文様の描かれた貫頭衣に身を包んだ彼は、祭壇の中央に立つと一礼し、手にしていた書簡を掲げるように持つと、それをゆっくりと広げた。
「―――― Irefic-ulsusac, siilbi, Imeykoyenis, 我らが神よ」
使者が歌うような祝詞を奏上すると、書簡から淡い光が溢れ出した。
ぼんやりと青みがかった光は、やがて一筋の柱となって空へと延びる。あまりにも神秘的な光景を前にして、広場は水を打ったように静かになった。
静まり返った群衆を前に、使者は光を放つ書簡を朗々と読み上げ始める。
「ドラコニカ現教皇、名を秘匿といたす姫巫女様より、竜騎士の命、元の如く竜神の儀に随うべきの由、宣旨を下さる。神徒の申し行いに依るところなり」
聖都からの書状は、古くからの慣例に倣い、古めかしく厳かな言葉付きで紡がれていく。
人々は、彼の言うことの半分も理解できていなかったが、歌うような美しい声に、ただただ聞き入った。
「竜神の儀、騎士命ぜらるべきの旨、神徒申し請う。神徒これを聞かば、定めて鬱を結ぶか甚だ疑はし。よって宣旨の下さるのところ、その御身、重ねて宣旨をなされず。よって――」
使者はそこで一度言葉を切ると、ガードナーを振り返った。
真っ直ぐ顔を上げていた老騎士と目が合うと、使者は自身の隣を指差す。
「神徒己で請う。ガードナー・スピンディル、ここへ」
「はっ!」
大英雄は、己より若い使者に命じられるも、不満を表すことなく素早く立ち上がった。
ガードナーが近付く中、使者は再び書簡を読み進める。
「神徒は、これよりガードナー・スピンディルが竜之国に謀反の意を持たず、先日の竜神の儀に云う竜騎士として、先の一生を神の御許で過ごす旨、その名に誓うことを望む」
使者は朗々と歌うように、一度も詰まることなく読み上げていく。
数歩で使徒に並んだガードナーは、その場に跪いた。
「また聞く。この者竜騎士に成りし、神徒バース・エッカルドに来しといえども、都に属するにあらず。先々の宣旨に云う『竜の意思、服さざるの輩あらば、都にて沙汰を致すべし云々』。よってその宣旨を施行せんがため、かつ世界に仰知せしめんがため、使者を使わすこと罷り成らぬこと違わず也」
読み終えると、使者は書簡を空へ掲げるのを辞めた。
彼は隣で跪いたままの老騎士に向き直ると、書簡を差し出しながら静かに言う。
「誓いは言葉によってなされる。ガードナー・スピンディルよ、誓いの言葉をここに」
「ガードナー・スピンディルは、竜の騎士として姫巫女様と共に竜之国でこの一生を終えること、ここに誓います」
言い終えると、ガードナーは書簡に右手を当てて魔力を通した。
すると、使者が持つ巻物が再び淡い光を帯びて、宙に浮きあがる。民衆が騒めいた。
「その言葉に偽り無きなれば誓いはここで成された。バース・エッカルドが将軍ガードナー・スピンディルを新たな竜の騎士として竜之国へと迎え入れることここに誓約する」
そう言うが早いか否か、巻物は光となって消えてしまった。
歓声が沸き起こり、拍手喝采を受けながらガードナーは恭しく一礼する。人々は新たな竜騎士誕生を心底より喜び、口々にその栄誉を与えられた英雄の名を叫んだ。
周囲を取り囲んでいた騎士たちも、安堵と誇らしさを混ぜたような顔で微笑んでいる。
唯一ルベリアだけが不満を露に、ガードナーの姿を睨め付けていた。
***
出発式は恙なく進み、ガードナーは英雄らしく民衆に手を振ってから船へ向かった。
老騎士は船の前にやって来ると、そこでもその名に相応しい振る舞いをした。此度の出発式の護衛に当たっていた騎士たち全員と、握手を交わしたのである。
「どうかお元気で!」
「あなたはまさしく英雄です!」
騎士の中には、感極まって泣き始める者もいた。
アブサードに連れられてやってきていたルベリアは、その様子を冷めた目で見ていた。彼女にとっては、ガードナーが英雄らしい振る舞いをする度に、それがどんなに空虚で自己満足な行為か教えてやりたいくらいだった。
そんなこともわからず、ありがたがる騎士たちのなんと愚かなことか。
「アンホールドくん」
ガードナーは最後に己からアブサードに声を掛けた。
アブサードは、まさか呼ばれるとまでは思っていなかったのだろう。目を丸くして、小走りに駆け寄った。
「先ほどは問い詰めるような真似をしてすまなかったな」
「いいえ! そんな……」
否定しようとしたアブサードを、大英雄は首を振ることで遮った。
「わしとて、彼女の言い分を聞いてやりたいところだが、ドラコニカへの出発を遅らせることはできない。君の手でどうにか王都まで連れて行ってあげなさい」
「え、ですが彼女は転移魔法の封書を持っているのでは」
戸惑うアブサードに、ガードナーは顔を寄せ、秘密を打ち明けるように小声で言った。
「おそらくあれは良くない方法で手に入れたのだろう。美しい令嬢がこれ以上罪を重ねぬよう、君が監視しておくのだ」
「っ!」
アブサードは思わず息を呑んだ。
慌てて大英雄を仰ぎ見ると、彼は静かに頷く。アブサードも頷き返した。
視線をずらすと、怪訝そうな顔をしたルベリアと視線が交差する。美しい彼女が、どうしてそんな悪行に出たのか想像もつかなかったが、アブサードは視線を戻すと、もう一度頷いた。
「かしこまりました。将軍のおっしゃる通りに致します」
「君のような若い才能があることに誇りに思うよ」
「光栄です、将軍」
未来ある青年に敬するように微笑まれて、ガードナーは気を良くした。
そのせいだろうか、ガードナーにとっては珍しく、英雄らしくない気安さで、アブサードの肩へと手を伸ばす。
「わしがいなくなった後の、この国を頼んだぞ!」
アブサードが気付くより早く、ガードナーの手が、青年の肩を叩く。
――その瞬間、アブサードの顔がどろり、と崩れ落ちた。
「アンホールド様!?」
「な、なにが起こったんだ!?」
青年貴族と大英雄の交流を微笑まし気に見ていた騎士たちから、驚きの声が上がる。
ガードナーも例に漏れず驚きに目を見張っていたが、すぐに寒気を感じてその場から飛び退いた。
一拍遅れて、ガードナーの顔があったところを鋭い刃が通り過ぎる。
ガードナーはその勢いのまま数歩下がり、騎士たちと並んだ。困惑する騎士たちを余所に、ガードナーは目の前の青年貴族だったものから目を離さない。
アブサードだった男は俯いたまま、動かなければ言葉も発しない。
その手には、先ほどガードナーを仕留めんばかりだった小振りのナイフが握られている。
「あ、アンホールド様……?」
一人の騎士が、戸惑ったように声をかけた。
男は微塵も動かず。けれどその顔から、何かが、ずるりと崩れ落ちて、小さな水音を立てて地面に落ちた。
「……あーあ」
静寂を切り裂いたのは、聞いたことの無い男の声だった。
その声を皮切りに、男が動き出す。彼はナイフを持つのとは反対の手で顔を押さえると、天を仰いだ。
「ここでバレる予定じゃなかったんスけど……困ったなぁ」
困ったという割には、軽薄そうな声音が笑いを含んでそう紡ぐ。
「一応最高級のスライム使ってたんスけど」
こちらを見たアブサードの顔は、全く別人のものに変わっていた。
年若く小綺麗な青年だという点ではアブサードと同じではあるが、声に似合いの軽薄そうな顔立ちは、やはり似ても似つかない。
「誰だ、貴様は! アンホールド様をどこへやった!!!」
騎士の一人が声を上げると、青年は首を傾げた。
「俺がそうッスよ?」
「ふざけるのもいい加減にしろ!」
いつから成り代わられていたのか。騎士たちは気づけなかった己を情けなく思いながら、目の前の敵を倒すために声を上げた。
「総員戦闘準備! アンホールド様の行方がわかるまで奴を拘束する!」
騎士たちが一斉に剣を抜き、青年を取り囲む。
しかし彼は笑みを浮かべたまま、向けられている刃のことなど微塵も気にした様子がなく、無防備な様子でその場に佇んでいる。
それどころか、
「大英雄さーん」と、騎士たちの後ろに立つ大英雄に話しかける。
「最高級スライムが溶けるとか、アンタ竜の鱗でも持ってんスか? 俺の変装が無理やり落とされるなんて、それくらいしか考えられないんスけど」
その言葉の意味が分かったのは、青年とガードナー、そしてルベリアだけだったのだろう。騎士たちは怪訝そうな顔をして、一瞬だけ視線を彷徨わせた。
「……いいや。持っていないが。それがどうしたと言うのだ」
否定したガードナーを不審そうな目で見たのは、青年ではなくルベリアだった。
青年はと言えば、大英雄が認めるわけがないとわかっていたのだろう。それ以上追及することはせず、刃に囲まれた状況で飄々と笑う。
「別にどうもしないッスよ。ただ……」と、思わせぶりに言葉を切る。
「ただ、なんだね?」
ガードナーが問うと、青年は目に嫌な光を宿して答えた。
「そんなもん持ってたとしたら、竜の目を誤魔化すぐらいわけねぇんだろうなって思っただけッス」
低い声で紡がれた言葉に、ルベリアはハッと顔を上げた。
青年は彼女を見てもいなかったが、彼女の方は、彼の方をまじまじと見てしまう。それは世界の果てで偶然同郷の者を見つけてしまったときの感覚によく似ていた。
「戯言を」
「そーッスかね? 自分では結構いい線いってると思うんスけど」
吐き捨てる様に否定したガードナーにも萎縮することなく、青年はそう言って笑う。
「それじゃあ、ルベリアちゃんはどう思うッスか?」
使者の口上は百錬抄と玉葉を参考にしています。