英雄の出発 4
最北の地は、今や大英雄を一目見ようという民でいっぱいだった。
深く降り積もった純白の雪は、無数の足で押し潰され、土と混ざって汚く濁っている。しかし民衆は顔を上げて遠くを見るばかりで、足元を気にする素振りも無い。今もまた、誰かが跳ね上げた泥で靴が汚れた。
民衆を前に、ルベリアはまるで尻込みしたかのように身を震わせた。
それは寒さからだったかもしれない。王都からそのままやってきた彼女は、この極寒の地には相応しく無い格好をしていた。準備をしてくるべきだったとの自責の念が胸に湧いたが、しかしその時間も惜しかったのもまた事実。ルベリアは己を叱咤して、目的を果たすべく駆けだした。
ルベリアは人波を掻き分けるようにして前に進んだ。
普通であればルベリアほどの美しい娘がいることにすぐ気付き、場を開けるような者たちも、今は押し合い圧し合いしながら、なんとか祭場の上を見ようと目を凝らしている。
なんとか間を縫って前に進もうとするルベリアの足に、何かが引っ掛かった。
「あっ……!」
態勢を整える場所も無く、ルベリアの体が地面に向かって倒れ込む。彼女の脳裏に最悪の事態が過った。
けれど彼女の体が完全に倒れ込む前に、何者かが彼女を抱き留めた。
「大丈夫ですか?」
顔を上げると、整った顔の青年が心配そうにルベリアを見つめていた。
民衆に揉みくたにされたルベリアと違い、青年の衣類は少しも乱れていないことが不思議であったが、その胸にエッカルド貴族の紋章があるのに気付くと合点がいった。 ルベリアは平静を装いながら身を起こす。青年の傍は自然と人垣ができており、彼女は難なく姿勢を整えられた。
「あ、ありがとう」
「すごい人の数ですからね。お怪我はありませんか?」
「ないわ。大丈夫」
純粋にこちらを案じる視線が心地よく、ルベリアは目の前の青年に釘付けになった。
しかし青年の方はそうでもないようで、
「そうですか。ではお気をつけて」と、告げると去って行こうとする。
「ま、待って!」
ルベリアは虚を突かれ、思わず声を上げた。
これまでの彼女の人生において、年の近い異性にこれほど興味が無さそうに接されたことが無かったのだ。だが、先ほどのような下心の無い視線を向けられたことも少なかったので、この青年はそういう人間なのだと思うことにする。
呼び止めたルベリアを、青年は不思議そうに振り返った。
「なんでしょう?」
「男爵でらっしゃるの?」
ルベリアは青年の胸にある紋章がそれを示すことに気付き、あえてそう尋ねた。
青年は彼女の視線の先にある己の胸元に目を向けて、気恥ずかしそうに微笑んだ。
「小さい所領なのですが、アンホールドが長男アブサードと申します」
純朴そうな名乗りに好感を覚えたルベリアであったが、ふと、その名をつい最近耳にしたことがあるような気がする。
ルベリアが記憶を辿ると、遡ることすぐにわかった。
あの役立たずの緋色の魔術師オビチュアリと同じ家名なのだ。
「もしかして、オビチュアリの御兄弟でいらっしゃるの?」
「姉をご存知なのですか?」
「ええ。お友達なの」
ルベリアが厚顔無恥にもそう答えると、アブサードは目を丸くした。
だが姉の友人というだけで、この人の好い青年は何かを察したらしい。
「それは失礼を……!」
慌てて頭を下げたアブサードに、ルベリアはおっとりと上品な笑みを返す。すると彼は彼女の美しさにはじめて目が行ったようで、頬を染めて目を逸らした。
ルベリアはその様子に笑みを深めると、人を避けるような素振りをして近づいた。
「わたくし、ルベリアと申しますわ」
軍服に身を包んだままのルベリアは、カーテシーをするには裾が足らなかったが、美しい彼女は優雅に膝を折ることで、己が貴族令嬢であることを示して見せた。
「ルベリア様、あなたのような方がどうしてこんな最北の地へ? 見たところ供も連れていらっしゃらぬご様子。出発式もあり今は人が増えたとはいえ、女性一人では危険な場所です」
アブサードは彼女の身を案じた様子で問いかける。
ルベリアは素早く答えた。
「ええ、実は、急ぎガードナー将軍にお目にかかりたいの」
「スピンディル将軍にですか?」
首を傾げるアブサードに、宰相や魔術師長の様子を思い出したルベリアは慌てて言った。
「好奇心や出来心ではないのよ。この国の危機と言ってもいいわ。急ぎ将軍に帰投していただかなければならないの」
それでも不思議そうなアブサードに、ルベリアは胸元から青い封書を取り出した。
ルベリアは封書を証文の様に掲げて見せる。
「ほら、帰りの転移魔法の封書もあるの。これで急ぎ帰還しなければならないのよ」
「ですが出発式はもうすぐ始まります。そんな時間は……」
煮え切らない態度のアブサードに、ルベリアはそっと近付いた。
振れるか触れないかという距離に手を伸ばしながらルベリアが微笑むと、青年は熱に浮かされたようにその手を取り、優しく引き寄せた。
心も伴っている今回は何の抵抗もなく、ルベリアはアブサードの腰に手を回す。
二人は周りの喧騒を忘れ、まるで舞踏会のように寄り添った。見上げたところにあるのぼせたようなアブサードの瞳が心地よく、ルベリアは自然と笑みを深める。うっとりと頬を染めたまま口を開いて――。
しかしそれを遮るように、横から手が伸びてきた。
「な、なによアンタ!」
「オルテガさん!」
ルベリアとアブサードは、正反対の声音で口を開いた。
振り向いた先にいたのは一人の護衛。頭部まですっぽりと覆う外套を羽織っており、顔はおろか性別すらわからない。護衛とわかったのも、腰に差した剣の形に外套が歪んでいたからに過ぎない。
貴族の護衛にしては異様すぎる姿に怪訝に思ったルベリアとは反対に、アブサードはこの人物を知っているようだった。
その証拠に、彼はルベリアの腰からあっさり手を離すと、護衛に向き直る。
「どうしたんですか、オルテガさん」
「どうしたもこうしたもないよ」
護衛はルベリアの想像よりも高い声で答えた。
女であることに驚くルベリアを余所に、護衛は呆れたように口を開く。
「乳繰り合うのも結構だけれどね、時と場所は考えな。場違いったりゃありゃしないよ」
その言葉に、二人は辺りを見回した。
人々は相変わらず祭場を見ようと揉み合っている。所々殴り合いの乱闘まで起こっている様子は、先程までの二人の間にあった空気とは似ても似つかない。
「す、すみません。ルベリア様」
「いいえ。いいのよ」
恐縮した様子で、しかし耳まで真っ赤に染めたアブサードに、ルベリアは首を振った。彼が謝ることなどない。それは本心からだった。
むしろ、彼女は護衛の女に腹を立てていた。折角の好機に、見計らったかのようなタイミングで現れた女。もしや彼女もアブサードへ好意を抱いているのではないか、と予感のようなものがルベリアの頭に過る。
しかし予想とは裏腹に、二人が状況を把握したとわかると、女はそれ以上は興味がないと言わんばかりに二人から離れた。
「ちょっと……」
「いつまでもこんな場所にいないで、さっさとお貴族様の場所に行きな」
護衛はそう言うと、人混みを器用に避けて去って行く。
対抗心を露に意気込んでいたルベリアは、肩透かしを食らったような気がしてならなかったが、そう思っているのは彼女だけのようで、アブサードは照れくさそうに頭を掻いた。
「怒られてしまいましたね」
苦笑しながら言うアブサードに、ルベリアは何も答えられず。
するとアブサードは、先ほどまでの雰囲気とは打って変わって、真剣な面持ちで口を開いた。
「申し訳ありませんでした。この国の危機とお聞きしたにもかかわらず……」
「そんなこと……」
否定しようとしたルベリアに向かって、アブサードは静かに微笑む。彼が続きを望んでいないことを悟ったルベリアは口を噤んだ。
アブサードは再び謝罪を口にすると、民衆の向こうを指で差す。
「あそこにエッカルドから派遣された者たちが待機している場所があるのです。式典が始まるまでは将軍閣下もいらっしゃいます。ご案内いたしましょう」
「え、ええ。よろしく」
ルベリアは当初の目的を思い出すと、アブサードの案内で歩き始めた。