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少年と野良猫

月には決して手は届かない。そんな事は百も承知だ。

昔から、決して触れられないとわかっているのに、夜空に浮かぶ美しい月に非道く心惹かれていた。

人々が寝静まり、この世界には自分一人しか存在していないかの如く思えた静かな夜も、ただ黙って夜空に浮かんでいる月を見て、「嗚呼、お前もひとりぼっちなのか」と語りかけ心の中の孤独を宥めてきた。


「なあ月よ、お前の様に美しい姿に生まれ変われたら、俺も誰かに見てもらえるだろうか。」




深夜のコインランドリー。ベンチに座り乾燥機が停止するのを待っている間に何時の間にか眠っていたらしい。

「また昔の夢か。」

誰にでもなく呟いた一言が無人のコインランドリーに響く。一週間分の洗濯物を入れた乾燥機はとおに停止していた。いけない、早く衣類を回収して帰らねば明日の仕事に差し支える。寝坊でもしたらまた()()()()()の雷が落ちる。男はまだ覚醒しきれていない頭を振り、衣類を回収して家へと急いだ。



翌朝職場に着くとおやっさんに話しかけられた。

「よおノラ!休み明けだからって気を抜くんじゃあねえぞ!」

何時もの挨拶だ。そして俺の返す言葉も決まっている。もう何回繰り返したかもわからぬ程の決まり文句だ。

「おやっさんお早う御座います。毎朝毎朝言うのも何ですがね、おやっさん、いい加減ノラって呼ぶのはやめてくれませんかね。俺には夏目太陽って言う名前があるんですから!」

「なぁにを野良猫風情が生意気な!そんな立派な名前を名乗るには十年早いわい!」

ガハハと豪快な笑い声を上げながら店内へと入って行くおやっさんの背中を見送りながら溜息を吐く所までが毎朝の恒例行事なのだが今日は違った。

「そうか、もうお前が来て十年経っちまうな…」

先程まで大きな声で憎まれ口を叩いていたおやっさんは年相応に昔を懐かしみ、慈しむ優しい顔をしていた。

「おら、何ぼさっとしてやがる!さっさと開店準備始めるぞ!」

おやっさんは何時もの調子で太陽を怒鳴り散らした。

へいへいと、太陽もまた何時もの調子で肩をすくめ二人はラーメン店月ノ家(つきのや)の店内へと入っていった。



昼の書き入れ時を終え、客足の落ち着いた午後三時。店内には太陽一人だけだった。

おやっさんは、後は任せたと言い二階の自宅へと上がっていった。今頃大きないびきをかいて昼寝の真最中であろう。

丼を洗いながら太陽は朝の事を思い出していた。


太陽が月ノ家の従業員になりもうじき十年になる。十年前は自分が十年先に生きているとは思わなかった。否、明日さえも生きているかわからなかった。





――十年前。

男はまだ少年だった。少年はその日も食べ物を求め人気のない夜の街を彷徨っていた。この街に流れ落ちて二週間程経ち、盗みに入りやすい家や人目に付きにくい通りも粗方わかってきた。さて、仕事の時間だ。今日は盗むか脅すか。少年は今夜の飯の種を求めギラギラとした目を光らせていた。


少年が根無し草になり早、三年。罪悪感は最初の一週間で消え去った。

初めは三日食べずに歩いていた夜に空腹に耐えきれず畑のトマトを盗んだ事が始まりだった。

罪悪感に胸を締め付けられながらトマトを一口齧った瞬間に涙が溢れた。

どうして自分はこんな事をしているんだろう。人様の畑から野菜を盗み食べる事は悪い事だとわかっている。なのに、なのにどうしてこんなにも美味しいのだろう。

「生きてやる、何をしてでもどんな目にあっても生きて生きて生き抜いてやる。」

少年は汚れた袖で涙を拭き、月を睨んだ。

それからは早かった。

畑から野菜を盗んだ。

鶏小屋から鶏を盗んだ。

留守の民家から金目の物と服を盗んだ。

飲屋街で酔っ払い眠りこけている者から財布を盗んだ。

夜道を一人あるく者を襲い金を脅し取った。

時には見つかり、この野良猫野郎がと袋叩きにあった。


街から街を流れ、この街に流れ落ちた少年は今日もいつものように獲物を求め目を光らせている。まだあどけなかった少年の顔も、三年の月日で鋭い獣の様になっていた。この世の全てを憎んでいる野良猫の様に。


あいつにするか。

少年は夜道を一人歩く男に狙いを定めた。今日は脅す日にした様だ。

足跡を殺し気配を殺し、心の隅でまた燻りそうになる罪悪感を殺し、少年は男に忍び寄った。

「おい、おっさん。痛い目見たくなけりゃ金出しな。」

最初は戸惑ったこの台詞も今ではすっかり板についた。十五の少年から発せられたその言葉と眼光はとても少年とは思えぬ獣そのものだった。

しかし、男は最初こそ驚いたもののすぐにガハハと笑い出した。

なんだこの男は。今まで恐怖で震える者や腰を抜かす者はいたが笑い出した奴はいなかった。

「おっさん何が可笑しい。この状況で何故笑う。」

少年が今にも噛みつきそうな怒気を込めて男に問うが男はまだ笑っている。ようやく落ち着いたのか笑いながらではあるが少年の問いに応えた。

「ハハハ悪い悪い。いきなり声を掛けられて身構えちまったがこんな可愛い坊主だとは思わなかったもんだからよ。」

男は心底可笑しそうにおどけてみせた。

「てめぇ…上等だよ。」

少年は男に飛びかかった。が、次の瞬間には少年はアスファルトに叩きつけられていた。

がはっと叩きつけられた肺から押し出された空気が口から逃げた。

なんだ何が起きた。

「馬鹿野郎が、真正面からぶつかって行く奴があるか。だが、それが一番大事な事でもあるな!」

這いつくばる少年を見下ろしながら、男は腕を組んで

またガハハと笑った。

このおっさん強すぎる。どうにかして逃げなければ殺される。少年の野生の感が警笛を鳴らす。

しかし、男から発せられた言葉は予想外の物であった。

「おい野良猫坊主、腹減ってんだろ。うちに来い。」

と、男は歩き出した。呆然としていた少年だが何故かこの機に逃げ出すという考えは頭の中から抜け落ちていた。

「おら、ぼさっとするな!早く来ねえか!」

雷の様な男の怒鳴り声に少年は飛び上がり男の元へ駆けて行った。



男について行った先は月ノ家というラーメン屋だった。どうやら男はこの店の大将らしい。

がらがらと引き戸を開け店に入る男。カウンターに座ってちょっと待っていろと、照明をつけながら厨房へと入って行った。

どこか居心地の悪そうにカウンターに座り少年は考えていた。俺は何をしているんだ。早く逃げ出せば良いのに何故のこのこと着いて来た。それよりもまず、この男の目的はなんだ。今まで石を投げる者や拳を振るう者はいたが、食べ物を恵んでくれる者は唯の一人もいはしなかった。

そうか、わかったぞ。この男は同情しているのだ。普通の十五歳と言えば何も考えずに能天気に青春を謳歌し、家に帰れば暖かな家族と温かな飯が待っている。だのに俺と来たら薄汚い格好をして盗みと脅しを繰り返す野良猫だ。そうか唯の気まぐれな同情が男をこの様な奇行に走らせているのだ。そう思うと怒りが湧いて来た、その次に悲しみが押し寄せて来た。しかし、少年は泣かなかった。いや、泣けなかった。悪人になると決めたあの夜に涙は流し切った。それからはどんなに腹が減ろうが打ちのめされようが少年は泣く事は無かった。ただ行く宛の無い怒りだけを胸に溜め込み生きる為の原動力として来た。

「おい、坊主。何があったか俺は何も聞かねぇ。ただし、店の中で暴れたらてめぇぶっ殺すぞ。」

少年の腹の中を見透かしたかの様に男は背中で語った。

「うるせぇよ。俺はやりたい時にやりたい事をするんだよ。今までそうやって生きてきたんだ。」

顔は見えずとも男の静かなる警告に気圧された少年のなけなしの強がりだった。

「ガハハ!そうかいそうかい!それじゃあ喰いたくなったら喰いな。麺が伸びちまわねぇうちにな。」

そう言って差し出されたラーメンは空腹の少年には我慢出来る代物では無かった。男には聞こえないくらいの小さな小さな声でいただきますと言って夢中で食べだした。無言で丼に向かい麺を啜り続ける少年に、男は満足そうに語りかけた。

「どうだ坊主、俺のラーメンは。涙が出る程美味えだろ。」

気がついたら少年は涙を流していた。自分でも気付かない位に目の前の御馳走に心を奪われていた。

少年はラーメンを食べた事の無いわけではなかった。盗んだり脅し取った金で何度とは無くとも食べた事はあった。しかし特に美味しいと感じた事は無かった。ただ人々が行列を作り有難がって食している食べ物に興味があっただけだ。しかしいざ食べてみると別段どうという事は無い。決して不味い訳では無いのだが態々列を作り有難がって食べようとは思わなかった。

それなのに何故今この男の作ったラーメンを食べて涙が溢れて止まらないのかがわからなかった。唯一つわかった事は目の前の満足そうに微笑んでいる男が唯の同情や哀れみで自分に接しているのでは無いという事だ。麺を啜る音が鼻を啜る音になり、ようやく鼻水を全て流し切るところで男がやっと口にした言葉はたった一言だった。

「坊主、お前うちにこねぇか。」

意味がわからなかった。全くこれっぽっちも、毛ほども男の言った言葉の真意を汲み取る事は出来なかった。

「勘違いするなよ坊主。俺の子供になれって事じゃあねぇ。俺はお前の親父様にはなっちゃあやれねぇ。唯、お前の雇い主としてこの月ノ家の従業員にしてやろうってこった。」

どうだ、と男は腕を組んで少年を睨んだ。先程までの微笑みは無く、少年の心の奥底まで射抜く様な鋭い眼光である。

「なんでそこまでしてくれるんだ。俺はあんたを襲って金を脅し取ろうとしたんだぞ。そんな奴を何故信用出来る。」

少年は男の目をまっすぐ睨み返した。正直の所今すぐにでも逃げ出したくなるほど男の眼光は恐ろしかった。だが、眼線を外すと負ける様な気がした。何者にも従わず生き抜いて来た今までの自分を否定してしまう様な気がしてならなかった。

「その眼だよ。お前は何故俺から眼を逸らさない。眼だけじゃねぇ。先刻お前は何故俺に声をかけた。簡単な事だ、背後から棒っ切れかなんかで頭をガツンとやれば流石に俺もくたばってたさ。だがお前は声をかけた、そして真正面から俺に向かって来やがった。おめえ、本当は誰も傷付けたくねぇんだろう。ずる賢く、こそこそと生きるのなんて性に合わねぇって思ってんだろう。どうなんだ。」

驚いた。まるで今までの自分をずっと影から見ていたかの様に心の内を見透かされた少年は言葉が出なかった。蚊の鳴くような声で絞り出したなけなしの強がりは少年の心の叫びだった。

「うるせぇよ!お前に何がわかるんだ!綺麗事ばかり言いやがって、第一俺は悪人なんだ、こんな汚れちまった手であんなに美味え食いもんが作れる訳無ぇだろうが!」

それは最早絶叫だった。泣き叫ぶ様に思いのままを叫んだ。後悔なんてしていない。自分はもう善人にはなれない。だからとことん悪に堕ちるのが自分が唯一生きる道なのだと自分に言い聞かせる様に。長い沈黙を破ったのは男だった。男はポツリと語り出した。

「なぁ坊主。俺の作ったラーメンは美味かったか。」

「あぁ、美味かったさ。認めてやるよ、こんなに何かを喰って美味いと思った事は無い位美味かったよ。初めて盗んだトマトより、脅し取った金で喰った高級料理よりも比べようが無い位美味かったよ。だから言ったろう、俺の汚れた手じゃあこんな料理は作れねぇ。作っちゃいけねぇんだよ…。」

最後は消え入りそうな声だった。自分でも何を喋っているのかわからない、考えるよりも先に心の叫びが溢れて止まらなかった。

「気にいらねぇな。」

え、と聞き返した少年に男は静かながらも言いようの無い深く、凄味を持たせた声色で語り出した。

「気にいらねぇって言ってんだよ。悪人が飯作っちゃいけねぇだと。美味いもんは作れないだと。そんな事はねぇ。そんな事はねぇんだよ。お前、俺の作ったラーメンを美味かったって言ったよな。それが答えだよ。」

男は続ける。その顔付は鬼の様な厳しい表情から我が子に語りかける様な優しいものへ変わっていた。

「なぁ坊主、お前が本当に嫌になったらその時は好きに生きたら良い。俺は色々な事に気がつくのに随分時間がかかっちまった。お前はまだ若い、お前が本当に生きたい道が見つかるまでの間で良いからうちで働いてみろよ。」

男の話から、男にも人に言えない過去がある事は想像がついた。そして、その業は恐らく自分よりもずっと深く重い。しかしこの男の作ったラーメンは心に染み渡る暖かな美味しさだった。それなら、もしかしたら俺にも…。

「俺にも作れるようになりますか。ずっと人から盗んだり奪ったりして来た俺でも誰かに美味い料理を作ってやる事が出来ますか。」

少年の震える問いに男は優しく微笑んだ。自分の息子に語りかける様に。

「大丈夫さ、人は変われる。この俺が作ったラーメンを食って美味かったって言ったお前が何よりの証明さ。次はお前が証明してみろ、今までお前が奪って来た奴らに。そうでもしねぇと生きて来れなかった自分自身に。」

暖かかった。目の前の男の言葉は磨り減って冷え切った少年の心を暖かく溶かしていった。

「さぁ!湿っぽい話は終わりだ‼︎明日からビシビシ鍛えてやるからな坊主!所で坊主、お前名前はなんて言うんだ。」

「俺は野良猫です。名前なんてありません。物心ついた時には孤児院にいて、孤児院でも番号で呼ばれていました。」

孤児院での記憶は毎日泣いていた記憶しかない。毎日毎日食事もろくに与えられず、職員からの折檻に怯え、空腹と煙草を押し付けられた火傷の痛みに泣いていた。孤児院での地獄を思い出しまた少年の顔に影が落ちた。

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。ってか。」

「よしわかった。それなら俺が名前をつけてやろう。」

男は続けた。

「お前は今日から夏目 太陽だ。」

「夏目…太陽…何故その名前に。」

少年に男は答えた。

「昔々の物書きで夏目漱石ってのがいたのさ、吾輩は猫である、名前はまだ無い。って書き出しで始まる有名な話があるんだよ、どうだ、野良猫のお前にぴったりじゃあねぇか!」

と、男は笑った。

「なるほど、よくわかりませんが夏目に関してはわかりました。それでは太陽と言うのは。」

「なぁ坊主、今までお前はくらぁい闇の中でしか生きてこなかったんだろう。だからこそ、いつか誰かを照らしてやれる様な太陽になってみろよ。そして暗がりで生きて来たお前でも輝いて、昔の自分を照らしてや

んな。ってぇ事よ!恥ずかしいじゃねえか言わせるな馬鹿野郎!」

男は恥ずかしそうにぷいと顔をそらした。

「夏目 太陽 …。」

少年は初めて自分に名前をつけて貰えた事の嬉しさがこみ上げて来た。やっと、この瞬間に世界に自分が存在している事を認めて貰えた様な気がした。今まで闇の中でしか生きてこれず、今にでも踏み潰されてしまいそうだったちっぽけな野良猫の自分が、今、確かにこの世界に生きている。夏目太陽はこの瞬間世界に生まれたのであった。







「あれからもう十年か。」

どれぐらい昔を思い出していたのだろうか。太陽は自分自身しかいない店内に一人呟いていた。丁度昼寝から目が覚めたおやっさんが二階から降りて来た。寝起きのおやっさんは格別に機嫌が悪い。

「やいノラ!おめぇ、だーれも客がいねぇじゃねえか!さっさと表出て呼び込みでもして来やがれってんだ!」

おやっさんの怒号にはもう慣れっ子の太陽は、はいはいと気の抜けた返事をして厨房を出る。


「おやっさん、もう何百万回言ったかわかりませんけどね。俺には夏目太陽って言う立派な立派な名前があるんでい!」


吐き捨ててぴしゃりと扉を閉めて表に出た太陽の顔には笑みが浮かんでいた。あんたがつけた立派な名前がな。と心の中で続けた。

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