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「田中さーん、これどうやって処理すればいいですかあ?」
投げられた言葉に振り返ると、佐々木さん――コネちゃんの取り巻きの一人だ――がいくつかの書類をひらひらとさせてこちらを見ていた。
真っ先に目に入るその蛍光灯の下で照らされた頭に、相変わらず明るい髪色だなあ、と思う。まあ、コネちゃんの方が更に明るいのだけど。
その書類を受け取ってざっと目を通す。
「これは重複してるやつだからポイしちゃって。シュレッダーがあそこにあるから。これはあのボックス。個人情報系は全部保管」
「はあい」
佐々木さんはちゃんと指示をすれば一応その通りに動いてくれる。出来るかどうかは別として。
なんとか最近は私も彼女らを動かせるようになってきたわけだけども、それでもまだ細々した小さな事ばかりで、私としてはやはり色んな仕事を教えてあげたいと思う。
だけど現実は、私自身が忙しすぎてそんなところまで手が回っていないのが現状だ。
なら先輩方…なんて思ったところであの方々は誰も動いてくれるわけがない。
唯一先輩方に指示出来る上司の大和さんが早く帰って来てくれる事を祈るのみである。
今朝、新幹線に乗って帰ってきた私はそのまま会社に直行し、報告書やら経費精算のための書類を仕上げていた。
出張だった為、今日はそれだけ終えたら帰る予定だった。
私はそのつもりでいたし、その通り従業員の予定覧にも私の名前の下には『出張・昼退社』と書かれている。
では何故私は今手元にあるこの大量のデータをパソコンに打ち込んでいるのだろうか。
名前や会社、番号などが記載された書類を一字一句間違えずに打ち込むその作業は、本来私が今日するはずではない仕事だ。
全てはあの取り巻きのトップ、コネちゃんのせいだった。
会社に入ってそうそうに声を掛けられたのが運の尽き。
「あっ、田中さーんどこいたんですかあ?あ、出張行ってたんでしたっけ?お土産は?…えーこんな渋いのババくさくて好きじゃないんですけどーもっとなんか可愛いの無かったんですかあ?ほら、甘いスイーツとか写真映えするやつ!みかそういうのが好きなんですよお。次の出張では絶対スイーツですよ!絶対!…あ、それで田中さあん!この書類なんですけど打ち込めって言われてえ…でもみかよく分かんないし爪割れたら嫌じゃないですかあ。だからお願いしますう!」と言われた。
途中から日本語に聞こえず最後の「お願いしますう!」だけ聞き取れて、ハッと我に帰ったらいつの間にか手にいくつかの紙束を持っていた。
何を言っているか分からないと思うが私も何をされたのか分からなかった。頭がどうにかなりそうだ。
…という経緯で何故か手にした書類を打ち込んでいた。
あれ、私何しに来たんだっけと思ってしまう前に終わらせないと私の中の何かが爆発する気がする。
もう何枚目かになるその書類にまた目をやってキーボードを叩いていく。心なしかその叩く音がやけに室内に響いている気がした。
「田中、俺の仕事大体終わったからあと俺がやるよ」
「…ん?」
にらめっこしていた書類から顔を上げると、そこにいたのは同期の佐伯君だった。
同期と言ってもあまり関わらないから、素性が知れないかもしれなくもない人物だ。
ただ一つ言えることは、彼は眼鏡男子で結構いい顔をお持ちだという事。あとたまに何故か私が好きなメーカーのコーヒーをくれるから多分優しい人間なのだとは思っている。
「お前出張だったんだし、今日昼退勤だろ。やっとくから帰れよ」
「や、いいよ。あと十分あれば終わると思うし」
「まだ報告書とかも終わらせてないんだろ。その十分で自分のやらなきゃいけない事やれよ」
あ、よくご存じで。
他人に目を向けるほど余裕があるなんて羨ましい限りだ。有難や有難や。
差し出された手に恐る恐る紙束を乗せると、佐伯君はそれを自分のデスクに放った。
「助かる。ありがとう」
「いや。手」
「手?」
「手、だして」
再び差し出された手に頭にハテナを浮かべて、また恐る恐る手を乗せた。
するともう片方の手で自分のデスクから何かを取って私に握らせた。
「つ、つめた、」
それは会社の中の自販機で私が良く買うコーヒーだった。仕事中の睡魔に抗う為の、ノンシュガーノンミルクのブラックだ。
私がこのメーカーを気に入っているのを知ってか知らずか、彼からたまにもらうのはいつもこのコーヒーだった。
「じゃ、頑張れ」
そう言い残して戻ろうとする彼にハッとして慌てて引き止める。
「あ、まま待って佐伯君」
「何?」
「あの、コーヒーありがとう。えと…いつも、なんでくれるの?」
そう問うと、彼は何を考えているのか分からない顔でじっとこちらを見た後にふいと視線を逸らした。
「別に。労いみたいな」
「佐伯君も疲れてると思うけど…ありがとね。今度は私が奢るから」
「…じゃ俺仕事に戻るわ」
「あ、はい」
颯爽と自分のデスクに戻っていく佐伯君を眺めながら、少しだけ私の中で佐伯君への好感度が上昇したのを感じていた。
かっこいいわ。私もあんな風に誰かに余裕持って接しないと。特にコネちゃん辺りに。
佐伯君に回した仕事を持っていた当の本人はデスクで携帯を弄りながら取り巻きと雑談しているし、その光景が最近では日常化されてきていて、どうにも自分は余裕を持てる環境にいるわけでは無い事を改めて悟る。
無理だ。私には佐伯君の様な対応は出来ない。せめて上司の大和さんが帰ってきてくれれば…
なんて事をうだうだと考えながらも私の手は休む事を知らず、ただひたすらにキーボードを叩いていた。
これはこの仕事を始めてから得た一種の能力だった。
私の直属の上司、大和さんは凄い。
つい最近まで私を含めたこのカオスな仕事現場を管理していたからだ。
協調性のカケラもない先輩方を纏め上げ、それから取り巻き率いるコネちゃんずの面倒も見ていた。
そして多忙に多忙を重ねた仕事達を毎日こなして。
そうしているうちに、元々ヘビースモーカーだったのにだんだんと煙草を吸っている姿さえ見る事も無くなっていた。
煙草は身体に悪いけれど、多忙故にロクな休憩すら取れていない彼がいつか倒れるのは目に見えていた。
うちの会社は小さな弱小企業だったから、急速な規模の展開に人員が追いついていなく、その仕事は更に溜まっていく一方で。
大和さんの負担を減らしてあげたいとは思うのだけど、私も自分の仕事が山積みの状態では手を出そうにも、まず目の前の山を片付けねばならなくて。
仕事も気持ちもいっぱいいっぱいだった。
私の精神的にも頼りになっていたその大和さんが実際に倒れて…実際に抜けられるとその穴を埋めるのには至難の技だった。
上の人は大和さんの事を、結局の所管理しきれていなかった。だから入院なんてことになるんだ。なんてでっかい頭を更に堅くさせてぶーぶー言っていたけど、ならばあなた方がそれをすれば良いのにと私は思う。
自分が倒れた大和さんの穴埋めに入ったことによって環境のカオスがより分かった。そして改めて大和さんを尊敬する。
私もその背中を見習わなくては…なんて思ったりして。
「あのー田中さん、ちょっといいですか?」
「ん、なに?」
ふいに影を落としたのは先ほども声を掛けてきた佐々木さんだった。
その手には何かの書類とメモ用紙、それからボールペンが握られている。
「分からない所があって、教えて欲しいです」
「どこ?」
「えっと、ここなんですけど…」
「あー佐々木、俺が教えるから。田中はそれやってろよ。どこ?」
「…え、」
「え?」
割り込んできたのは佐伯君だった。
デスクからこちらに声だけを投げた佐伯君の視線は佐々木さんに向いていた。
いきなりで少し驚いて、佐々木さんと佐伯君の顔に視線を行き来される私。
佐伯君の方を振り返っていた佐々木さんは数秒固まった後にこちらを見直して、なんだかよく分からない顔をされた。
恨みがましいような、睨まれているように感じるんだけども、どう捉えていいのか分からない。
「えっと…」
「佐々木、教えるからこっち」
「…はい」
チッ
一瞬、私以外には聞き取れないようなとても小さな音の舌打ちが聞こえた。
私にか?何故。
あれか。私、コネちゃんら連中に嫌われてるのか。そうだとしても支障は無いので別に良いんだけどさ。
ならこれも嫌がらせの一環という事だったのかな?私の仕事を邪魔する的な…
「…はあ」
いつもの事。いつもの事だ。
慣れれば大丈夫。私にはそんな事気にしてる暇なんて無いのだから。
佐伯君からもらったコーヒーのプルタブを開けて、色んな感情と共に更なる苦味を喉に流し込んだ。
さっさと仕事終わらせて帰らなきゃ。今日は禁酒して…それから、ゆっくり眠りたい。
…あ、そういえば有島から明日待ってるって連絡が来てたんだったか。
明日の事は明日考えれば良いかー…って、ずっと考えるのを先延ばしにしてるだけだけど。
まあ、いっか。
そんな事を考えて、手にしていた書類に再び視線を落とした。




