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薄暗く、まだぼやけた視界で天井の一点を見つめていた。
「…うぇ…」
徐々に頭が覚醒し始めると次第に、ズキズキと痛む頭と、腹の中が掻き回されているかのような気持ち悪さを感じる。そしてそれは酷い嗚咽に変わっていく。
それによって無理矢理働き始める身体を引きずり起こして、足をベッドから降ろした。
弾んだスプリングに、更に加速する吐き気。
目が慣れて焦点が合い始めた景色に疑問符を飛ばしながら、壁伝いになんとかおぼつかない足を踏み出して歩を進める。
ふいに手に触れた感触に、それをパチリと押せば視界があっと明るくなった。
周りを見回す余裕も無く、見つけたそれらしき扉に駆け込む。
「…っは、」
ここはどこだ。
今は何時だ。
なんだこの格好は。
電気を点けてすぐに気付いたものの、途轍もない頭痛と吐き気に襲われていたのでそれどころでは無かった。
胃液しか出ない所まで吐くと幾ばくかマシになったようで、相変わらず便座に手を付きながら回らない頭で考える。
上から煌々と照らされている私の身体は、パンツ以外の何も身に纏っていなかった。
ブラさえ付けず、私はこんな裸体を晒してどこにいるのか。
間違いないのは、私が馬鹿で阿保でどうしようもない事をしてしまったという事。
痛む頭を押さえ、覚えている事を思い出す。
私は有島といつものように呑んでいた。そして同じくいつものようにラーメンを食べた。
更に同じくいつものように三件目の居酒屋に行ったのだ。
そこは確か美味い焼酎が置いてある所で、有島が呑み比べを吹っかけて来たのを覚えてる。
でもそれもいつもの事で、しかもお互いザルなもんだからキリがなくて、ある程度呑んでやめた。
外をふわふわと歩きながら、「カラオケになんちゃらかんちゃら」「俺の美声がなんちゃらかんちゃら」なんて会話をしたのも曖昧に思い出した。
けれどその後の記憶が無い。
最後の会話的にカラオケに行ったのだろうか。それすらも覚えていない。
今から考えると、私は普段カラオケなんて滅多に行かないので、あの時は自分からカラオケなんて言葉か出るくらいには相当に酔っていたんだと思う。
普段はそこまで酔わないのに、どこかでタガが外れたのかもしれない。
ああそうだ。煙草も吸っていたし、日本酒焼酎と来て更にウイスキーやらテキーラなんかも呑んだんだ。
そりゃ回るはずだわ。ははは。いやはははじゃなくて。
とりあえず現状を今一度整理してみる。
知らない場所。二日酔い。パンイチ。最後の記憶は有島とスキップしている妙にハイテンションの私。
それらが指し示す事は一つしかないだろう。
受け止められない現実に処理が追い付かず、更に頭が痛みを増す。まさに頭痛が痛いな状態だ。
そして頭を抱えてハッと気付く。
もしかしてあの先程出て来たベッドに有島もいるのだろうか。
それだけは。それだけはやめてほしい。
その最悪な状態だけは逃れていてほしいと酔っ払いの私に願いつつ、神に祈る。
のろのろとふらつく足に鞭を打って立ち上がり、ベッドに戻る。
先程は余裕が無くて見れなかったけど、一室のど真ん中にデカいベッドが置かれた他、向かいにテレビや冷蔵庫などがあった。
そしてそのデカいベッドの布団は微かに上下しており、こんもりと埋もれた何かがいるのが分かった。
有島じゃありませんように。お願いだからそれだけはありませんように。
そう願いながら恐る恐るその布団を少しだけ剥がす。
そしてそこから覗いた顔を脳が認識すると同時に、鈍器で頭を殴られたような錯覚を起こした。
そこにいたのは見慣れた整った顔で、それは私が一番避けたい状況に陥ってしまったことを知らせてくれた。
「う、そ、でしょ…」
思わず漏れた自分の声に口を押さえる。
私の冷えていく背筋とは正反対に、気持ち良さそうな、柔らかな寝顔を見せている。
三六〇度――実際にはそこまで見ていないが――どこからどう見ても、それは有島だった。
もしこれが別の人間であったなら、それはそれで色々と不味い状況であり、酔っ払った自分に何があったのかを問い質したくなる。
まあそれが有島になった所で別の疑問が溢れてくるので問い質したい事に変わりはないが。
私がもし有島の彼女であったなら、隣で目覚め、今は至福の時間を過ごしていたのかもしれない。
だが私は彼女でもなければそういう関係にすらなり得ないとしていた間柄だったのだ。
つまりはこういう事だ。アーメン。安らかに眠れ私よ。
しばしの沈黙。
冷静さを取り戻した私が考えたのは、有島が起きる前にこの場を去ろう、という事だった。
きっと有島はこういう場所にもしょっちゅう来ているのだろうから、私が先に出れば誰と来たかなんて疑問に一夜限りの人だとでも思って気にもしないだろう。
あわよくば、何事も無かったかのように知らないフリをしよう。
そうと決まれば、まずは服を着よう。
ベッドの足元に私のブラやシャツが散らばっていて、それをかき集めながら少し生々しいな、なんて思った。
仕事帰りだったのでスーツを着ていたはず、と辺りを見回すと、ご丁寧にジャケットとスカートだけはハンガーに掛かっていた。
何故、という疑問を持ちながらそれらを着ていると、ゴミ箱に破れたストッキングを見つけて舌打ち。
仕方がないので生足で帰るか。そんな晒せるものでもないけれど、今日は非常事態なので潔く諦める。
それからソファに置かれたバッグを見つけて中身を確認。とくに無くなった物も無くて安心した。
身なりを整えがてら、軽くうがいと顔を洗った所で唸り声が聞こえた。
「んん…」
うるさかっただろうか。
起こさないように静かに、かつ迅速に荷物を纏めて玄関まで出ると、先に精算する仕組みだったようで扉が開かない。
舌打ちを一つして、背に腹は変えられないので、財布を漁ってなけなしの中身を精算機に差し込んだ。
後ろでもぞもぞと布団の擦れる音が聞こえる。
精算している間にも今に起きてくるんじゃないかと焦って、狂った手元から小銭がばらばらと撒き散らかされた。
やばい。今すぐ出て行かなきゃ、拾ってる暇なんてないのに。
急がないと。
早く。
早く。
あいつが起きる前に早く!
「…田中ぁ…どこいくの」
その声に凍りつく。
しゃがんで小銭を拾っていた私の後ろから聞こえたその妙に柔らかな声に、まるでイタズラがバレた子供のようにビクッと肩が揺れた。
「…聞いてんのかよ」
気配と共に近付く声が私の真後ろまで来た。
振り向けないその空気に、ごくりと唾を飲み込んだ音が周りに響いた気がした。
耳元で囁くように喋るから、息がかかってこそばゆい。余計にビクついてしまう。
「…か、帰る」
「はあ?なんで?」
「えっ…と…」
なんで?なんでって何?
もう、小銭さえ落とさなきゃ何事も無く帰れたのに。
ていうかなんか有島怒ってない?空気冷たいし怖いんですけど。
後ろを振り返れないから余計に圧が凄いんですけど。
何に対して怒ってるんですか。帰っちゃダメなんですか。
どうやってこの状況を打破したらいいのだろう。
もしや有島も記憶が無くて状況を説明しろとかそういう――
――バン!
いきなり耳元でした大きな音。
瞬間、ぐるりと変わった視界。
そして唇に触れる柔らかな感触に、見開いた目に映ったのは目を瞑った有島の長い睫毛だった。
目の前の出来事が理解出来なくてフリーズした私。
まだ私は酔っ払っているのだろうか。
二日酔いで頭痛が酷いせいなのか、頭が全く働いてくれない。
何がどうなってる?何が起こった?
そっと唇を離した有島と目が合う。
ぽかんと口を開けて固まっている私は相当な間抜け面をしているのだろう。
場違いにも後ろの精算機からおつりをお受け取りください、なんて無機質な音が流れていた。
「……」
「…田中?」
「……」
「おーい」
「む、」
「む?」
「む、無理!無理無理無理無理!!」
「なんだよ無理って…おい田中!」
一周回って思考がぶっ飛んだ私は、側に転がっていたバッグを拾って一目散にその場を逃げ出した。
まだ感触の残る唇を押さえて。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
ききき、きっ…せ、接吻をしてしまった。
いや違う。これは蚊に刺されたようなものだ。そうだ。
断じて違う。私は接吻なんてしていない。触れたのは虫だ。
そう無理矢理にでも自分に言い聞かせないと、どうにかなってしまいそうだった。
建物から飛び出して後ろを振り返ると、「休憩三時間四千円」なんて看板が目に入って、それから薄暗さき相対するようにキラキラとしたネオンの空間に、強烈な生々しさといやらしさを感じてしまった。
あの場から逃げ出したはいいけど、道が分からない。ここはどこだろう。
携帯で地図を見ようと電源をいれた携帯の液晶には、リアルタイムで次々と送られるメールといくつかの不在着信。
そのどれもが有島と表されていて、それを見た瞬間立った鳥肌を押さえながら、携帯の電源を落としてバッグに突っ込んだ。
仕方がないのでなんとなく人の道に沿って歩くと、その内出て来たのは会社の最寄りの駅だった。
どうやら呑み屋からそう離れていない区画のホテルにいたようだ。
駅に散らばる少なくはない人混みを見て、今は昼時だろうかと腕に視線を落とすと、そこにはいつもしていた腕時計がされていなかった。
やってしまった。
きっとあのホテルのどこかに忘れてしまったんだ。
なら取りに戻るか?いいえ。では諦めるか?いいえ。あれは唯一自己投資をしたお気に入りだったのに。
有島が出て行った後にホテルに電話して聞いてみよう。数時間空けばきっと有島はホテルを出ているだろうから。
もう、踏んだり蹴ったりだ。
定期の入った携帯を改札にかざしてホームに入る。
帰途につくまで三駅。それ程遠くないその場所に住んでいるのは、会社まで時間が掛からないからという単純明快な理由だった。
朝の寝覚めだって良いし二度寝もしない。だから今まで遅刻なんてした事もない。けれど職場に近い住居というのはほとんどの人間が望む事だろう。
住んでもう数年経ったそこは、築三十年の比較的綺麗なアパートだった。
そこそこ空いている電車の中、端っこに空の席を見つけて腰を下ろす。
たくさん席があるのに、どうしてか毎回端を選んでしまうものだ。
電車に揺られ、背凭れに体重を預ければ、それまでの事が有島の表情まで鮮明に浮かんでくる。
それを振り払うかのように外に目を向けると、見慣れた景色に真新しい建造物や看板を見つけては目で追ってみたりする。
どうやって意識をそれから逸らそうにも、頭のど真ん中を占めて主張してくるので、それらの行為は無駄に等しかった。




