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第一章 先輩と後輩が出会いました

連載は初めてになります。最後までお付き合いいただけるかどうか心配です。よろしくお願いします。

「部屋が十六あってさ」

「それは広いなあ・・・あっ、そうか! 先輩は田舎住まいなんですね?」

「違う違う! 東京だよ東京、東京の世田谷」

「え? 都内? しかも天下の世田谷ですって?」

「うん、そうなんだよね」 

「うわあー、世田谷でその部屋数、そりゃすごいや、いわゆる豪邸っていうやつじゃないですか」

「まあね。んで、君んところは?」

「うちはたったの五部屋です。先輩のところに比べたらお恥ずかしいかぎりで・・・」

「いやいや、そんなことはないと思うよ。独り者の家にしてはかなり広い部類に入るんじゃないのかなあ。君もなかなかのやり手だよ」

「へへへ、実をいうと、台所、風呂、それとトイレもちゃっかりと数に入れてのお話なんですけどね」

「ぷっ・・・なんだよ、おい。そりゃ反則だろう」

「すみません、つい見栄を張ってしまいまして。本当は二部屋のアパート住まいなんです、へへへ」

 頭をかきかき、舌をだす後輩。

「まあいいさ、まるっきりの嘘話というわけではないんだから」

「許してもらえます?」

「もちろん。おかげでおもしろい数え方を教えてもらえたんだしな」

「ああよかった」

「君の数え方を借りると、うちなんかは部屋数が二十二に増えてしまうなあ。まさに水増しだ、ははは」

「先輩先輩、足し算大丈夫ですか? 三つ足したら十九でしょ」

 先輩はかぶりを振り、

「いいんだ、いいんだ。うちにはキッチン、バス、トイレが二つずつあるんだから」

「へえーっ、そうなんですかー、これは失礼しました。そういった水回りの類いは、一軒に一組しかついていないものだと、今の今まで思い込んでいました・・・」

「うちの場合、ひとつだけだと不便極まりないんだよね」

「そうでしょうね、なにしろ広いですからねえー」

「ま、そういうことだな」

 先輩は満足げに笑みを浮かべると、口元にワイングラスを運んだ。

「うん、うまい」

 後輩も先輩につられてグラスへ手を伸ばす。すぼめた唇をゆっくりと寄せていき、グラスの端にそっとつけるや、すぐにテーブルへと戻した。その一連の様子を、見るとはなしに見ていた先輩が、

「おいおい、なんてまー、しみったれた飲み方をしているんだい」

「え?」

「今のは酒を飲むというよりも、舐めているようにしか見えなかったぞ」

 先輩が笑いながらそう言う。

「だってこのワインは、かなり上等な代物なんですよね?」

 後輩がボトルを指しながら先輩に確認する。

「うん、そうだね。この店に置かれているワインの中では一番高価なもののはずだなあ」

「でしたら、少しずつ小分けにして口にするべきですよ。そのほうが何度も味わえますからね。高級品ですよ、ぐびぐびと飲みこんでしまうなんて、そんなのもったいないです」

「みみっちいことを言うなよ」

「言いたくて言ったわけではありません。先輩に言わされたんです」

 先ほどと同じように、ワインをちびちびとやって見せる後輩。

「あーあ、見ているこっちの方がイライラしてくるぞ」

「そう言われても困りますよ。高価な代物を口にするとなれば、僕はどうしてもこうなってしまうんですからね・・・」

「値段のことは気にしないでさ、グッと飲み干しなさいって」

「無理ですよ。これはとっても値の張る超高級ワインなんだと、僕の頭の中にはっきりと焼付いてしまいましたからねえ」

「値段が高かろうが安かろうが、ワインはワイン、単なる飲み物にすぎないんだからさ。こうやってのどに流し込んでしまえばいいんだって」

 ゴクリとやってみせる先輩。

「あー、一口でそんなにたくさん飲んじゃって。せっかくの高級ワインだというのに、なんてもったいない飲み方をするんですか」

「おいおい、テーブルにこぼしたわけじゃあないんだぜ、ちゃんとお腹に入れたんだ。もったいないという言い方は、おかしいんじゃないのかい?」

「そうはいいますけどね、先輩が今飲みこんだワイン、あれは最低十回は味わえる量でしたよ」

「おいおい、十回もかよ」

「ええ、僕ならそれくらいはいけたはずです」

「ふう」

 先輩が、ため息をひとつついてからボトルを手にする。そしてゆっくりと語り始めた。

「あのさあ、このワインが店で最後の一本だというのであれば、そういうしみったれた飲み方をする君の気持ち、俺にも解りそうな気はするよ。ところがあいにくと言っちゃあなんだけど、この店の倉庫の中にはこれと同じワインがおそらくは何ケースも保管されているはずなんだよ。俺達ががぶがぶと飲んで、このボトルを空にしてしまったところで、注文すればすぐに次を出してくる用意が店にはできているんだよ」

「先輩の言っていることは、僕も理解できますよ。頭では理解をしているはずなんですが、身体の方がねえ。元々貧乏性にできているせいなのでしょうか、その理屈を受け入れることを拒絶してしまっているようです」

「融通の利かない身体を持っているなあ」

「そうなんですよ、すみません」

「俺と一緒にいる時くらいはさ、貧乏のことは忘れて欲しいものだなあ。いくら飲んでもかまわないんだからさあ」

「先輩の飲み方が僕と違っていたとしてもですよ、僕はそれに文句をつけたりはしません。先輩には先輩の飲み方があるわけですからね。個人の自由は尊重しようというわけです。ですから先輩、僕にも自由に飲ませてください。僕には僕の飲み方がありまして、これは僕が持って生まれた性分なものですから」

「君は身体だけではなくて、性格も頑固なようだねえ」

「芯が通っていると言ってください」

「はははのはー」

 先輩がかぶりを振りながら、

「それはずいぶんと聞こえが良すぎるんじゃあないのかなあ」

「そうでしょうか」

「他人が口で言ってもなかなかそれを聞き入れてくれない人間、そういう人のことを世間では何と呼ぶんだっけ?」

「信念人?」

「ん? なんだそれ、辞書にある言葉かい?」

「すみません、今創りました」

「自分を良い方向に持っていこうとしたな」

「お見通しですね、へへへ」

「正解は、分からず屋さ」

 先輩がしゃべりながら右手をあげた。待機していた店員がすぐにテーブルへとやって来る。

「はい、なんでげしょう?」

「ワインの特上をもう一本持ってきてもらえるかな」

「かしこまったでげす」

 小走りで下がっていく店員の背中を後輩が目で追いかける。

「先輩、高級ワインのお代わり、やっぱり頼んじゃったんですね」

「ああ。ちょっと早いけど、まあいいだろう」

「お財布は大丈夫なんですか?」

 後輩が身を乗り出して心配そうに尋ねる。

「ああ、値段のことは解らないが、どうせたかがしれているさ」

 葉巻をくゆらせながら答える先輩。

「へでもないことだよ」

 安心した様子で体を椅子へと戻す後輩。

「このボトルと同じものが、もうすぐ運ばれて来るのかあ」

 後輩がにやけ面でワインの瓶をさすりながらつぶやいた。

「ああ」

 事務的に軽く頷く先輩。

「もしもですよ」

 後輩がまた身を乗り出した。顔が近い。

「なんだよ、いきなり」

「もしもこの瓶を飲み干してしまってですよ」

「ああ」

「これからくる一本も空っぽにしてしまったとしたら?」

「その時には、また一本出してもらえば済むことだろう」

「ふうーん・・・」

「エンドレスなんだよ。俺たちが満足するまで追加注文をすればいいんだ」

「そっかー」

「まだまだ、夜は長いんだからさ」

「それを聞いて、なんかこう、安心感が湧いてきましたよ」

「ふうん」

「よし! せっかくこんな機会を与えてもらえたんだから、今日は特別だ! 先輩の真似をさせてもらおうっと」

 後輩がワイングラスを口へと持っていく。先ほどまでよりも大きな角度でグラスを傾けた。

 ゴクリ

 グラスの傾斜と比例して口に流れ込んでいくワインの量も格段に多くなっている。

「うーん、おいしいなあ」

 右腕で口を拭いながら満足げな様子で言う。

「大分ましな飲み方に変わってきたじゃないか」

「そうですか?」

「やればできるっていうことだな」

「正直な感想を言わせてもらいますとね、これくらいの量を口に含んでみないと、ワインの味なんか解りはしませんね」

「そうだろ」

「今日はぐびぐびといきますよ、先輩!」

「ようやく貧乏くささの呪縛から解き放たれたようだなあ」

「いやいや、まだまだですよ。今の一口だって、正直ビビリまくりながら飲み込んでいますからね」

「ははは、まあ、じきに慣れてくるさ」

「そうでしょうか」

「場数を踏めば、こんなことはなんでもなくなるよ」

「もう一度いってみますよ、こんな感じですかね」

 グイッと飲み干して見せる。

「そうそう、そうこなくっちゃ」

「ふうー、僕が今まで飲んできた中では、これが一番おいしいワインですよ」

 後輩が今一度ボトルに手を伸ばす。自分の方へと引き寄せて、ラベルに目をやった。

「うーん、いったいなんて書いてあるんだろう。僕には読めないや」

「ワインの銘柄を知りたいのかい? あいにく俺にもわからないなあ」

「先輩にはそんな必要はないでしょうからね。銘柄なんか知らなくても、注文が出来ちゃうんですから。ワインの特上をください、の一言で済ませてしまうんでしょ」

 先輩は頷きながら、

「そうなんだよ。元々銘柄に興味を持って飲んでいるわけではないし、どこの店に行ってもそう伝えれば通ってしまうからねえ」

「一番値段の高いやつっていう言い方の方が、店には通じやすいんじゃないですか、どうなんでしょう」

「そうなのかもしれないね。だけどさ、その言いまわしって、どういうのかな、なんだかいやったらしい感じを相手に与えてしまうような、そんな気がしてこないでもないなあ」

「そうですかあ?」

「あんたの判断基準は、味じゃあなくって値段かよ、そんなんでいいのかねえ・・・なあんて思われそうだなあ」

「なるほど」

 頷く後輩。

「お待たせしましたでげす」

 店員が追加注文のボトルを左手に握り、右肩には大ぶりなガラス製の器をのせて席へと戻ってきた。テーブルの中央に静かに乗せる。

「これっておいくらするんでしょうかね?」

 後輩が器を指さしながら店員に尋ねた。

「こちらは、二千円でげすね」

「ふーん」

 直径が五十センチほどはあろうかという器の真ん中には、枝豆がこぢんまりと盛りつけられている。

「ありがとう」

 先輩がそう言ってチップを渡すと、店員は後ずさりをしながら厨房へと下がっていった。後輩がグッと身を乗り出す。

「これが特上枝豆というやつなんですか。ちょっといただいてみましょうかね」

 後輩はそう言いながら指先で一莢つまみあげた。すぐに口へとは持っていかず、じっと見つめている。

「どうかしたのか?」

 先輩が小声で尋ねる。

「一個百円もするっていうんだものなあ・・・」

 後輩が独り言のようにそうつぶやいた。

「え?」

「僕、数えてみたんですよ。皿に乗っかっている枝豆は全部で二十莢でした。で、一皿の値段が二千円だと先ほどの店員が言っていましたから、一莢当たりはなんと百円になるんです」

「ほう」

「ようく味わいながら食べないと、もったいないですね」

 広げた口にそっと枝豆を持っていき、莢から実を押し出した。

「あっ」

 枝豆は口をはずれてしまい、頬をかすめて後方へと飛んでいった。

「百円があ」

 後ろを振り返りながら素早く席を立った後輩であったが、そばで待機をしていた店員の動きの方が俊敏さに優っていた。枝豆を拾い上げた店員と、後輩の目線がぶつかる。

「それは僕の枝豆ですからね、あなたに差し上げるわけにはいきませんよ」

 店員に熱く訴える後輩。

「この枝豆は、調理場で洗ったうえで改めてお客様の元にお届けしますでげす」

 店員が穏やかな笑顔でそう返す。

「なんだ、そういうことだったんですか。僕はてっきりあなたが横取りするつもりでいたのかと思っちゃいました」

 後輩の表情に安堵の笑みが浮かぶ。

「滅相もないでげす」

「では、くれぐれもよろしくお願いします」

「かしこまりましたでげす」

 奥へと引きあげていく店員の背中を見送りながら、後輩が椅子へ腰を戻した。

「君はあの枝豆を食べるつもりでいるのかい?」

 先輩が尋ねる。

「ええ、洗えば大丈夫でしょう。二つに割って先輩と僕とで半分こにしましょうよ」

「お待たせしましたでげす」

 戻ってきた店員が、枝豆一粒を乗せた小皿と、それとは別にもうひと皿をテーブルの上に並べた。

「俺はこっちを貰うことにするよ。枝豆は君に任せるから」

 先輩はそう言いながら、今届いた特上厚揚げに箸を伸ばした。


 ここは地下一階にある店。四人用のテーブルが八卓あり、それぞれの間隔は比較的広くとって並べられている。天井は赤で、壁が緑、床は黄色にと、信号と同じ三色で塗り分けられている。壁の三面に設置された巨大モニターではテレビの映像でも映画でもなく、板前が包丁でキャベツを千切りにしている動画がエンドレステープのように延々と流されており、画面から発する光が、照明器具が設けられていない店内を皓々と照らしている。 

「家の話に戻るけどさ」

 先輩が箸を置いて話しだした。

「ええ、なんでしょう?」

「うちでは、すべての部屋にテレビを置いてあってね」

「えーと、十六部屋でしたっけ」

「ノーノー、ここは君の発案した数え方で構わないよ」

「まさか風呂とトイレにまで?」

 先輩は大きく頷き、

「キッチン、居間、寝室は言うまでもなく、どの部屋にいたとしてもテレビを見ることができるようにしたかったんだ」

「へー、それは徹底していますねえ」

「テレビを見るためにわざわざ部屋を移動するっていうことが、とても億劫なものだからね」

「なるほど」

「ちなみに君のところにはテレビは何台あるのかな?」

「うちは一台だけですけど」

「えっ、たったの一台? それじゃあ困るだろうに」

「いえいえ、一台あれば充分です」

「部屋の移動は苦にならないのかい?」

「移動といったって数秒で済んでしまいますからねえ」

「ああそうか、君のところは狭いんだったね。あっ、これは失敬失敬」

「べつに謝らなくてもいいですよ。僕自身は自分の家の広さは普通だと思って住んでいますからねえ、他の人から狭いと言われたとしても気にはなりません」

「ならよかった」

 ほっとした様子でグラスを口に持っていき、正面の画面へと目をやる。

「あっ、そうそう、ブルーレイのラインナップも充実させたんだよ。あれでいったいどれくらいの数があるんだろう」

「まさか専用の部屋があったりして、ははは」

 先輩は二度頷いて、

「そうなんだよ。なにせ映画、ドラマをひととおり揃えたからねえ」

「本当にあるんですか、それじゃあもう立派なコレクションですね」

「結果的にそうなってしまったという感じだねえ。当初は収集を狙っていたわけではなかったんだけどさ、選択する作業が途中で面倒になっちゃったということと、あとはなんといっても、観たいと思った映画をすぐに観ることができるようにしたいなあなんていう思いが湧いてきちゃったのとでね。もちろんそれだけの数を置いておける空間があればこそできる話なんだけどさ」

「まだ観るかどうかもわからない映画のために、保管部屋を用意できるとは・・・」

「備えあれば憂いなしというからね。そのために一部屋使うくらいのことは、どうっていうことはないさ」

「先輩の空間の使い方は実に贅沢ですねえ。うちなんかの場合、欲しいものができたとしても、すぐには家の中に持ち込むことはできませんよ。なにしろ限られた空間の中で暮らしているものですから。何かを処分して、置く場所を確保することの方が先決なんです」

「ふーん、空き部屋がないと、不便なことになってしまうものなんだなあ」

「先輩のところには使っていない部屋がいくつもあるんでしょうね」

「そうだなあ・・・今はえーと四つかな、いや五つだったかな」

「それって、家一軒分以上の部屋数ですよ」

「そうか、そうなるかあ」

 まんざらでもない様子の先輩。

「先輩の話を聞いていると、なんだかこう、余裕っていうものを感じさせられますねえ」

「もしも君が俺のライフスタイルを気に入ったというのなら、真似してくれても一向にかまわないんだよ。金持ちになりさえすれば誰にでもできてしまうことなんだからさ」

「ははは」

 苦笑いで返すしかない後輩。

「是非にとお勧めしたいね。金持ちライフっていうのはさ、実にいいものだぞー」

「そうおっしゃいますけど、なりたいと思えば誰でもなれるという、そんなに簡単なものでもないでしょう」

「おいおい、はじめから諦めムードでいなさんなって」

「今日までの暮らしの中で、大金というものには僕はまるっきり無縁でしたからねえ。そのせいでしょうか、自分が金持ちになるっていう状況は、イメージすることすらできないようです、ははは」

「一度真剣に考えてみたほうがいいよ。人生で大事なのはお金なんかじゃあない、などという意見もあるけれど、どこで何をするにしてもお金がものを言う世の中なんだからさ」

「うーん」

「お金を積みさえすれば大抵の欲求は満たせてしまうということだよ

「そういうものですかねえ」

「ああ、そんなものさ。たとえば・・・ええと、たとえば」

「たとえば?」

「そうだなあ、そうだ、旅行を例にして説明してみようか」

「お願いします」

「たとえばだよ、君が旅行に行きたいと思った、そんなとき、君だったらどうする?」

「旅行代理店に行って相談しますが」

「そこで君の希望は充分に通してもらえるのかい?」

「すべてが望み通りというわけにはいきませんよね、ある程度自分の希望に近いものになるのであれば、それで良しとしちゃいますね」

「なるほど・・・じゃあ、旅行に行こうと計画している時期が繁忙期に当たっていたらどうだろう?」

「繁忙期は初めから対象外です、避けますよ。宿も切符もなかなか取れないでしょうからね」

「そこを金持ちはどうしているかという話になるんだな」

「なるほど、僕達一般人とは違った行動をとるというわけですね」

 先輩が大きく頷きながら、

「うん、金持ちという人種はわがままに出来ているからねえ、君のように簡単に諦めてしまうようなことは出来なくてねえ。行きたいと思ったらなにがなんでも行きたい。たとえそれが観光シーズンで、宿の予約が取りにくかろうが、切符が売り切れていようが、行くと決めたら金持ちは行くんだ。そうでないと気が済まないし、またそれが実現可能だときている。取れないはずの部屋でも、売り切れたはずの切符でも、お金を積めばどうにかできてしまうものなんだよね、これが」

「強引ですねえ」

「しかも電車ならグリーン車、飛行機ならファーストクラスといった塩梅でね」

「優雅な話だなあ。泊まる部屋はやはりスイートルームなんでしょうね」

「もちのろん!」

「そんな部屋、覗いたことすらないや。きっと居心地がいいんだろうなあ」

「まあね、やっぱり値段だけのことはあるよ」

 先輩が葉巻に火をつける。

「ま、旅行ひとつとってもそんな感じで自分のわがままを通しているかなあ」

「庶民がやっているような、旅行費用を電卓ではじいたり、積み立て貯金をしたり、といった事前の準備は・・・」

「そんな手間暇はかけないなあ。かかった分の費用を支払って、それで終わりさ」

「そこはさっぱりしていますねえ」

「金持ちだもの」

「なんやかやとケチをつけて、払いを渋ったり値切ったりといったことはしないのですか?」

「しないしない」

 被りを振る先輩。

「金持ちは金離れが悪いものだというイメージを僕は持っていましてね。先輩は違うんでしょうか?」

「ああ、僕はどちらかというと、お金を使うタイプの金持ちなんだよ」

「ほー、金持ちはひとくくりではなく、タイプがあると・・・全員が同じというわけではないと・・・」

「そうなんだよね。節約しながら貯金を殖やしていくコツコツ型と、収入自体をドーンと増やしていくガッポリ型の、大きく分けてこのツータイプあるんだな」

「先輩は後者だということですね」

「うん、そうだね。コツコツ型の金持ちとはどっこいスケールが違う、本格派の金持ちなんだと、ここは言わせてもらいたいねえ」

「前者とは一緒くたにして欲しくないと」

「うん、そこは是非とも気をつけてもらいたいところだなあ」

「大変失礼いたしました」

 先輩の葉巻に火を点ける後輩。

「おっと、ちょっと脱線してしまったようだね。話を元に戻そうか」

「そうですね。それじゃあ今度は先輩の日常生活について伺わせてもらってもいいですか?」

「ああ、なんでも訊いてくれ」

「ガッポリ型の人の日常生活はどうなっているんでしょう? 旅行とおんなじで、やっぱり一般庶民のそれとは違っているんですか」

「日常って、例えば?」

 先輩が煙を吐きだしながら聞き返した。

「買い物なんかはいかがなものでしょう。金持ちならではの特徴というのはどんなものかが気になります。たとえば品定めの最中に、懐具合を気にかけたりすることはあるのでしょうか?」

「うーん、まったくないなあ」

「それがたとえ高級店だったとしても、変わりはありませんか?」

「うん、そうだね、変わらないなあ」

「入口で躊躇するというか、足がすくんでしまった、というような経験は?」

「うーん・・・ないなあ。そもそもどんな店に入るにしても、秘書が先回りをしてドアを開けるからねえ。躊躇するどころか、それこそ立ち止まるということすらしないなあ」

「僕には入りにくいと感じている店が山ほどありましてねえ。先輩とは大違いだ」

「入りにくいって、どういった類いの店がそうなの?」

「たとえばブティックですかね・・・先輩は気楽に入っていけちゃうんでしょうけど」

「うん、そうだね」

「店に入ったとたん、店員さんたちに囲まれてしまいそうだし」

「身ぐるみはがされるわけじゃあないだろう」

「値段が高そうだし」

「そうなのかなあ」

「ああいった店の敷居が、僕にはなんだかとっても高いものに感じられてしまうわけでして。ウインドウショッピングは出来たとしても、店の中にまで入ってはいけない」

「ちょっとタンマ」

「はあ」

「衣類といえば生活必需品だよねえ、それを買わないで済ますというわけにはいかないんじゃないのかい?」

「それはそうですね」

「そうですって、じゃあ君はいつもどうやって服を手に入れているのかな、ブティックで買っているんじゃないのかい?」

「スーパーの洋服売り場を利用しているんです。衣料品といえばそこでしか買ったことがありません」

「あ、そういうことか。だったらいいじゃないの。買う場所があるというのなら、それで一向に構わないんじゃないのかなあ」

「スーパーですと、僕の手の届く値段設定になっていますしね」

 頷きながら答える後輩。

「ふーん。ちなみにさあ、君の着ているそのジャケットで、いくらぐらいするのかねえ?」

「まあまあ、僕のことはさておいてですね」

 両手を広げて軽くいなそうとする後輩。

「なんだいなんだい、俺のことはあれこれ詮索しておいて、こっちの質問には答えてくれないのかよ」

「先輩だけには秘密にしておきたいんです、笑われてしまいそうですからね」

「なんかずるくないかい」

「そんなことありません。さあ、今は先輩が主役なんですから、先輩の話に戻りましょう。ブティックについてでしたが」

 先輩が渋々といった様子で受け入れる。

「どこのどんなブティックであろうと、気が向けば入っちゃうよ。値札を見ないでの大人買い、そういったことをちょくちょくやっているねえ」

「ちょっとタンマ!」

「なによ?」

「先輩、今、値札は見ないとおっしゃいましたか?」

「うん、そうだけど」

「いくらなんでも、まったく見ないというわけではありませんよね・・・ちらっと見てはいるんでしょ?」

「いやいや、見ない見ない」

 被りを振って否定する先輩。

「またまたあ」

 後輩が疑ってかかる。

「本当なんだってば、信じてくれよ。だって、自分から意識的に見ないようにしているんだもの。値段の高い安いぐらいのことでさ、欲しいと思った服を迷ってみたり諦めてしまったりなんか、したくはないじゃないか」

「ふーん。そこらへんのところも、僕とは違っているんだなあ。僕の買い物っていうのはですね、まずは値札を見るところから入っていきますからね。服本体に目をやるのはそのあとのことになるんですよ」

「俺とは順番が逆なんだね」

「あーあ、先輩の優雅な話を聞いていると、なんだかため息が出てくるなあ」

 後輩がそう言いながら自分の煙草に火をつける。大きく吸いこんで、ゆっくりと左の鼻の孔から煙をはきだした。

「次、お伺いしましょうかね。寿司屋っていうのはどうですか?」

「どうですかって、出先で腹が空いたときによく利用するけれど、特別な何かを感じたことはないなあ」

「ちょっとちょっと、先輩。あのお寿司屋さんですよ! 泣く子も黙るお寿司屋さん」

「飯屋のうちのひとつだろ」

「天下のお寿司屋さんですってば! 特別な場所でしょ、入りにくいでしょー。僕は酔った勢いがなければ暖簾をくぐることすら出来なかったなあー」

「そんな状態じゃあ、味が解らないだろうに」

「大丈夫なんです。なにしろ僕の舌というのは、本物の味というものを元々知らないんですからね」

「ははは」

「あっと、それから、宝石店なんかも入りにくさにかけてはポイントがかなり高いですよ。先輩は簡単にスッと入れたりしちゃうんでしょうけど」

「まあ、そうだね」

「たとえ酔っていたとしても、宝石屋に入っていくことは僕には出来ないなあ」

「酔っぱらいは、はなから入れてはもらえなさそうだけどね」

 葉巻を灰皿に置きながら先輩が言う。

「うーん、どうやら、値段の高い場所であればあるほど入りにくくなっていく傾向が、僕にはあるようですねえ。そうだ、カーショップなんかはどうです? 車も安い買い物だとは言えませんよね」

「車屋にはよく立ち寄るよ、週に一回くらいは行っているかなあ。ちなみに、うちの駐車場には、現在のところ四十台ほどの車が納まっているんだ」

「そんなにたくさん」

「うん。いろいろな車に乗ってみたいし、気に入った車というものは、所有しているだけでも気分がいいものだからねえ」

「お好きなんですねー」

「ああ、車についてはかなり好きな部類に入ってくると思うよ。たとえばさ、頻繁に車屋に足を運んでいるとね、時には良い出物に会ったりなんかすることがあるわけだよ。そうするとたまらなく欲しくなっちゃう。俺は我慢というものをしないから、すぐに買ってしまうんだよ。家にある車の半分くらいは、飛び込みで手に入れたものなんじゃないのかなあ」

「うわあーすごい話だなあ。車の衝動買いをする人が、世の中にはいるんだ・・・」

「この車好きに関しては、どうもブレーキが利いてくれないようでね、台数はこれからまだまだ増えていくと思うよ」

「随分と大規模なコレクションになりそうですね」

「そうなんだよね」

「保管場所は大丈夫なんですか?」

「そうそう、問題はそこなんだよね。このまま車が増え続けていけば、将来的にはそれなりの収容スペースが必要になってくるよなあ」「そうでしょうね」

「今のうちに、うちの隣にある駐車場を買いとっておこうかなあ」

「ずいぶんと簡単に言ってくれますねえ、まるでミニカーの話をしているようだ」

「だって、簡単にできてしまうんだもの」

「それでしたらこの際だから、ひとつ徹底的にやってみちゃどうですか? 機会を見つけて少しずつ集めるなどと小さい事は言わないで、いっそのこと世界中からありとあらゆる車を掻き集めてしまうとか。旧式から新車まで、ここにない車はないという規模の自動車博物館なんていうのはどうでしょう」

「おおっ、その話、かなり面白そうだなあ」

「あははっ、その気になりましたか、先輩」

「壮大な話で大変そうだけど、ぜひともチャレンジしてみたいね」

「成功を祈っていますよ」

「ありがとう。そうだ、せっかくだから、言い出しっぺである君の車を展示品第一号にするとしよう。君にとっても良い記念になるだろうしね。ちなみに車はいったい何に乗っているんだい?」

「僕ですか? 僕は車を持っていないんです」

「えっ、車がない?」

「そうなんです。ついでに言うと、免許もありません」

「免許がないっていうのも、なんかすごいね・・・」

「ははは。今時珍しいんでしょうけれど、特段それで困ったという経験もなかったものですから、持たないままで今に至ってしまったという次第でして」

「困らないって言うけど、移動するのには不便だと思うけどなあ」

「いや、そうでもないんですよ。事実、車なしで今まで過ごしてきたわけですからね」

「無きゃ無いで何とかなるということか・・・そんなもんかねえ」

「ええ。公共交通機関を利用すれば、移動はそれで事足りちゃいますから」

「電車とバスかい?」

「ええ」

「でもさあ、もしも夜中に出かけたいなーって思った時にはどうするのよ、遅い時間じゃ電車は動いていないだろう」

「夜の夜中に外出ですか? いやー、そんな気分になったことは今までなかったなあ」

「女の子からどこかに連れて行ってほしいとせがまれたとしたら、どうするんだよ」

「それもなかったなあ」

「今まではなかったかもしれないけれど、今後そういう場面が訪れないとも限らないだろう。そのときにはいったいどうするつもりなのよ」

「うーん、歩いて行ける場所に行くことを提案するか、その日は諦めてもらって、後日改めて電車で出かける案を持ちかけるとか、まあ、そんなところでしょうかねえ」

「行きたいところにはすぐにでも行きたいものじゃないか! そんな簡単に諦めるなよ」

「諦めるというよりも、足るを知るというところでしょうか。そう、こっちの言葉の方がしっくりきますかね。だって行けないものはしょうがないですからねえ」

「そんな台詞、俺たち金持ちの辞書には載っていないぞ」

「そうですか? 僕にとっては、なにかと救いになってくれる、とても有難い言葉なんですけどねえ」

「一般人が自分自身を説得させるためには、たしかに便利に使える言葉なんだろう。だけど、俺には貧乏人の負け惜しみとしか聞こえてこないよ」

「それ、かなりきつい台詞ですねえ」

「欲しいものは必ず手に入れる生活、金持ちたちはそういった生活をいとも簡単にやってのけてきているからねえ」

「はあ」

「君の言う、足るを知るっていう言葉はさ、諦めるということとやっぱり同義語だよ。そして諦めることは我慢を強いられるという、とても居心地の悪い気分へと繋がっていく。金持ちはそれを嫌うんだよなあ」

「我慢をさせられているなどという感じを持ったことは、今まで一度もなかったような気がするんですけど・・・欲しいものに手が届かない、そんな場面は日常当たり前にありましたからねえ」

「おそらくは深層心理かそのまた奥の方あたりで、我慢をしているんだろうね。君はそういった自覚のないままに今日まで来てしまったんだよ」

「そんなことってあるんでしょうか?」

「その証拠が君自身だろうに。実際にいるものなんだねえ、可哀そうなことだよ。まあ、と・に・か・く・だ、お金を持っていさえすれば、我慢なんぞという欲求不満の素を背負い込む必要がなくなる、ま、そういうことさ」

「背負っているという気持ちも、今の今までこれっぽっちも持っていなかったんですけどねえ・・・」

「きっと感覚が麻痺してしまっているんだろう。長年の貧乏生活からくる症状の一つかもしれないな」

「お言葉ですが、僕は自分が貧乏だなどとは思っていないんですけど・・・」

「まあ黙って聞きなさいって」

「はあ」

「不満だらけで暮らしている貧乏人とは正反対で、金持ちはいつも満足感に浸っていられてねえ」

「はあ、そうですか」

「・・・」

「はあ」

「まだしゃべってないんだけど」

「あ、すみません」

「・・・あのさあ、さっきからずっと引っかかっていたんだけど、なんか、君って反応が薄くないかい?」

「そう映りますか?」

「俺の話を聞いていてさあ、あーうらやましいなーとかって思ったりはしないのかい?」

「思いますよ。お金、それだけあったらいいだろうなあって」

「本当かい?」

「ええ」 

「君を見ているとさあ、そういった気持ちが顔に現れてきていないんだよね」

「顔にねえ・・・ よだれをたらしてみせてみろとでもおっしゃるんですか?」

「そうそう、そうなんだよ。普通、俺の話を聞いた人たちは、みんなして今にもよだれがたれそうな表情になっていくんだけどなあ」

「僕はそういった顔つきになっていませんかねえ?」

「ああ、ちっとも」

「なんだか期待はずれにさせてしまったようですね」

「・・・」

「すみません」

「・・・実に悪趣味だとは思うんだけどさあ」

「はあ」

「自慢話をして他人を羨ましがらせることで自分が優越感に浸る、それも俺の楽しみのひとつなんだよね」


「今日は疲れただろ、俺の車で送っていくよ」

「いやいや、自力で帰れますから結構です」

「いいから乗っていけって。運転を秘書に任せておけば、座って話をしているうちに君の家までたどり着けちゃうんだからさ」

 言いながら後輩の腕をつかむ先輩。

「どうかお構いなく」

 後輩が軽く振り解こうとしたのだが、結構しっかりと握られている。

「おいおい、俺たちはいわば身内みたいなものじゃないか、後輩の君が先輩の俺に対して遠慮なんかするなって」

「さっき出会ったばかりの、即席の先輩後輩ですけどね」

「そりゃまあそうだけどさ・・・」

 後輩の腕から手を離し、うつむいてしまう先輩。

「すみません、今のは僕の失言でした、取り消します」

「いいよ。君が言うように、今日が初対面だというのは本当のことなんだからさ」

「でも、先輩は先輩です」

「そうかい? そう言ってもらえるとうれしいよ、ありがとう・・・」

 気を取り直した様子の先輩が、葉巻に火を点ける。

「しかしさあ、二次会がたったの二人になってしまうとはなあ。まさかのまさかだったよ」

「五百人は来ていたはずですからねえ」

「そうだよなあ、ほんのさっきまでは、俺たちもその大勢の中で騒いでいたんだよなあ」

「今頃同窓会の本隊は、賑やかに二次会をやっているんでしょうねえ」

「そうだろうね・・・俺たち二人は蚊帳の外に追いやられてしまったなあ」 

「しかたがないですよ。先輩、ずっと自分の自慢話ばかりしていましたからねえ、みんなから煙たがられてしまったんでしょう」

「彼らの人生の参考にしてもらえたらいいと思ったんだけどなあ。せっかく成功者の話を聞かせてあげたのに、恩知らずな話だよ」

「そうですよね」

「君は嫌じゃあなかったのかい? 俺の話」

「僕ですか? 僕はとても面白く聞かせてもらいましたよ」

「そういや俺が話している最中、君はずっと笑顔でいたものなあ」

「僕の顔、引きつっていませんでしたかねえ? あれでも笑いをずいぶん押し殺していたんですよ。心の中では本気でゲラゲラ笑っていましたけど」

「そんなに面白かったのかい? 俺の話」

「話の内容ではありません。漫画の中にしか出てきそうもない人物が、現実の世の中にも存在しているんだなあと」

「ん? よくわからないが・・・」

「要するに、先輩の存在自体に感心したっていうことですよ」

「そうかい? お世辞だとしても、ここは素直にありがとうと言わせておいてもらおうかな。落ち込みかけているところを救ってくれる、ありがたい言葉だったよ」

「こちらこそありがとうございました」

「おっとまた話が脱線してしまった、元に戻そうや。長々と俺に付き合ってくれた後輩の君をさあ、先輩の俺が大切にしたいと思う気持ち、これはごく自然なことだと思うんだよね」

「そんな気遣いはなさらなくてもいいんじゃないですか」

「まだ遠慮しているなあ」

「違うんです。遠慮しているわけではないんですよ」

「じゃあなんなのさ」

「実をいうと、私も今日は自家用車で帰るものですから」

「ははは、たしか君は運転免許を持っていないって言っていただろう。無免許で自家用車とはね、ははは」

「自分で運転をしなくても、ちゃんと家まで運んでくれる便利なものがありましてね」

「はいはい、線路を走っているあれだろ」

「ははは」

「あはは」

「ははは、あーおもしろい」

「あはは、そうですかあ?」

「ふー、わかったよ。君がそうしたいというのなら、もうこれ以上の無理強いはやめておこう」

「すみません、せっかくのご好意なのに」

「いいさ。まあなんだ、もう終電も近い時間だろうから、今日のところはここらへんでお開きにしておこうか」

「そうですね」

「じゃあ気をつけてな、お疲れ様」

「どうもお世話になりました。失礼します」

 二人に背中を向けて歩き始めた後輩を、

「あっ、ちょっとタンマ」

 と先輩が引き留めた。

「はい?」

 先輩が胸ポケットからメモ紙を取り出す。

「さっきもらったこの電話番号は、本物なんだろうね」

「もちろんですよ」

「電話するから、また会ってくれよな」

「はい、こちらからもお願いします」

 後輩は二人にお辞儀をして後ろに向き直ると、若干の千鳥足で歩き始めた。先にあるのは駅まで続く公園だ。先輩と秘書が、小さくなっていく後輩の背中を見送り続けている。

「我々が車を停めている駐車場も、あっちの方角なんですよねえ」

 秘書がそうつぶやく。

「別れの挨拶をしたばかりなのに、同じ方面に向かって歩いていくっていうのもなんだかなあ・・・」

「気まずいんですよね」

「しかたがない、少し遠回りをしていくとしようか」

「はい、そうしましょう」

 二人は公園とは反対の方角へと向きを変えて歩き始めた。

「あいつ、電車のことを自家用車、だってさ。見栄っ張りなところがあるのかなあ」

「ははは」

「鉄道会社の御曹司だとでもいうのなら、まんざらほら話にはならないんだろうけれど、彼はそういった境遇じゃあないだろうからなあ」

「ええ、そうでしょうね」

 公園を振り返りながら返事を返す秘書、と、その足が止まった。

「ん、どうした?」

「社長、ちょ、ちょっとあれを見てください」

「ん?」

 秘書が指し示す方へと先輩が目をやる。今しがた後輩が入っていった夜の公園だ。月の白い明かりと街灯の黄色い明かりを頼りに目を凝らすと、後輩の後ろ姿が確認できた。その頭上に浮かんで見えるのは、

「円盤円盤、円盤だ!」

「どっひゃー」

 あたふたとその場でたじろいだ後、二人そろって後ずさりを始めた。傍らに立っている電柱を見つけるや、その狭い陰に入り込んで公園の観察を始めた。円盤はゆっくりと下降し、後輩を上からすっぽりと覆い隠すと、今度は一転上昇へと転じた。後輩の姿が地表からは消えている。円盤はゆっくりと昇っていき、十階建てのビルの高さ程のところで右へと進路を変え、やがて公園脇に建つマンションの向こう側へと消えてしまった。


 二人の間にしばらくの沈黙があった後、先に口を開いたのは秘書の方であった。

「しゃ・・・社長、今の光景をご覧になりましたか?」

「あ・・・ああ」

 返事をした先輩の口が、ずっと開いたままだ。

「私たちの目の前で、いったい何が起こったのでしょう?」

 先輩の顎を右手で押し上げながら秘書が尋ねる。

「俺の目には、宇宙人があいつを誘拐して行ったように映ったが」

「宇宙人らしき生き物は見当たりませんでしたよ」

「円盤の中には誰かしら居るだろう。我々の目には見えない力を使って、あいつを中に引っぱりこんでいったとか・・・」

「それだったら抵抗をなさるんじゃあありませんかね。後輩さんにそんなそぶりは見えませんでしたよ」

「じゃあ、あいつが自分の意志でもって、中に乗り込んでいったというのか?」

「そう受け取った方が自然ではないかというのが私の感想です・・・」

「ということは、さっきあいつの言っていた自家用車というのは、あの円盤のこと・・・」

「でしょうね。だとすると、後輩さんの話していたことはまんざら嘘ではなかったということになります」

「そうかあ。疑ったりして、あいつには悪いことをしてしまったなあ」

「今度会ったときに、お詫びをされるというのはいかがでしょう」

「うーん、本来はそうすべきなんだろうけれど、後輩のあいつに頭を下げるというのはなんだかしゃくだなあ」

「でも・・・」

「でもなんだい?」

「いえ、べつに・・・」

「解っているって。しゃくにはさわるけれども、あいつにはちゃんと謝るよ、それが筋だっていうことだよな」

「罪を認めるその潔さ、感服いたしました。さすがは社長! 社長は経営者の鏡ですよ」

「一社会人として当たり前の決断さ。そうと決またら、さっさと電話で謝ってしまおうか・・・あっ、そうだよ、電話だよ、電話電話電話、世の中には電話という便利なものがあったんじゃないかー、あいつに今すぐ電話をかけよう。そうすれば、いろいろなことについてすぐに片がつけられるじゃあないか」

 先輩は携帯電話とメモを取り出して、急ぎ後輩に電話をかけた。

「もしもし。俺だ、俺」

「ああ、先輩ですか、どうも。さっきはお世話になりました。電話をくださるのがまた随分と早いですねえ」

「そんなことより、観たぞ! 君の自家用車っていうのは、ありゃあ円盤だろ」

「まいったなあ、あれをご覧になってしまったんですか」

「まだ半信半疑ではあるんだけどな。観たような気がしている」

「それは現実にあったことですよ。夢でも幻でもありません」

「だったら話を進めやすい。早速だけど、俺からの頼みを聞いてくれ。俺をあの円盤に乗せて欲しいんだ」

「そりゃあ構いませんけれども、今日は疲れているので、日を改めてにしてもらえませんか?」

「わかった、だったら明日にしよう、明日明日。絶対だぞ、約束だからな。あ、それと、さっきはごめんな」

「はあ? なんのことでしょうか」


読んでくださり、ありがとうございました。興味を持っていただけたようでしたら、続きの話もよろしくお願いします。

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