後編
*
小栗にこれを届けるべきだろうか。と、迷っているうちにかれこれ1時間が過ぎていた。壁に掛かっている時計は五時半を指している。コタツの上には、先ほどの遺書が置かれている。同じ屋根の下に、今にも失踪しようとしている人間がいるという事実がなかなかに現実離れしていて思考が鈍っている。本来迷うべきではないのだろうが、事を大きくせずに収められるのであればそれに越したことではない。
風呂場で会った、睡蓮の間の森本氏、露天から出てきた桔梗の間の客であろう男性。そして、残るは薊の間の客。
そもそも、書いた本人は落としてしまったということに気が付いているのだろうか。もし、そうなのであれば、探しに来たところで返しがてら説得だってできるだろう。
だが一方で、そこまで自分が深入りする必要があるのだろうかという声も上がってくる。確かに、俺は赤の他人なのだ。何も知らないふりで、こんなものが落ちていたと小栗に渡せばそれで済むことなのである。
そして、俺は小栗に届けないという選択肢を選んだ。ことを大きくせずに解決できた方が、本人のためにもなるだろうし、説得がしやすいと踏んだからだ。
夕飯まであと一時間ほどある。きっと、風呂が入れ替えになる前に、落とし主は探しにくるだろうと足早に大浴場を目指す。
浴場に続く長い廊下で来たときに会った小栗の娘とすれ違った。細い廊下なため、俺に道を譲り、小さな声で「ごゆっくりどうぞ」と言うと足早に去っていく。夕飯の準備があるのだろうか。嫌々手伝っていると言っていたが、仕事熱心なものだ。
風呂場には誰もいなかった。洗面台の前に置かれている椅子に座り、誰かが来ないかと待つ。六時が目前というところで、引き戸が開く音がして、ハッと振り返ると小栗が入ってきた。
「あ、作間様。お風呂はいかがでしたか。そろそろ入れ替えのお時間となりますので」
「素晴らしかったです。檜の香りがたまりません。露天も、まさに絵にかいたような雪国の温泉で」
「そうでしたか。ご満足いただけてなによりです」
そう言うと、脱衣所の清掃をささっとはじめる。このままいても邪魔になってしまうので、俺は風呂場を後にする。結局、封筒が誰のものかという察しすらつけることができなかった。
*
夕食で出された懐石料理は、それはもう見事なものだった。思わず、スマートフォンで写真に収めてしまったほどである。山の幸、海の幸に舌鼓を打ちながらもう一度遺書の内容を反駁してみる。
わがまま。
逃げだしたい。
何度も思ってきた。
その時が来た。
ありがとう
さようなら
よく考えてみると、「死ぬ」とは一言も言っていないような気もする。俺がそう思いたいだけだったのかもしれないが。とはいえ、最後の「さようなら」は決定的な気もしてしまう。
朝になったら小栗に渡そう。俺の出した結論はそれだった。もし、それまでにことが起きてしまったら。ということも考えたが、まだ時間はある。懐石料理で膨れた腹をさすりながら、ひとまず各客間の客を整理する。
まずは隣の薊の間がさっそくどんな客がいるのか分からない。ただ、部屋から出てこない上に、話し声すらしないから一人客であることはほとんど確定だと思う。
その隣の睡蓮の間には森本家がいる。おそらく、奥さんと森本氏、そしてあの兄弟であろう。家族連れで温泉宿心中は考えにくい気もする。
さらに隣部屋の桔梗の間には恐らく風呂で一緒になった中年男性が宿泊しているはずだ。名前はわからない上に、一人なのかもわからない。風呂では一人だったから、少なくとも同性の同伴者はいないのであろう。
とはいえ、俺が持っている情報はこれがすべてなのである。部屋から出ないことには何もわからない。
時計に目をやると九時を回っていた。たしか、風呂は十一時までだったはずだからその前に浸かってくるか。
大浴場までの道。どの客間にも明かりが灯っていた。竜胆の間から最も離れた桔梗の間を通り過ぎようとした時だった。スッと障子が開くと、中から女性が現れた。二十代ぐらいの若い女性だ。細い線に、浴衣が似合っている。アップにした黒髪もまた温泉宿風情がある。
「あ、こんばんは。竜胆の間の方ですよね」
いきなり部屋を言い当てられ、たじろぐ俺に彼女は続ける。
「最初に小栗さんに案内されているところをちょうど見ていたもので。お風呂ですか」
「ええ。竜胆の間の作間といいます。お風呂ですか?」
「あ、そうなんです」と抱えた洗面具を強調する。それとなく一緒に歩きだす。
「入れ替え制と聞いて、これは入っておかなくちゃと思って」
「私も同じです。失礼ですが、おひとりですか」
「ええ。私、一人旅が好きなんです。だって、たとえ友達だとしても誰かがいるとそれとなく気を遣うじゃないですか」
同意もそこそこに、おれはふっと胸をなでおろす。どうやら、これで一人候補から外れる。女性であれば、あの場所に封筒を落とすことはできない。
男湯のことを聞かれ、それとなく答えると「楽しみ!」とはしゃいだ様子を見せる彼女。暖簾の向こうに消えていく姿を見送ると、俺も藍色の暖簾をくぐる。
脱衣所は男湯と線対称な作りになっていた。脱衣籠には一人分の衣服が。先客がいたか。
浴室の作りは男湯とそこまで変わりはないが、檜をくり抜いたであろう船のような一人用の寝湯があった。内風呂には一番奥に誰かが浸かっている。湯煙で顔まではしっかり見えない。
先ほどと同様にかけ湯をすると、ザブザブと湯船を進む。浸かっていたのは少年だった。森本氏の長男だろうか。
子供が一人でいる床に声をかけるのも、今のご時世憚られるが今はそれどころではないと、話しかける。
「こんばんは」
少年はハッとして俺を見ると「こんばんは」と声変わりをしない高い声で返す。どこかで聞いた声な気もするが、きっと森本氏の下の子の声だろう。
「一人かい」
「はい」
「お父さんはどうしてるの」
「部屋で仕事をしてます」
聞かれたことには答えてくれる。でも、会話を楽しもうという気もないようだ。
「そうか」と俺が言ったきり、会話が途切れてしまった。
お湯が流れる音だけが浴室に響いている。
「あの」
最初、彼の発した声だと気が付かなかった。
「あの」
「え」
「おじさんは東京から来たんですか」
間違いなく彼が発した質問だった。
「そうだよ。でも、なんで知ってるんだい」
「お父さんが言ってました」
ああ、そうか。森本氏とはそんな会話をしていたな、と振り返る。
「東京っていいところですか」
質問がどんどん飛んでくるな。都会にあこがれでもあるのだろうか。
「まぁ、いいところかって言われたらたぶんそうだと思うよ。場所によって住みやすい、住みにくいはあるだろうけど。お店もいっぱいあるしね」
そっかぁ。言うと聞こえないぐらいの声で言った彼はなんだかワクワクしているようにも見えた。
「ちなみに、おじさんは一人ですか」
単刀直入だな。
「一人だよ。おひとりさまだ」
「えっと、そうじゃなくて―――東京に家族はいますか」
おっと、そんなに俺に踏み込むか少年。
「いいや、東京でも一人暮らしだよ」
「結婚しないんですか。子供とかいらないんですか」
俺はいよいよ森本氏の子育て方針を疑いただす。とはいえ、彼が警戒心を解いてくれたことは素直にうれしかった。
「あ、まぁ、そうだなぁ。子供はほしいけれど、なかなかタイミングがね」
「なるほどぉ」
鷹揚にうなずく彼を観察する。二重瞼であることは間違いないのだが、弟とはあんまり似ていない気もする。前にエントランスで見た時は伏し目がちだったり、表情があまり見えなかったが彼は母親似なのかもしれない。弟は森本氏そっくりであった。
「じゃあ、僕、もう出ますね。ちょっとのぼせちゃったみたい。ごゆっくりどうぞ」
上気した顔を手で扇ぎながら、彼が言う。
「あ、ありがとう。それじゃあ」
そう言って出ていく彼を見送る。なで肩の体躯が妙に色っぽく見えたのは湯煙でぼやっとしか見えなかったから、ということにしておこう。
思いがけず弾んだ会話に気を取られてしまっていたのだろうか。彼の名前を聞き忘れていたことに気が付いたのは、彼が出ていってから暫くたってからだった。
*
桔梗の間の女性、睡蓮の間の森本氏、薊の間の中年男性。それぞれに動きはないようだった。おそらく今晩中には何もないのかもしれない。と思いこむようにして、俺は布団に入る。きっと、そう思いたかっただけだと思う。時計は十二時を回っていた。日曜日が訪れた。
ミシッ、ミシッ。床が軋む音で目が覚めた。手元のスマートフォンで時間を確認すると午前二時を少し過ぎたころだった。
ついに来たか。
封筒の件で、いったんは忘れてしまっていた、つくし嬢の話を思いだす。俺はひとまず、動かずに足音の動向を探る。
足音はどんどん迫ってくる。月明かりが障子から部屋に射していて、外に誰かが来ればその影が映るはずだ。そして、障子の端についに影が現れた。
背丈は、話に聞いていたようにそれほど高くはない。そして、影は竜胆の間の前で止まる。
こんなにもはっきり現れるものなのかと、今までオカルトの宅食いを信じてこなかった俺ですら面白いぐらい心臓が早鐘を打っている。
そして、影の右手が障子に伸びる。ここで俺目を瞑った。起きていることを悟られたら何をされるかわかったものではない。
スッとほとんど音もなく障子が開き、俺の顔に廊下の冷気が当たる。
ズ、ズ、と畳の上を歩く音。足音は軽い。本当に子どもだ。
こんな真冬に怪談なんて冗談じゃないが、間違いなく「彼」ないし「彼女」はこの部屋にいる。
そして、足音はちょうど俺の枕元で止まる。
音もなくしゃがみ込む気配。あおむけで寝ている俺の顔を覗き込んでいる。ふわっとシャンプーの香りがする。ここまで生々しいものなのか。
そして、ひたっと俺の横顔に冷たいもの触れた。手だ。
俺はこれを確かめるために来た。ここで目を開けずに編集者としてどうなのだろう。という謎の葛藤の末、うっすらと目を開けた。
覗き込んでいたのは少年だった。息がかかりそうな距離に顔があった。
真っ白な肌が月明かりで余計に白く見える。
「あ、おじさん。起こしちゃった」
と言って離れる少年。見覚えのある顔。
「正体は君だったのか」
そこにいたのは、数時間前に風呂で一緒になったあの少年だった。
*
電気はつけないでほしいという彼の希望にこたえて、我々は月明かりの中にいた。
「お父さんが心配するから部屋に戻りなよ」
「いや、大丈夫。ばれてないです。それに、ここは僕の家だし」
え。俺は何かを間違っているのだろうか。やっぱりこの子は幽霊―――
「僕は小栗灯です。父は番頭の小栗です」
たしか、灯とは宿の中で何度かすれ違っている番頭の「娘」のはず。
「き、きみは男だよね。さっき、男湯にもいたし」
「はい。男です。でも、ぼく、病弱で昔からここで女として育てられたんです。昔からの儀式みたいなもので、病弱な男の子は女として育てることで、災いから逃れることができる。このあたりの集落に伝わる風習なんです。小学校卒業までは家の中では女、学校や外では男。ややこしいでしょ」
うまく笑えていない彼には複雑な思いがあるのだろう。
「おじさん、お風呂で何か拾いませんでしたか」
「え」
なぜ、彼があの封筒のことを知っているのだろう。もしかして、彼は死ぬつもりで。
「あ、知ってるですね。拾ってくれた人がおじさんでよかったぁ。大丈夫です。僕、死んだりしませんから」
「どうして、俺があの封筒を持っていると」
「簡単です。おじさんがお風呂場に行く後姿を見かけて、暫くしてから脱衣所の掃除に行ったんです。先に入っていたお客さんが出るのを確認してから。お客さんと鉢合わせちゃったら迷惑になっちゃうから。おじさんは入ったばかりだからまだ出てこないだろうと思ったんです。その時たぶん落としちゃったんだと思います。だから、おじさんが出た後に探しに戻ってもなかったから拾ったのはおじさんだろうなと思ったんです。僕とすれ違いましたよね。お風呂を出た後に」
確かにあの時廊下で、「女の」灯少年とすれ違ってた。
全く気が付かなかったのもいかに彼が女性として育てられてきた日々が長いのかを象徴しているようだった。
「ああ。でも、君はなんであんなものを書いたんだい」
「そこなんです。僕はおじさんにお願いがあって、来たんです」
「いや、お願いされなくてもあのことは黙っておくよ。君が馬鹿なことをしないと約束してくれるならね」
くすくすと灯少年は笑いだす。
「おじさん、だから僕は死んだりしないって。でも、もうこんな生活は嫌なんです。かつらをつけて、女物の浴衣を着て、お客さんにばれないように宿を手伝うなんて。そのうえ、お客さん全然気が付かないんですよ。言い女将さんになるなんて言われて。僕の気持ちわかりますか。だから―――」
ちくりと胸の奥が痛む。俺も言っていたな。
「僕を東京へ連れていって下さい。お願いします」
急な申し出にたじろいだのは俺だった。
「ちょ、ちょっと急に何を言いだすかと思ったら。お父さんやお母さんはどうするんだよ。君が急にいなくなったら心配どころじゃすまない。なにより、俺が誘拐犯として逮捕されちゃうじゃないか」
「お父さんとお母さんは僕が本気で嫌がっていることを分かってくれないし、あと一年だけだと分かっていても自分がどんどん女っぽくなっていくのがもう我慢できないんです。病気だってとっくに治っているんです。でも、しきたりだからって。誘拐じゃなくて、僕が勝手におじさんの車に乗り込んでいて、おじさんは気が付かなった。それでいいので」
ああ、冗談じゃない。こんな映画みたいなことがあるもんか。ごたごたのさなか、幽霊の正体は家から抜け出したい彼だったのかと納得した。連れ出してください。の正体はこれだったのか。
「だめだ。仮にそうしたとして、東京でアテはあるのかい。住むところや食べるものはどうするんだい。子供一人でどうにかしていけるほど東京は優しくないぞ」
少年がみるみるうちにしぼんでいくのが見えた。少し言いすぎでしまったようだった。
「でも―――」
と言ったきり、継ぐ言葉を見つけられない少年に声をかける。
「連れていってはあげられない。でも、お父さんに進言することはできる。君が十分頑張っていることもこの一日の滞在だけでもわかった。どこまで力になれるかわからないけれど、手紙を拾ったこととうまく混ぜて話してみるよ。それじゃダメかい」
沈黙。落胆。諦め。そんな気配がした。
「わかりました。お願いします。でも、やっぱり、拾ってくれた人がおじさんでよかったです。あの封筒はいつか誰かに連れ出してもらえる時に残して御呼応と思って書いたものなんです。今まで、いろんな人にお願いしようと思って夜中に男の人の部屋に来て、話しかけるんだけど、みんな起きてくれないどころが怖がっちゃって」
当然である。俺だって、人生で最大の恐怖を味わったところだ。
「でも、どうして女の人には連れていってと言わないんだ」
「あぁ、そこまで知っていたんですね。女性は本当に震えるほど怖がらせてしまって申し訳なくて。それに、リピーターが減ってしまうので」
しっかり宿のことを考えているんだな。素直に感心した。
翌日の打ち合わせをすると彼は引き揚げていった。ここからは俺の仕事だ。彼の決死の冒険を実らせてあげないと寝覚めが悪い。そう思い掛け布団にもぐりこんだ。
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朝、朝食を小栗が運んできてくれた。
「おはようございます。昨晩はよくお休みできましたでしょうか」
不安げに尋ねる彼に「ええ」と返す。
「ただ、一つ気になることがありまして」
安心したところに冷や水を浴びせられたような小栗がすっと居直る。
「なにか失礼がございましたでしょうか」
「いえ、そんなことはないんです。ただ、お子さんの灯さん。いや、灯君と言った方が正確ですかね」
小栗は観念したようにふぅっと息を吐く。
「作間様はお気づきでしたか」
「ええ。そろそろ限界ではないですか。昨晩、この地域に伝わる伝承については私なりに調べたんです。ご苦労をされているところで、よそ者が口を挟むのはお門違いかと思いますが、いち宿泊客として意見を述べさせていただけるのであれば、あれはやめて頂きたいですね。そろそろ無理がありませんか」
「そうですよね。私も家内も、それを感じてはおります。ただ、しきたりですのでご勘弁いただきたいのです」
ここで、例の封筒をとりだす。
「これは、昨日、脱衣所で拾ったものです。灯君が書いたものでしょう。彼がここまで思っていることをご存知でしたか」
そう言って、小栗にあの封筒を渡す。
見る見るうちに小栗の顔から血の気が引いていく。恐らく遺書だと思ったのだろう。
「そんな、こんなものをあの子が」
昨晩、灯少年と打ち合わせて、あの手紙に署名をつけたしたのだった。そうすれば、小栗に話がしやすかったからだ。
「多感な時期ですからね。私は、この竜胆庵を非常に気に入りました。また来たいと思っています。そしてその時は、灯さんではなく、灯君にもてなしていただきたいと思っています。どうか、聞き入れて頂けませんか。私のわがままですが」
しばしの沈黙ののち、小栗が口を開く。
「わかりました。作間様のご厚意、灯の気持ち。この巡り合わせも何かの機会だったのかもしれません。今日から、灯は家の中でも男としていてもらおうと思います。もちろん、お客様の前でも」
「ありがとうございます。では、冷めてしまうともったいないので、いただきます」
そう言って俺は朝食に手をつける。ほくほくのご飯の甘みがいつも以上に沁みた。
「失礼します。朝食の食器を下げに参りました」
しばらくして、障子の向こうから声がする。
「はい」
そう言って迎え入れたのは、男性用の浴衣を着た灯少年だった。
「ありがとうございました。お父さんが、今日からもういいよって言ってくれました」
風呂場といい、月明かりの身の部屋といい薄暗い場でしか顔を合わせていなかったせいで、分からなかったが整った顔立ちである。小栗にはああ言ったものの、全く気が付けなかっただろう。
「それならよかった。東京には大きくなったらおいで。連絡さえくれたらいつでも駆けつけるよ」
俺はそう言って、名刺を差し出す。
「ありがとうございます。え、作間さん会社って推元出版なんですか。ぼく、緑川先生の小説大好きなんです」
おお、なんという偶然。ただ、さすがに担当編集者であることは言えない。
「ありがとう。もしかしたら、君が小説に登場できるかもね。緑川先生にいい宿があった事は伝えておくよ」
「本当ですか!やった。楽しみにしてます。」
そう言うと、手慣れた動作で朝食の膳を下げていった。
部屋を出る直前に、もう一度「本当にありがとうございました」と言って頭を下げていった彼は冗談抜きに魅力的なキャラクターだと思った。
かくして、俺の週末は終わりを告げたのだった。
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玄関で森本家と一緒になった。息子たちにそっくりな奥さんも一緒だった。森本氏曰く、中年男性はもう宿を出たあとらしく、すでに車が一台なかった。森本家の兄弟は雪遊びに夢中で、彼も二、三私と会話をすると先に出ていった。
見送りに出てきてくれた小栗夫妻と灯少年に会釈をする。そう言えば、薊の間もすでに人の気配がなかったが車は昨日来た時から、桔梗の間の男性の分を抜いた四台だ。
「桔梗の間の女性はもう出られたんですか。車が残っていますが」
私が何気なく小栗に尋ねると、
「え、昨晩は桔梗の間にお客様はおりませんでしたよ。奥の二台は私とかないのものです。どなたかと勘違いされておりませんか」
返す言葉もない。「そうかもしれません」と笑って俺も車に乗り込む。
バックミラーで小さくなっていく源泉から吹き出す湯煙にぼやける竜胆庵の中に、彼女の綺麗な後ろ後姿を見たような気がした。
深まる冬の一夜の出来事。
本当のことは誰も知らない。




