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前編

 年が明けてまもなく舞い込んだ休みは、まさに寝耳に水だった。担当している作家が思いのほか年末に追い込みで頑張ってくれたおかげで、仕事がトントン拍子に進んだのだ。

 新進気鋭の若手ミステリ作家、緑川洸と組んで早2年になる。当時、私が担当する文芸誌に投稿してきた彼の作品に「感じた」私はすぐに連絡を取り、投稿してもらった作品の手直しを手伝い、あれよあれよと雑誌内での連載という形でデビューが決まった。小さい出版社ではあるが、そこそこ人気と文壇への影響力のある雑誌ということもあり、緑川の名前はあっという間に世間に広がった。今ではメディア化も近いのではないかという話すら、ちらほらである。

 そんな彼がこの冬完成させようとしていたのが、3月刊行予定の原点回帰の古典的な密室ミステリ。春の桜霞みの中を走る列車内で起こる連続殺人。使い古されたネタではあるが、彼なりのアレンジと先代たちの作品へのオマージュも相まって話題性は十分にあるはずである。

 今年は新人賞を目指して進めていこうと話したところで、彼はいつも以上にやる気を出してくれていたのだろう。

 

「ふわぁぁぁ。さてっと、どうしたものかな」

外回りが多い出版社のオフィスは人が少ない、はずだった。

「作間さん、お暇そうですね。緑川くん、もう脱稿されたんですか?」

不意に斜め後ろのデスクのさらに奥の書類の束の向こうから女性の声がする。

「おっと、つくしちゃんかぁ。びっくりさせないでよ」

ポニーテールの女性が書類の中から姿を現す。片桐つくし。本名である。たしか、歳は35ぐらいだったと思う。もともと経理部で働いていたそうだが、ひょんなことで編集部へ異動となり、それ以来、敏腕編集者としての階段を登ってきた。ちなみに、私が緑川を発掘した文芸誌を担当していた時、彼女が編集員の一人として力を添えてくれていた。そんな彼女も今や編集長である。とはいえ、当時の編集者としては駆け出しの彼女と仕事をしていたということもあって、いまでも「つくしちゃん」呼びが抜けない。

「ごめんなさい。あまりにも気が抜けた声がしたんで、集中が切れちゃったんです」

こんな冗談を俺に飛ばせるのも、社内では数少ない逸材の証拠なのかもしれない。

「すまん、すまん。そうなんだ、緑川のやつ、年末から急にスピードを上げてきてさ。これじゃ装丁の方が間に合わなくなっちゃうからって、小休止なんだよ。当の本人は、もう次回作の構想があるんですって書き始まってるみたいだけど。だから、俺はこの週末まさかのお休みってことよ」

「羨ましいです。作家のやる気マネジメントも編集者の腕ってことなんですかね。お休みどうされるんですか?」

おべんちゃらでなく、本心でこんなことが言えるのも彼女の長所だ。そして、休みの使い道。そう、それが問題だったのだ。基本的にはなかなか連休なんて取れないわけで、ぽっかり空いた明日からの2日間をどう過ごすか、決めあぐねていたのだ。

「そうだなぁ。年末も正月もなく仕事だったから、ちょっとゆっくりしたいんだけど、つくしちゃん良いところ知らないかな」

特に、明確な答えを求めた質問ではなかった。しかし、彼女は真剣な表情で上司のための「とっておき」を思案してくれた。

「そうだ!『竜胆庵』なんてどうですか!温泉宿なんですけど、最近話題の宿なんです。それになによりも―――」

「なによりも?」

「『出る』って話題なんです。取材もかねていかがですか。緑川君まだ旅館密室系書いたことありませんでしたよね。雰囲気もばっちりなんですよ」

おお、さすが編集長。ぱっと、こんな提案ができるのも編集者としては非常に心強い。

「出る」ということにはさほど興味を持てなかったものの、他に行く当てもなかったので「じゃあそこに――」といいかけたら、彼女はさっそく予約の電話をかけているところだった。早い。

「大人1名ですよね?」と電話口を抑えて俺に尋ねる。うんうん、と首を縦に振るものの、その確認は必要だったか?と聞きたくなってしまう。

「作間さんよかったですね!一部屋キャンセルがあったみたいで、明日の1泊予約が取れましたよ。チェックインは14時から大丈夫だそうです。後から、詳しい場所をケータイに送っておきますね」

彼女は秘書すら向いているんではないかと思う。気の強さがどう出るかは見ものだが。

つくし嬢に挨拶もそこそこ社を出ると、もう日は沈んでいた。都内とはいえ1月は寒い。新調したばかりのチャコールグレーのチェスターコートを羽織りなおす。

温泉旅行か。何年ぶりだろう。俺は、歯ブラシと、写真を撮るためのメモリーカードと、、、買い出しの品を頭の中でリスト化して週末の雰囲気を出し始めた夜の人込みに紛れた。



竜胆庵はT県の山間にひっそりと構える温泉宿。レンタカーで数時間と聞いたので、気分転換にもなるだろうと思ったのが運の尽きだったのかもしれない。続きに続く峠道はまさかの雪道。超ド級の徐行運転であっという間に俺の気力は奪われていった。ようやく15時過ぎに竜胆庵に着いた頃には一日の仕事を終えた後以上に疲れていた。

道中、峠道に入ってからというもの、ほとんど車を見ることはなかったのだが、竜胆庵の駐車場には5台の車が駐車されていた。車を降りると外気は思った以上に低い。身震いを一つ。

 客室は全部で4つと聞いているので、少なくとも2台は従業員のものなのだろう。

「一応、繁盛しているんだなぁ」

 一人なのをいいことについつい、独り言が口をつく。歳を重ねると、無意識に癖が増えていくような気がしている。

「へぇ、おかげさまさで」

「ひっ」

不意に真後ろから帰をかけられ、飛び上がってしまった。振り向くとそこには袢纏を羽織った50代ぐらいの男性が立っていた。

「あ、すみません。失礼な事を言ってしまって」

すると、男性はにこりと笑い、続ける。

「いいんですよ。こんな山奥でよくやっていけますねぇ、とはよく言われますので。えぇと、ご予約の作間様でいらっしゃいますね。わたくしは番頭の小栗でございます。ご到着が少し遅れていらっしゃったので心配をしておりました。ささ、外は寒うございますので、こちらへ」

 そう言うと、小栗は荷物をひょいと抱え、入り口まで案内してくれる。雪かきの跡なのか、いたるところに雪の小山ができていて、今さらになって自分が都会からうんと離れたところに来たんだなぁという実感が湧いてきた。

 老舗の宿ということで、建物はどんなもんか楽しみにしてきたのだが意外としっかりした作りの日本家屋である。入り口には金色で達筆な「竜胆庵」の文字。銀世界の中、玄関にはためく小豆色に白文字の暖簾もまた風情があった。

 「いらっしゃいませ、竜胆庵へ」

改めて小栗が挨拶をしてくれる。ひとたび室内に入ると、先ほどまでの寒さが嘘の様である。

 受付のためであろうカウンターには宿泊者用の名簿があり、小栗に促されるままに記帳をする。記帳をしているのは俺の他に3名。F県からの宮内氏。T県内からの森本氏、三星氏。いずれも代表者のみの記帳の様で何名で来ているのかは定かではない。

記帳が済んだところで、また小栗が案内をしてくれる。

「本日の作間様のお部屋は竜胆の間でございます。こちらは、お庭をもっともよい角度から一望できる、当庵でも人気の高いお部屋で、本当に良いタイミングでお電話を頂けました」

「あぁ。実は知人に教えて頂きましてね。なんでも、温泉が素敵だそうで。楽しみにしてきたんです」

そうでしたか、そうでしたか。と鷹揚にうなずきながら歩みを進める小栗。ぎしっ、ぎしっと板張りの床が時々軋むのも、もはや宿の良さの一つであると感じてしまうのは日本人の性なのかもしれない。

縦長に作られた竜胆庵の性質上、庵の中でも一番奥にある竜胆の間にたどり着くためには、他の客間の横を通っていくようにして行かなければならない。

手前から順に、桔梗の間、睡蓮の間、あざみの間、そして、竜胆の間である。桔梗の間の横を通った時は特に物音もせず、不在の様子だった。温泉にでもいっているのだろう。睡蓮の間からは楽しげな家族の団らんが聞こえた。部屋の中ではしゃぐ変声期前であろう男の子の声が印象的だった。

そして、薊の間に差し掛かった時だった。

「失礼いたしました」

急に客室の障子が開くと、中から着物姿の「女将さん」と呼ぶには若すぎる、中学生ほどの背丈の少女が出てきた。

中からはテレビの音だけが聞こえていた。俺と同じ一人客だったのかもしれない。

部屋から出てきた小柄な彼女は廊下の方に居直ると、俺と小栗に気が付き、

「いらっしゃいませ」

と伏し目がちに挨拶をする。

会釈をしながら通り過ぎる俺はたまらず、小栗に尋ねる。

「随分と若い方が働いているのですね」

「いえ、今のは娘のあかりといいます。こうやって学校が休みの日は庵を手伝わせております」

なるほど、それならあの若さも頷ける。

「なるほど。あかりさんとはどんな字をあてるのですが?」

「街灯の灯の字です。少々読みにくいので、流行りのキラキラネームなんて呼ばれてしまうこともあるんですけどね」

「いずれは、女将さんですね」

「へぇ、そうなるといいのですが。いかんせん、手伝いも嫌々で、私も家内も手を焼いています」

どこであっても親とは難儀な職業なのである。

いよいよ竜胆の間というところで、急に小栗が立ち止まって振り返る。その表情に一瞬の緊張が見えたことを俺は見逃さなかった。

「失礼ですが作間様。このたび竜胆庵をお知りになったのは、お知り合いの方からだと仰っておりましたが、その際に何か竜胆庵についてお伺いになっておりますでしょうか」

「あ、いえ。別に、温泉がとっても良いということと、老舗の旅館だということぐらいしか伺っていませんよ」

「そうでしたか。不躾なお伺い失礼いたしました」

小栗はどこか悲しいような、ほっとしたような複雑な表情をしていた気もする。

職業柄なのか、嘘をつくことが上手になった。

つくし嬢からは竜胆庵にまつわる「話」を聞いていた。温泉の話はもちろん嘘ではないが、それ以上を聞いていたということだ。

「出る」といった彼女自身もオカルトに関しては否定的な方である。ただ、竜胆庵に関しては、作家たちの間で有名になったのが出だし、ということだったこともあり彼女もその話を信用せざるを得ない立場であった。変に否定をして彼らにへそを曲げられたらこっちは商売あがったりなのである。

彼女から聞いた話はおおよそこんなものだ。




庵で幽霊と遭遇するための条件は二つだけ。一つ目が、一人で宿泊をすること。もう一つは、竜胆の間に泊まること。これだけである。

つくし嬢と親交のある作家が数名同じ条件で遭遇したという話だった。

深夜二時を過ぎたころ、廊下をひたひたと素足で歩くような音がして、それがふっと竜胆の間の前で止まる。しばらくの沈黙の後、スッと障子が開き、「彼」が入ってくるという。

髪はそこまで長くなく、背も低いということで証言は一致しているようで、どうやら小学生ぐらいの男の子じゃないかということだ。

部屋に入ってくると布団のとこにスッと座り、こちらを覗き込むようにしているらしい。人によっては息が顔にかかるのを感じたと言いだす者もいたという。

そして、この後の証言は男女で異なる。

まず、男性だ。

しばらく覗き込んだ後で、決まってこう言う。

「僕を連れてって。ここから連れ出して」

と言って腕をつかまれるという。恐怖のあまり、寝たふりを通した者ばかりだったという。「彼」は反応の無さに落胆するのかそのまま部屋から出ていくそうだ。

次に女性は少し異なる。

「ごめんなさい。おやすみなさい」

とだけ言って、すぐにいなくなるという。

どうして男女に差があるのかは謎のままだが、ここに関しては全くぶれることなく全員が同じ証言をしているということだ。



俺がつくし嬢から聞いたのはここまでである。

「緑川次々回作ぐらいを注目しておきますね」

と言ってはにかんだ彼女の顔が脳裏にちらつく。


「作間様?」

気が付くと、小栗が心配そうに俺のかを覗き込んでいた。知らないうちに物思いにふけってしまっていた。

「あ、いや、何でもないです」

「そうですか。ささ、こちらが、竜胆の間でございます。奥の窓から当庵自慢の庭園を一望いただけます。この時期は雪景色が非常に美しゅうございますよ。ちなみに、お風呂は入り口までお戻り頂きまして、受付を右に折れて頂きますと大浴場がございます。この時期は雪景色の中の露天風呂がおすすめですが、足元が滑りやすくなっておりますので、ご利用の際は十分にお気をつけくださいませ。浴衣や手ぬぐいなどはあちらにご用意がござます。ちなみに、お風呂は午後六時で男女入れ替え制になっており、どちらのお湯も楽しみ頂けるようになっております」

手慣れた順番で部屋を案内してくれた小栗に礼と、夕食の希望時間を伝えると彼はスッと来た道を引き揚げていった。

改めて部屋を見回す。十畳は以上はあるであろう和室が二部屋。床の間には立派な水墨画の掛け軸が掛けられ、花も生けてある。

荷物は小栗が部屋の隅にまとめて置いてくれている。取材もかねてということで、写真を何枚か撮る。ここにまで一眼レフを持ち込むのも気が引けたため、コンパクトデジタルカメラにした。この広さなら2・3人は泊まれるだろう。

そして、自慢と言っていた庭園は確かに見事だった。手前には氷の張った池。雪が積もっているものの、その下で真っ赤な金魚が泳いでいるのが見えた。奥には松やら手入れされた木々と、趣のある灯篭の数々。今はまだ明るいが、夜に火が灯ればまた美しさが増すだろう。そして、なにより、雪だ。車では忌々しさしかなかったものの、鑑賞となればまた違う。しばらく見惚れていたら、体が冷えてしまい、窓を閉める。

 「さて、風呂かな」

宿泊客用の浴衣もまた美しい刺繍が入った藍色の浴衣だった。やすいビジネスホテルの白くて薄い浴衣に慣れてしまっている身からすると、これだけでも贅沢を感じられた。

 さっと、浴衣に着替えると、小栗に言われた通り廊下を進む。薊の間からは相変わらずテレビの音が聞こえてきた。その代わりに、睡蓮の間が静かになってた。家族連れと温泉で一緒になるとゆっくりできない気もするが仕方ないか。少なくとも一晩は同じ屋根の下。気まずくもなりたくないから、挨拶ぐらいはしておくか。と歩みを進めた。桔梗の間は静かなままだった。

 受付に宿の人間は誰もいなかった。その代わりに、少年が一人、畳地の腰掛に座っていた。浴衣姿というところから見ると、宿泊客の一人なのだろう。伏し目がちにして、もはや「誰とも目を合わせないぞ」という気合すら感じられたのであえて声をかけるようなことはせずに、通り過ぎる。

 大浴場に続く長い廊下には丸窓がいくつもついており、庭園を客間とは逆の方向から望むことができる。とはいえ、大きな樹木があるために客間が見えるわけではない。実にうまい造りになっている。

 大浴場の入り口には浴衣と同じ藍色と、女風呂の入り口には入り口に掛けられていた小豆色の暖簾と同じ色の「ゆ」の暖簾がかかっている。迷わず藍色の暖簾をくぐる。さっき番頭がいっていたように、ここが午後六時を過ぎると入れ替えになるのだろう。

 脱衣所の籠は既に三つが使われており、誰かがいることが分かる。さしずめ、睡蓮の間か桔梗の間の宿泊客であろう。

 俺もいそいそと浴衣を脱ぐと大浴場の扉を開ける。

 湯煙に満ちた檜の中にいる。第一印象はそんな感じである。壁も湯船も、洗い場の風呂桶でさえも檜でつくられた大浴場は檜好きにはたまらないものであろう。

 内風呂には案の定、小学校高学年ぐらいの男の子と父親であろう三十代ぐらいの男性が湯船につかっていた。

 かけ湯もそこそこに湯船に浸かる。

 幸せだ。寒さで完全に委縮してしまっていた全身がゆっくりと解けていく感覚。熱くもなくぬるくもない温度もまたありがたい。これなら、少しぐらいの長湯も大丈夫そうだ。

 そんなに広い湯船ではないため、向かい側に浸かる父親らしい男性と目が合い、会釈をする。短く切りそろえられた髪はきちっとした仕事についている印象を与える。会釈の際の表情も非常に柔らかかった。つまり、いわゆる「感じのいい人」である。

 息子とおぼしき少年は、行儀よろしく男性の横で静かに湯につかっている。

 「いいお湯ですね」

 仕事柄、初対面の人間と話すことには慣れている。ついつい、話しかけてしまうのはもはや病気かもしれない。

 「ええ、本当に。露天もよかったですよ。もう行かれましたか」

 「いや、今しがた辿り着いたもので、まだなんです」

 「そうでしたか。確かにすごい雪道でしたからねぇ。どちらから、来られたんですか。あ、僕、睡蓮の間に泊まっている森本といいます」

 俺は竜胆の間に泊まっていることと、東京から来たことを森本氏に伝える。

「東京から!それは大変でしたね。あっちは、雪道を車で走るなんてほとんどないですもんね。僕も、三年前まで東京勤務だったもんで」

「そうなんです。ドライブがてらと思ったのが運の尽きだと思ってましたが、このお風呂に救われました。そちらは息子さんですか」

「ええ。柊太といいます。ほれ、挨拶して」

と頭に乗せた手脱ぎをポンと叩かれる。父親に促されるままに少年は「こんにちは」と小さい声で言って恥ずかしそうに鼻の下まで湯船に浸かった。くっきりした二重瞼が印象的な少年だ。俺も愛想よく「こんにちは」と挨拶を返す。

「では、上のが待ってるんで、お先に失礼しますね。熱いと言って早々に出てしまって」

あぁ、受付に座っていたのは彼の兄だったのか。と合点がいく。まん丸の二重瞼が似ていたような気もする。

「はい。それでは、また」

そう言って、彼らは浴室から出ていく。ガラガラという扉の開閉音が浴室に響いたきり、お湯の流れる音だけが響く。

ふぅ。と息を吐くと、疲れの塊が体から抜けていくようだった。つくし嬢に感謝しなければいけないなぁと心に留める。

ぎいっと音がして露天に続く扉が開く。冷気と共に眼鏡をかけた中年の男性が頭に少しの雪を積もらせたまま内風呂にはいってくるところだった。入ってきた瞬間にメガネが曇ってしまっている。

メガネを拭きながら湯船に浸かる私を見つけ、会釈をしてくれる。私もそれにつられるように返す。

彼は内風呂には浸からず、かけ湯をザバザバとかけて出ていった。おそらく桔梗の間の客だろう。

これで、今風呂にいるのは自分だけ。ゆっくりできそうだ。上気した顔にかかった心地追い冷気を忘れないうちに露天にも行ってみようと、腰を上げる。

小栗が言った通り、露天に続く板張りの道は雪が積もり非常に滑りやすかったものの、その先にある風呂は最高だった。内風呂とは趣がいい気に代わり、岩造りの風呂である。絶景この上なし。銀世界の中に忽然と現れた風呂。そんな温泉である。テレビや雑誌でサルが浸かっている。そんな光景を見たことがあるが、まさにそんな温泉である。

火照った顔にちらちらと降る雪がまた心地よい。

写真に収めたいところだが、カメラを持ち込むわけにもいかず記憶にとどめていく。その後も、内風呂と露天を行き来することと約一時間。特に新しい客が風呂にくることもないまま、存分に温泉を満喫した。

脱衣所で髪を乾かし、脱衣所を出ようとした時のことだった。

なんだこれ。

スリッパを入れる下駄箱の下に半分挟まるように真っ白な封筒が落ちている。来たときにあっただろうか。

引っ張り出すと、あて名も差出人も書かれていない封筒である。触った感覚から中に何かしらが入っていることはわかる。

「失礼します」

独り言を言いながら、封をされていない封筒を開く。



どうか、わがままを許してください。

今まで、自分なりに精一杯やってきたつもりです。

それでも、どうにもならないこともあります。身勝手なお願いであることはわかっていますが、もう、楽になりたいです。

逃げたしたい。とずっと思ってきました。何度も何度も、今晩こそと思ってきました。ついに、その時が来たと思います。

たくさん、たくさん、ありがとうと言いたい人がいます。

ありがとうございました。そして、さようなら。



署名はなし。整っていて、細く、ただ、迷いのない筆跡。遺書だろう。

そして、もう一つ明らかなことが。

宿泊者のうちの誰かが、死のうとしているという事実だ。


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