雌伏の時
「ケンちゃん……ケンちゃんはどこ……?」
愛美は良く分からない空間に来ていた。光のない虚ろな目で彼女の弟を探していると不意に空から声が降って来た。
『あー……君の弟君なら別世界に行ったよ。』
その声に愛美は顔を跳ね上げた。人間ではないように思われるその動きを越えの主は苦笑しつつ見て、隣にいる誰かと話を始める。
「誰……誰なのかわかりませんが、ケンちゃんの居場所を知っているならそこへの行き方を教えてください!」
『えぇと、ちょっと待ってね?……マジですか?』
土下座して頼み込む愛美を無視して声の主は別の誰かと話をしているようだ。その様子を聞きつつ愛美は土下座のまま動かない。
『えーと……ちょっと待ってね?今からそっちに滅茶苦茶偉くて、そして滅茶苦茶な方が来臨されるから、その方に無礼が無いようにね?』
ややあって、声の主から幾ばくか緊張した声が聞こえた。それとほぼ同時に全身を黒いローブで覆っている黒髪、そして真っ黒な目をしている青年がその場に降りてきた。
「よう。誰か知らんが面白そうだから手を貸してやろう。」
「ケンちゃんの所に行かせてくれるんですか!」
愛美が顔を上げるとその青年は酷く邪悪な笑みを見せた。
「行くっつーか逝くだけどな。……ま、その前に一つ前提。お前、人間辞める覚悟ある?」
「え……?」
愛美の思考はフリーズした。その間に目の前の青年はどこからともなく大量の薬物を召喚して目の前に不思議な空間が出来上がる。
「軽く説明。お前の弟は向こうでいっぱい、今の時点で……3人か。3人の女を誑かしてる。……俺の話を聞けこのタコが。」
憤怒に包まれて話を聞かない状態に入りかけていた愛美をその青年は薬品を一掛けして強制的に冷静に戻した。
「……そ、それで、どうしたら、いいんですか?」
「で、その中に入るんだが……正直、姉枠的なのは転生先のメイドに盗られてるわけなんだよね。」
またどこかに思考を飛ばしている彼女に青年は薬品をぶちまけた。今度は微妙に痛かったので愛美は軽く呻き声を上げるが、青年は無視して続ける。
「……んで、その枠が埋まってるんだが、ここの神が君の弟君に最強の召喚獣をあげるって約束したんだよね。」
「は、はい……」
「だから、ここにいる神獣のレプリカたちより強くなって召喚されれば死ぬまで召喚され続けるパートナーになれるように改造受ける?って話。」
青年がそう締めくくると愛美は考え込んだ。彼女の弟に寄ってくる虫けらは排除しておきたいが、流石に人間を辞めるのは……弟と結ばれないではないかと悩んだのだ。
その中に彼女の姿が変わるのが嫌だということはない。彼女の思考の中は弟からどう見られるかと言うことだけだった。
「あの、どんな風になるんですか?ケンちゃん虫とか嫌いなので、犬とかならまだ……」
「犬になりたいならしてやってもいいぞ。勘違いしたままの方が面白かったんだがまぁいい。姿は変わらん。中身が人間から逸脱するだけ。」
この人性格悪いな……そう思ったら落雷が彼女を直撃した。死んだことすら自覚していなかったが、蘇生してその出来事に気付く。
「……い、今のは……」
「空からだな。俺の事を性格悪いとか考えたからあいつがキレた。……まぁ最終的に今の落雷位は避けられないと話にならんがな。」
「む、無理では……?」
愛美がそう弱音を吐くと青年はゴミを見る目で愛美を見た。これまでそんな目を向けられたことがない愛美はその視線に怯む。
「んじゃ、お前の可愛い可愛い弟が危険に晒されるのを安全圏で見てろよ。もしくは一緒に殺されるために飛びな。」
「き、危険なんですか?」
青年は多少イライラして来たようだ。そして面倒臭そうに一瞬で愛美との距離を詰めて彼女の頭に手を置いた。
「っ!ぁ……!」
「理解したか?」
「は、い……」
彼女が知覚した時には既に彼は実験場のど真ん中に戻っていた。だが、そんなことはどうでもいい。彼女の頭の中には彼女の弟の世界がいかに危険であるかという情報が蠢いていたのだ。
「お願いします……改造を、受けさせてください……」
「んじゃ、まずは呼吸法から改善しましょうか。言っとくがこの薬品類を安易に使ってもらえるとは思うな。劇薬どころじゃないからな?」
そして彼女の特訓は幕を開けた。