始まりと綻び
自分の感情がわからなかった。
ただ胸が苦しくて、どうすればいいのかわからなくて――
「…………」
登校。それはほぼ毎朝行う日課の様なもの。
その日も学生の本分を行う為に、遼は学校に向かっていた。いまいち存在感の薄い遼だが、実は小学生時代からずっと皆勤だったりする。
いつも通り、何ら変わりなく歩く遼。それは外見だけで、その内にある感情は激しく渦を巻いている。
「綾瀬さん、おはよー」
後ろから駆け寄ってきたクラスの女子が、遼に声をかけてきた。少し前までなら、こんな事はなかった。
「おはよう」
そして、遼がこう返す事も、今までならなかった事だ。
返事をもらった女子生徒は、笑顔を浮かべ遼の隣りにつく。
「一緒していいかな?」
「…………」
遼は声に出して答えはしなかったが、無言で頷いた。
「綾瀬さんってさ、無口だよね。あ、別に悪口言ってるわけじゃないよ。ただ、あんまり喋らないから」
「……そうかも」
遼自身、お喋りな人間だとは思っていない。確かに無駄に口を開く事はないし、自分は無口なのだろうと理解出来る。
「実は……あたし、綾瀬さんってあたし達の事嫌いなのかと思ってたんだ」
「…………」
「でも、最近はそうでもないかなって思ってる」
「どうして?」
「どうしてって聞かれても困るんだけど……話してくれる様になったし。今は、人見知り激しいのかな、くらいに思ってるけど……違う、かな?」
おそるおそる、といった風に、その少女は遼に尋ねる。
「人見知りが激しいわけじゃないけど……でも、あんまり人といるのは好きじゃないわ」
「ふーん、そっか……でも、絶対に嫌ってわけじゃないんでしょ?」
「…………」
「綾瀬さん」
「何?」
「あたし達、友達でいい?」
「……唐突ね」
突然の言葉に、遼は驚きを隠せず目を丸くさせた。
「うーん。こういうのって、勢いが大事だと思わない?」
「そんなものなの?」
「そんなものよ。多分」
「多分って……」
「少なくとも、あたしにとってはね」
「……そう」
多少呆れながらも、遼はこの少女に概ね好感を抱いていた。
今、自ら閉ざして心の扉が、ほんの少しだけ開いた気がした。
「それで、友達でいいかな?」
「……それも、いいかもね」
ふと、小さく笑みを浮かべる。
自分に訪れた変化も、そんなに悪くはないと思えてきた。
「それじゃあ改めて、あたしは霧島優子。名前、覚えててくれた?」
「えぇ」
「良かった。それじゃあ、よろしくねっ」
「こちらこそ、よろしく」
こうして、一つの友情が生まれた。
遼にとってはとても久しく、そしてある意味初めてとも言える友情。
遼の目から見える世界が、色を変えた瞬間だった……
○――――――――――――――――――――○
「時に村野君」
「どうしたんだ? 改まって。って言うか、何か変だぞ?」
授業と授業の間、わずか10分の休憩時間に、高坂に呼ばれた幸介はそう応えた。
「失敬な」
「って、だから変だって」
「気にすんな。それより、聞きたい事がある」
いつも通りの口調に戻し、高坂は早速本題に入ろうとする。与えられた時間が少ないのだから、まあそれも当然かもしれない。
「何だよ?」
「お前、好きな娘はいるか?」
「は?」
あまりに唐突な質問に、幸介はすっとんきょうな声を上げてしまった。
「だから、好きな娘はいるのか? って聞いてるんだよ」
もう一度同じ事を言う高坂。その様子を廊下から隠れる様に見ていた木島・広瀬・中町・村石の4人が、呆れ混じりに息を吐いていた。
(ストレート過ぎだろ!)
(でも時間ないしなぁ)
(だからって、やっぱ今のはないと思う……)
小声でぼそぼそと話し合う4人。傍から見れば奇妙な4人だが、まあそこは高校という場所の特異性からか、誰も気に留めた様子もない。
(しっ。村野が立ち直ったぞ)
木島のその言葉で、全員が再び教室内に意識を向ける。
「何を言うんだ、いきなり」
「気にすんな。特に意味は無い。で、どうなんだ?」
「……いないよ」
少し考えて、幸介はそう結論付けた。
「本当か?」
「嘘言ってどうするんだよ……」
「それもそうだな。わかった。じゃあな」
そう言って踵を返し、高坂は廊下にいる4人の元へ向かう。
「何だったんだ?」
そんな高坂の背を見つめ、幸介は首を傾げるしかなかった。
「お前はバカか?」
開口一番。高坂は村石のそんな言葉に出迎えられた。
「ひどっ。それが奮闘してきた友人にかける言葉か?」
「うるさいっ。ストレート過ぎなんだよ」
「いや、あいつ鈍感だから、あれくらいじゃないと求める答えが返ってこないんだよ」
「だからって限度があるだろ」
幸介が鈍感だという部分は、誰も否定しない。
「だから、あれくらいじゃなきゃダメ何だって。な、中町?」
「ん? まあ、そうかも」
そこは中学からの付き合いである高坂と中町。村石や広瀬よりも、幸介の事を理解しているのだろう。
「そこまで言うなら、さっきの答えの真意もわかったんだろうな?」
「勿論。多分、誰か気になる娘がいるはずだ」
「そんなんわかるのか?」
と、口を挟む広瀬。
「ああ。もし本当に誰も思い当たる娘がいないんなら、あいつなら即答してたはずだ。それに、あんな普通に返事するだけってのもおかしい。笑い飛ばして、俺をどつくくらいの事はしてもおかしくない」
「…………」
「…………」
高坂の読みに、思わず口を噤んでしまう一同。
「まあ、もう少し様子見てみようぜ?」
「そうだな」
高坂の言葉に頷く村石。他の面子も黙って頷く。
一見解決したかの様に見えるが、そこには確かな確執が残った。高坂はあまり気に留めていない様だが、村石は、そこに3年という月日が隔てる差を、確かに感じていたのだ。
幸介は知らない。
自分の知らないところで、一つの友情に綻びが出来てしまった事を。
気付くはずもない。それはほんの小さな、まだ視線も通らない程の穴だったのだから……