迷惑な恩返し
村野幸介は今日も困っていた。実に困る事の多い男である。
(綾瀬へのお礼……どうしようかな……)
それが今回の悩み事だ。先日、遼に道を案内してもらった幸介は、密かに(?)そのお礼をしようと心に決めていた。決めていたのだが……
どうお礼をすればいいのかわからないまま、既に数日が過ぎていた。
誰かに相談しようかとも思ったが、極力自分の力で解決したいのが幸介である。誰かへの相談は最後の手段に取ってある。相談しない理由には、恥ずかしいというのもあるのだろう。何せ、女の子に対して改めて何かお礼をしようなどというのは、初めての事である。ただ言葉で感謝の意を伝えるだけならまだしも……しかし、それだけでは幸介の気が済まないのだ。
「あー、どうしたもんかなー」
今は昼休みで、本来ならば遊び回っている時間なのだが、この日の幸介は違った。
教室。それも自分の机にかじりつき、その場を動かない。非常に珍しい光景である。
「おーい、村野ー」
「んー。あ、高坂か」
幸介は自分に声をかけてきた人物を見て、そう呟いた。
高坂准。中学からの友人の一人で、今回もクラスメートである。
「あ、高坂か。じゃない」
「あー、悪い。で、どした?」
「おー。今日の放課後、暇あるか?」
「まあ、一応」
本当ならお礼を考えたいところだが、肉体的には暇である事に変わりはない。
「みんなでサッカーするんだけど、お前もどうだ?」
「サッカーかぁ」
「何だよ、いつもは率先して参加するくせに……やけに消極的だな?」
「まあ、俺にも色々とあるのですよ」
「そっか。で、どうするんだ?」
ガクッ。とうなだれる幸介。
(俺の渾身のギャグが……)
どうにもギャグセンスのない幸介であった。
「悪い。今日はパスさせてくれ」
「そっか。わかった。まあ、何だか知らないけど元気出せよな」
「おぅ。サンキュー」
キーンコ-ンカーンコーン
そんな会話をしているうちに、どうやら昼休みが終わったらしく、チャイムがなり響いた。
「ん。昼休み終わったな」
「だな」
「それじゃあ、俺戻るわ」
「おぅ」
自分の席に戻る高坂の背中を見送り、幸介は再び思考を巡らせる。
慣れない作業のせいか、だいぶ疲れてきている様だが……
(結論を出さないと、どうにも気になってダメなんだよな)
難儀な性格だ。
「ああ、そっか」
ふと、幸介はある事に思い当たった。
「直接聞けばいいんじゃん」
素晴らしく単純な答えだった。
しかし、幸介にとってはかなりの名案に思えてならなかった。
(今日の放課後、さっそく聞いてみるか)
そう意を決し、午後の授業に向けて身を引き締める事にした……
○――――――――――――――――――――○
とある日の放課後。生徒達は各々に散っていた。部活に行く者、帰宅する者、教室で話をする者、そして、ただぼぉ~っとしている者。
そんな中、綾瀬遼は教室で何をするわけでもなく、ぼぉ~っとしていた。普段はすぐに帰宅する遼だが、稀にこうして教室に残っている事がある。
「…………」
ただ自分の席に座ったまま、窓越しに外を眺める遼。その姿はどこか憂いを帯びていて、神秘的な雰囲気さえ感じさせる。教室内に残った生徒達による喧騒さえなければ、の話だが……
「綾瀬さん。ちょっといいかな?」
と、声をかけてくる人物がいた。
遼はその声に聞き覚えがあり、胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
「……何?」
遼が振り返った先にいたのは、村野幸介。クラスメートで、つい最近始めて言葉を交わした相手。
「この前のお礼がしたいんだけどさ、正直どうすればいいかわからなくて……何か、して欲しい事とか、もしくは欲しい物とかある?」
この前のお礼。それが先日の道案内の事だと瞬時に理解した遼は、少しだけ驚いた。
「そんなの、いいのに」
「でも、やっぱり何か形として残したいじゃん。まあ、物じゃなくてもいいんだけど。行動なら行動として、しっかりとさ。言葉だけの感謝じゃ、俺の気がすまないんだ」
それはある意味自分本位の考え方ではあるが、きちんとお礼がしたいという事なのだから、悪い事ではない。
「特にないから……そんなに、気にしないで」
少し昔までの遼だったら、「なら、もう私に話しかけないで」くらいは言っていたかもしれない。それは、遼にとって意識した返事ではなかったが、確かに訪れた変化ではあった。
「そう言わずにさ、何かあるだろ?」
しつこい幸介に、遼は困惑していた。いつもならただ辟易とするだけなのに、幸介が相手だと、自分の感情をうまくコントロール出来ない。そんな感覚に囚われている。
「ああ、そうか……急に言われても困るか……」
そんな答えに達した幸介が、思案する様に頭を傾ける。
遼は、少しだけほっとした。
「そうだ。ならさ、別に今答えてくれとは言わないよ」
「え?」
「いつでもいい。何か欲しい物が出来たりしたら、俺に言ってくれよ」
笑顔で言う幸介。
その笑顔を見たとたん、遼の心臓が大きく脈打った。
鼓動の間隔が狭まり、幸介の顔をまともに見る事さえ出来なくなる。
「どう、かな?」
俯く遼を見て不安になったのか、心配そうにそう尋ねる幸介。
「……わかったわ。それじゃあ、何か思いついたら言うから」
「おぅ!」
「それじゃあ、またね」
満足そうに頷く幸介を横目に、遼は鞄を持って立ち上がる。
帰り支度を済ませていた事に安堵を覚えながら、遼は教室から走って出て行く。その慌てた様子に幸介は何も反応出来なかった様だが、遼にとってはありがたかった。
(あの人の声を聞きたくない)
そう思ったから。
まるで、自分が自分じゃなくなる様な、そんな感覚に陥るから。
遼は、幸介のそばにいたくなかった。
そこで初めて気がつく。もう声をかけるな。ただ一言、そう言えば良かったという事に。そして、どうしてそう言わなかったのか、疑問を感じてしまった。
その時、遼は自分に起こった変化に混乱してしまった。どうすればいいのかわからず、とにかく走った。靴を履き替え、自宅まで、ずっと。
(今日はすぐ寝よう)
そう心に決めて、とにかく走った……