そこに絆があるのなら
思い出すのは、当時の記憶――ただただ、そこの在るオレンジ色の世界。
父親と暮らしていながらも、事実上〝独り〟で暮らしていた中学時代。そして、形の上でさえ家を追い出され、本当に独りで暮らしていく事になった。
いつも見ていたのは、あまりにも滑稽な〝ニンゲン〟の姿。
いつも見ていたのは、色の識別の付かないモノクロの世界。
ただ一つ――心に鮮明に焼き付いているモノ。それが、眩しいとさえ思える残照の光り。
ただ一つ。自分の心に差し込んできた、鮮烈なまでのオレンジ色……
世界が、ただ一色に染まる記憶――
それは、ひどく懐かしいモノだった。
本当に孤独を感じる前――そう、既にその兆候があった小学生時代。否、それよりもずっと前から、遼はそのオレンジ色の世界を見て育ってきたのだ。
その場所こそが、自分の生きる世界なんだと、ずっとそう感じてきたのだ。
――自分は月みたいなんだ――
そう思っていた。夕と闇の狭間。その瞬間しか、太陽と出会う事がない。そんな存在。
だが――
(私は、出会った)
村野 幸介という、太陽に……
だからもう、悩む必要なんてない。自分は闇夜に潜む月の影などではなく、太陽に照らされる側の〝ニンゲン〟なのだから。
だから、その〝太陽〟から離れるわけにはいかない。違う。離れたくない。それが、遼の本心なのだ。
「待っててね」
それは、誰に言った言葉なのか――
確証もない、いつもの場所にいると思っている幸介へなのか。それとも、もっと別の何か――
自分の心になのか……
遼は歩く。
おそらく、幸介がいるであろう、その場所へ……
○――――――――――――――――――――○
父親がいない。と、イジメられていた小学生時代。幸介はいつも、一人で空を見ていた。
いつも班分けの時ははぶかれ、独りになる。
普段から、誰も近寄っては来ない。
上履きを隠され、物を投げられる。
幼心に、幸介は思った。
いっその事、まだ暴力を奮われた方がマシだ。と――
小学校高学年ともなると、それ程目立ったイジメはなくなった。
だが、もはや良好な関係など築けるハズもなく、結局幸介は孤立していた。
やはり幸介は、一人で空を見ていた。
青い空。
白い雲。
時間が過ぎ、世界が一変する。幸介は、その瞬間を知っている。
残照――太陽が沈む瞬間の世界。世界はただただオレンジ色に染まり、まるで太陽が最期に燃え上がっているかの様にさえ思える。
日常では、その瞬間を意識する者はいないだろう。だが、幸介は知っている。その瞬間が、いかに美しいモノであるかを。それと同時に、いかに寂しいモノであるかも。
だから、変わろうと思った。
もう、そんな自分ではいたくなかった。
中学に上がり、幸介は自分から周囲に溶け込む努力を始めた。
いつでも皆の話題に付いていける様に、流行に意識を向けた。どんな些細な事も見逃さない様に、気を配る様にもなった。ただ、皆と仲良くなりたい一心で――
元々の性格が後押しとなったのか、それは本人が思っていた以上に効果があった。
村野 幸介という少年は、確かに〝人気者〟と呼ばれる人種になったのだ。
それに後悔はないし、自分を偽ってきたつもりもない。
ただ、初めの頃は多少の無理はあっただろう。だけどそれは、一過性のモノに過ぎない。それはきっと、一つの〝才能〟とも言える。
村野 幸介は、オレンジ色の世界を生きていた。
だが――
それは寂しい事だと自覚していた。だから、抜け出した。
そう――村野 幸介は、その時から変わったのだ。
そうして、綾瀬 遼と出会う。まるで、かつての自分の様な――
陰を帯びた少女に。
もしかしたら、最初から惹かれていたのかもしれない。
あの、初めて瞳を合わせた瞬間から――
○――――――――――――――――――――○
幸介は、沈みかけの夕陽を一人眺めていた。
普通の人にとっては、特別でも何でもない場所。そこはただの住宅街。特別でも何でもないその場所で、幸介はただ立ち尽くしている。顔は空に向け、やがては消えていってしまう夕陽を見つめている。
(まるで、あの時の空みたいだな)
そんな事を考える。幼い頃、【独り】でいた時に見た空。
ただ哀しくて、気分を紛らわす為に見ていた夕焼け。
沈みゆく太陽。残照の時……
思い出す。自分が、独りだった時の事を。
思い出す。自分が、なぜこの場所でこうしているのかを。
今幸介がいる場所は、初めて遼と登校の約束をした場所だ。二人の、初めての約束の場所なのだ。
なぜその場所にいるのか――それは、ちょっとしたすれ違いのせい。否、すれ違いとさえ呼べない様な些細な出来事だった。
気持ちを通じ合わせた二人が、それ故に自身を貶めてしまった。
お互いを、信用しすぎた為に……
それでも、どこかで期待してしまう。だから、こうしてこの場所にいるのだ。幸介は、そう考える。
世界は今、オレンジ色に染まっている。
空も、街の景色も、幸介に映るその世界そのものが――そして、遼の瞳に映る世界も――
「あの」
背後からそんな声が聞こえて、幸介は肩を震わせた。
その声は、今自分が最も求めている声。綾瀬 遼という、一人の少女の声だった。
「綾瀬」
幸介は、ゆっくりと振り返った。そこには、間違いなく遼が立っている。
「お待たせ」
遼は、慣れない笑みを浮かべながらそう言った。
そのはにかんだ様な笑みを見て、幸介は胸をホッと撫で下ろした。
その安堵は、遼がこの場所にやってきたからではなく、自分にまだ笑みを浮かべてくれるんだと、そう思えたからこその安堵とも言える。
だけど、今は単純に――
(綾瀬と会えたから)
そう、思う。
「会いたかった」
「私も」
二人の間に、もう壁はない。言葉すらも、多くは必要とはしない。ただ傍にいられるだけで、二人の心は満ち足りていく。
「ごめんなさい」
「ごめんな」
二人の声が重なる。そして、一瞬の沈黙。
「…………」
「…………」
どちらからともなく、小さく笑い声が漏れ始める。
きっと、お互いに何を言いたいのかが理解出来たから。二人は、今まで以上にお互いの事を信じられる様になったから。
「ありがとう」
幸介は言った。今は、その言葉がしっくりくる。そう、思ったから。
「幸介」
「ん?」
幸介が疑問符を浮かべた瞬間、遼は幸介との距離を詰め、その唇を奪う。
「あ、綾瀬?」
遼の不意打ちに、幸介は慌てふためく。だが、それは決して嫌な事なんかじゃなくて、むしろ嬉しかったりする事で……
「遼」
「え?」
「遼って、呼んで欲しいな?」
遼が、上目遣いに幸介に言う。懇願。とまではいかないものの、どこか必死さが感じられる口調。
「……遼」
少しだけ恥ずかしそうに、だけど、それ以上に幸せな気持ちで、幸介はその名前を呼ぶ。
「うん」
「遼」
もう一度。その名前を噛み締める様に……
「キスしていいか?」
「……うん」
恥ずかしそうに、それ以上に幸せな気持ちで遼は頷いた。
二人の想いは、一つに交わる。
幸介が、遼を抱き寄せ――その唇を、そっと重ねる――
二人が生きてきたオレンジ色の世界。それは哀しい思い出と共にある。しかし、今それらを全て払拭してしまえる様な、最高の思い出が刻まれる。
オレンジ色の世界。それは、二人の幸せを祝う世界。口付けを交わす二人を、優しく、暖かく包み込む世界。
お互いのぬくもりを感じながら、二人はしばらく、そのまま――
幸せな瞬間を、過ごしていた……