不安な気持ちと信じる心
幸介の事を信じていたい。それでも、どこかで疑いを持ち始めてしまっている。遼は、自分のそんな疑惑が許せなかったし、認めたくもなかった。自分は、幸介の事を信じているんだと、そう思いたかった。それでも、一度生まれた感情は、そう簡単には消えてくれない。
遼は一人、通学路を歩いている。いつもよりも少しだけ早く家を出て、学校に向かっている。歩きながら、幸介の事を考える。最近、どこか上の空な幸介。何か悩みがあるのだろうかと、疑問を覚えてからようやく考え付く。だけど、自分では幸介の力になれないもどかしさをも一緒に感じてしまう。
(幸介)
心の中で、愛しい相手の名前を呼ぶ。
自分が幸介の事をどれだけ知っているのか、否――どれだけ知らないのかを、思い知らされる。
(幸介)
もう一度、その名前を噛み締める。その名前が、その人物が、それだけ自分にとって大切な存在なのかを。
「綾瀬っ」
背後から、自分を呼ぶ声が聞こえた。遼はその声に驚きを隠せず、思わず肩をびくつかせてしまった。だが、その次の瞬間には喜びの感情が生まれる。
「幸介」
その声を聞き間違えるはずがない。そう心のどこかで思いつつ、遼はゆっくりと振り返る。その瞳には、少し離れた所から駆け寄って来る幸介の姿が映った。
立ち止まって待っていた遼の元に辿り着いた幸介は、少し息苦しそうに肩で息をしている。
「大した距離でもないのに……運動不足かな」
「そうかもね」
苦笑混じりに、幸介の言葉に頷く遼。
「はぁ――あ、おはよう。綾瀬」
「おはよう」
ようやく息を整えた幸介に、やはり苦笑を漏らしながら応える遼。その笑みは、どこか優しいものを含んでいる。
「今日は早いのね?」
「綾瀬こそ」
二人は普段待ち合わせをしているわけではないが、いつも登校中に出会い、結局二人で学校に向かっていた。もっとも、何度か会う内に暗黙的に約束が成されていたとも言えるが。それでも、今日の様なケースは稀だった。二人して、偶然いつもよりも早く家を出たのだから。
「ちょっと、考え事がしたくて」
「――それは、俺には言えない様な事?」
「そんな事はないけど」
少しだけ悲しそうな表情を浮かべた幸介に、遼はバツが悪そうに返す。
「でも、大した事じゃないから」
「そう? ならいいんだけど」
幸介はそれ以上言及しない。自分自身、ここ最近遼に何も相談せずにいたのだ。無理に聞き出す事は出来ない。
それから、二人は大して意味を持たない世間話をしながら学校に向かった……
○――――――――――――――――――――○
綾瀬 遼は、自分でも良くわからない何かに怯えていた。
それは、幸介の事を何も知らないという不安。
幸介が何を思い、何を考え行動しているのかわからない不安。
正体不明の恐怖は、全て幸介によって与えられるモノだ。
「…………」
偶然出会った今朝。不安を隠しきれなかった自分。そんな自分に手を差し伸べてくれた幸助。だけど、それに応えられなかった自分。
幸介を信じたい。だけど、自分を信じられない。それならば、幸介を信じたい自分も疑わなければならないのか……
それは矛盾。それはジレンマ。もはや遼は、何を信じればいいのか判断する事が出来なくなっていた。
昼休み。
一人空き教室へとやってきた遼は、ただ黙々と昼食をとる。食べている間も、ずっと幸介と自分の事を考えていた。
それでも、自分が正しいと思える答えは導き出せなかった。
それもまた、不安で仕方がない――
昼休みの間中、ここで考えてみよう。
遼はそう決心し、ふと窓の外に目を向ける。
空が、青い――
もし、この昼休みの間に答えが出ないのならば、誰かに相談してみよう。
今まで思い浮かびもしなかったそんな考えを浮かべ、遼は再び思考に没頭する。相談出来る相手がいる。それだけで、心が軽くなった気がした。だから、今は考える事に集中出来るのだという事に、遼は気が付いていない。もはや、それが自然なものなのだと感じつつある。それは間違いなく、今までの遼では有り得なかった事だ。だから、たとえ遼自身が気が付いていないとしても、遼は間違いなく変わったのだ。
キーンコーンカーンコーン。
無常にも、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
(放課後、優子達に相談してみよう)
自然とそう思い浮かべ、遼は空き教室を後にした。
○――――――――――――――――――――○
「綾瀬」
放課後になった途端に、幸介が自分の席にやってきてくれて、遼は何だかそれだけで嬉しくなった。だけど――
「一緒に帰ろうぜ?」
「ごめんなさい」
幸介の誘いを、断る以外の選択肢が思い浮かばなかった。
信じたいのに、どこかで疑ってしまう自分がいる。それが嫌で仕方がない。
「優子達と、約束があるの」
微かに訝しげな表情を浮かべた幸介に、言い訳する様に付け足す遼。
それは嘘。約束など、存在しない。
「そっか。ならしょうがないな」
笑顔で頷く幸介。そんな幸介を見て、遼は胸を痛める。しかし、幸介に今の思いを打ち明ける事は出来ない。
「それじゃあ、また明日な」
「あ」
そう言って踵を返す幸介に、遼は何も言えなかった。ただ、その背を見送る事しか出来ず、そんな自分にも嫌気が差す。
まるで、昔の自分に戻り始めた様で――
(そんな事ない)
脳裏を過ぎったそんな考えを振り払う様に、必死で頭を振る。
このままじゃ、どうかしそうだ。
「遼?」
遼の様子を変に思った優子が、そっと遼の席に近付き声をかけた。
「優子……」
「どうかしたの?」
「……うん」
一瞬、言おうかどうか悩んでしまったものの、遼は意を決して、しかし弱々しく頷いた。
「あたしに、言える事?」
「うん」
「なら、聞いてあげる」
その名前が表す様に、優子は優しく遼に語りかける。
「うん、ありがとう」
優子の前だと、素直になれる。遼は、その事に自分でも気付いていた。なぜこんなにも優子を信頼出来るのか、その理由まではわかっていなかったが、それでも優子には心を許せた。
「場所、変えようか?」
まだ、教室にはたくさんの生徒が残っている。遼は頷き、二人は教室を後にした。
やってきたのは、遼が昼に訪れた空き教室。
二人は適当な席に、向かい合う様に座った。
「それで、どうしたの?」
心配そうに、遼に尋ねる優子。前置きも何もあったものではないが、それは優子の優しさでもあった。問題は、早く解決するに越した事はないのだから。
「前に、言ったよね……私は、幸介を信じてるって」
「うん」
「でもね、わからなくなったの」
それは、正直な遼の気持ち。信じたい。それなのに、信じ切れない想い。
「わからなくなったって……信じられなくなったって事?」
「そうじゃないっ。そうじゃ、ないけど……でも、どこかで、幸介の事を信じられない自分がいる。それが、わかるの」
哀しみを含んだ言葉。その感情が、どれだけ遼を苦しめているのか、優子は知る術を持たない。しかし、その苦しみを和らげてやる事は出来る。優子は、その事を知っている。だから、優しく呟く。
「大丈夫」
「え?」
「そうやって悩めるって事は、遼がそれだけ村野君の事を想ってるって事だから。大丈夫だよ」
「でも――」
「大丈夫」
優子の言葉に納得出来ない遼だが、その反論さえ遮り、優子は言う。
「もう一回言うよ。大丈夫。遼は、村野君の事が好き。村野君も、遼の事が好き。ただ、彼は優しくて、不器用なだけだから」
「どういう事?」
「…………」
遼の問いに、優子は答えない。優子は、遼の知りたい事を知っている。それを伝えるのは簡単だ。だが、それでは本当の意味での解決はない。
「遼」
「?」
「信じる者は、救われるから」
その言葉が、なぜか遼には重く感じられた。だけど――
ずっと信じていた。なのに、相手にされず……
どこかで、信じられなくなり始めてきた。だけど、幸介は自分の事を見てくれる様になってきた。否――戻った。と言うべきか。
なら、自分がどうするべきなのか――
「わかっているのかもしれない」
違う。自分が、するべき事があるはずだ。
それは、信じる事。ただ、相手の事が好きなのなら、信じていればいい。
今、遼は心からそう思えた。
「優子」
「ん?」
「ありがとう」
その言葉は、遼の心からの言葉。だから、優子もそれに応えて頷く。
「どういたしまして」
きっと、こんな関係がこれからも続いていくのだろう。
二人は、とても良い関係を続けていける。
それから二人は別れ、別々に帰宅する事にした。
遼が、行きたい所があるから。そう言ったから。
なぜか、そこに行けば会える気がしたから。
そこに行けば、幸介がいる気がしたから。
急いではいない。なぜか、急いではいけない。そう感じた。だから、遼はゆっくりと歩いている。
まだ日が沈むには早い。しかし、少しずつ傾き始めていた。
きっと、二人が出会う頃には、世界はオレンジ色に染まっている事だろう。