深まる絆
午後の授業が開始され十数分。教室には、遼と優子の姿がなかった。
さすがの幸介も、遼の姿がない事に気が付き、たちまちに頭の中が遼の事でいっぱいになる。
(綾瀬、どうしたんだろう……)
授業の内容など既に耳に入っておらず、とにかく遼の事を考える。
(そういや、霧島もいないな……)
ざっと教室を見回し、そんな事に気が付く。
(どういう事だ……? もしかして、綾瀬と霧島は一緒にいるのか……?)
どんなに考えても、答えは出て来ない。最も、幸介の思いつきは正しいわけだが、どう幸介が頭を悩ませた所で、その理由は思いつきもしない。
「村野」
「…………」
黒板の前に立つ教師が、不意に幸介を呼んだ。だが、幸介はそれに気付かない。
「おい、村野」
「…………」
「村野幸介!」
全く反応しない幸介を見かね、大声で叫ぶ教師。
「はい!?」
さすがに耳に届き、驚きを隠せずに思わず立ち上がる幸介。周囲から、クスクスと苦笑が漏れている。
「そんなに授業は面白くないか?」
「い、いえ……そんな事はないです」
「じゃあ、これからはもっとマジメに聞いてくれよ?」
「は、はい。すいませんでした」
頭を下げ、席に着く幸介。教師はそれで納得したのか、授業を再開する。幸介に答えさせようとしていた問題は、他の生徒に答えさせる。
(今、数学だったのか)
教科書やノートを広げてはいるものの、それは無意識のうちに用意していたらしく、幸介はそんな事を思う。
注意されて早々に物思いに耽る程大物ではない幸介は、とりあえずマジメに授業を受ける事にした。
そんな中、佳乃は思う。
遼が教室にいない理由。それが、自分のせいなのではないかと。
(あの時、もしかしたら……)
聞かれた。なぜか、そう確信すら持てた。
佳乃は腹を決める。おそらく、自分がこれから受ける言葉を、真っ直ぐに受け止めなければならない。それが分かっているからこそ、意思を強く持たなければならない。
(あたしは、結果が分かってて告白したんだから……)
それを知った遼の反応を、予測していなかったわけじゃない。遅かれ早かれ、きっと気付くと思っていた。だからこそ……
(放課後、かな)
おそらく遼もそう考えているはず。なぜかそんな確信も持ち、佳乃は一人心の中で頷く。これから先、周囲との関係がどう変わるのか、変わってしまうのか……
変わってしまう事を恐れない為に、自分を奮い立たせる為に……
○――――――――――――――――――――○
午後の授業が終わり、HRも終わる。
幸介はチャイムが鳴ると同時に立ち上がり、荷物も持たずに教室を出る。どこにいるのかは分からない。それでも、探さなければ。幸介は、強くそう感じていた。
が。
慌てた様子で教室を出ようとした所で、幸介は思わぬ人物とぶつかった。
「……綾瀬」
「幸介……どうしたの?」
小さく声を上げてから、ぶつかった相手が幸介だと理解した遼が、きょとんとしながら尋ねた。
「どうしたの? じゃないっ」
その口調は、いつもの幸介にしてみれば十分に強いものだった。
「どこ行ってたんだよっ? 俺が、どれだけ心配したと思ってるんだ?」
厳しさを帯びながらも、それが本気で遼を心配していたからだと、真っ直ぐに感じられる口調。
「ご、ごめんなさい……でも、大丈夫だから……」
「大丈夫?」
その言葉の意味を理解しかね、首を傾げる幸介。
「ごめん……今日は、先帰っててくれる?」
最近はいつも一緒に登下校をしている二人だったが、遼が物悲しそうな表情でそう呟いた。
「え? あ、ああ。別にいいけど……」
釈然としないまでも、幸介は頷いた。何となく、そう答えなければいけない気がしたのだ。
「それじゃあ、また明日。いつものところで」
「……ああ」
幸介は頷き、一度荷物を取りに教室に戻る。「じゃあな」とだけ言って、今度こそ教室を後にする。遼が早く帰って欲しいと思っている。幸介はそれを感じ取ったからこそ、それ以上何も追求せずに教室を出た。少し寂しさを覚えながらも、遼の事を信じているから。だからこそ、幸介はそれ以上何も聞かなかった。
幸介が帰るのを見送った遼は、教室の中へと目を向ける。
「遼、大丈夫?」
いつの間にかやってきていた優子が、背後から声をかけた。
「大丈夫」
小さく、だけど確かに頷く。
遼の視線は、自分の席から立ち上がった佳乃へと向けられている。佳乃はその視線に気付いたのか、それともその視線が向けられる事が分かっていたからなのか、遼の視線へと自分の視線を絡ませる。二人の視線はぶつかり合う。どちらもそれを外そうとはしない。
沈黙は長くは続かなかった。佳乃が遼へと近寄り、口を開く。
「どこで話そうか?」
「静かなところがいいと思う」
「それじゃあ、この時間なら屋上かな」
「そうね。それじゃあ、行きましょうか」
険悪。というわけではない。しかし、どこかぎこちない雰囲気と口調。優子は二人の為に道を退く。そんな優子に軽く笑みを向けてから、遼は屋上へと向かって歩き出した。反対に、佳乃は優子とは目を合わせようとはせずに、遼の後に続いた。
○――――――――――――――――――――○
「多分、お互いに何の話なのか分かってると思うけど……」
屋上に着くなり、佳乃が切り出した言葉。何の前置きもないその言葉に、遼は一瞬ドキリとする。
「昼休み。聞いたんでしょ?」
「……えぇ」
静かな佳乃の問いに、少し間を置いて頷く遼。
「でも、多分最後までは聞いてない。違う?」
「どうして?」
確信を込めた口調に、遼は聞き返した。
「だって、最後まで聞いてたら、遼は今そんな複雑な表情はしてないはずだもん」
「どういうこと?」
もう一度聞き返す。佳乃は全てを知っていて、自分は何も知らない。そんな錯覚に陥りながらも、それでも答えを求めてしまう。
「その質問には答えてあげる。でも、その前に言っておきたいことがあるの」
「なに?」
「あたしは、村野君のことが好き」
目の前にして、本人の口からその言葉を聞き、少なからずショックを受ける遼。言い切った佳乃に、遼は何も言えない。そんな遼を見て、佳乃は苦笑を浮かべる。
「でもね。遼のことも、好きだよ。だから、自分の気持ちに気付いた時、すごく悩んだ。でも、抑え切れなかった……だから、この気持ちだけは、伝えておこう。そう思ったの」
そう言う佳乃の瞳は、どこか悲しみを帯びていて、遼は思わず視線を逸らしてしまう。逸らしてはいけない。そう思いながらも。
「遼」
名前を呼ばれ、遼は一瞬肩を震わす。瞳を逸らした事が、罪悪感へと結びついてしまったのだろうか。
「あたしは、こう思うんだ。もし、あたしが告白して、遼からあたしにのりかえる様な人だったら、あたしは好きになってなかった。って……普通なら、自分の想いに応えてくれたら、嬉しいものなのかもしれない。だから、あたしが勝手にそう思ってるだけ。だけど……そう思っていたい」
「佳乃……」
「遼の中でも、答えは出てたと思う。その答えは、間違ってないよ。村野君は、あたしの想いに応えてない。あたしは、ちゃんと振られたから。だから、遼は何も不安にならなくていいんだよ」
「…………」
「あたしは、遼から村野君を奪いたいと思ってるわけじゃないし。ただ……踏ん切りを、つけたかっただけだから……」
「佳乃……?」
今まで気丈に振る舞っていた佳乃の語調が、だんだんと途切れ途切れに、弱々しいものへと変わってきた。遼は、佳乃の変化に軽く動揺する。
「ご、めん……でも、これで、ちゃんと、諦められたから……大丈夫……あたしは、遼も好きだから……ごめん、ね……」
佳乃は俯き、ゆっくりと言葉を発する。遼はその言葉に涙が混じっている事に気が付きながらも、それは見なかった事にした。
精一杯に強がる佳乃。遼の事を思い、自分の気持ちを抑え込んできた佳乃。諦める為の告白。振られる事が分かっていた想い。それをぶつける事が、どれだけ勇気のいる事なのか、遼は知らない。分からない。それでも、佳乃の哀しみは理解出来た。今までに自分が感じてきた幸せ。それが、手に入らなかったとしたら……
そっと佳乃へと近寄り、その肩を抱く遼。自分が優子に助けられた様に、今度は、自分が佳乃を助けたい。そう思ったから。
「ごめんね、佳乃」
だから遼は、そう言った。それは遼のせいではないし、佳乃のせいでもないけれど……それでも、謝ろうと思った。それで、少しでも佳乃の傷が癒えるのならば、と。
「……あたし達、これからも友達だよね?」
「……うん」
遼の言葉に、佳乃が弱々しく、だけど確かに頷いた。
それは、ある種の始まり。
一度失いかけるところだった、一つの友情の、新たな出発点。
きっとそれは、前よりも強固なモノとなり、二人の絆をより強く結んでいく。
壊れぬ様に、壊さぬ様に……
二人は、しばらくお互いを感じ合っていた。
風が、屋上を吹き抜ける。やがて訪れるオレンジ色の世界を、静かに待っているかの様に……