それぞれの生活
私立秀栄高校1年C組、川原佳乃は恋をしている。
それは誰にも言っていないし、誰にも知られていない、自分の胸の内に秘めてある気持ち。
表にその気持ちを出した事もないので、気付いている人物もいないはず。
と、佳乃自身は思っている。それは正しくて、現時点では誰も気がついていない。
川原佳乃という人物が、ある人物に恋をしているという事実は、本人以外には誰も知らないし、それを誰かに教えるつもりもなかった。
佳乃が好意を寄せる相手。それは、同じクラスの村野幸介。
今までに恋愛経験のなかった佳乃は、その気持ちに燻りを感じているだけだった。
その想いに自身がハッキリと気がついたのは、幸介に恋人が出来た時だった。
その恋人の名前が、綾瀬遼。二人が付き合い始める直前に出来た、佳乃の新しい友人。
友達になりたいと思っていた相手と友達になれた途端――いや、ほぼ同時に、佳乃は初めての失恋を経験した。
皮肉な話だ。
佳乃はそう思った。
しかし、その気持ちを表に出すつもりはなかった。せっかく結んだ友情を壊したくはなかったし、自分の感情を理解するに至るのが遅すぎたと、自覚出来たからだ。
自分が悪い。そう、ハッキリと認識出来る。
(バカだな、あたし……)
テキパキとした性格。リーダーシップを取る事に優れ、今までそうした役職につく事も多かった。だから、自然と出来たグループの中心となっていた。幸か不幸か、その状況が初めての恋愛感情を上手く誤魔化してきたのだ。
だから。と、佳乃は思う。
これからも、そうすればいい。と……
今まで通り、同姓の友人達の中心にいれば、忙しなく動き回っていれば、嫌な事は忘れられると……
(忘れよう)
ただ、偶然生まれ、気がついてしまった想い。
そんな想い、気がつかなければ良かった。そう思っても、気がついてしまった以上それをなかった事には出来ない。だから――
(忘れよう)
そうすれば、全てが上手くいく。
そう信じて、佳乃は目を瞑る。
明日は休日。遼や、他の友人達と一緒に遊びに行く約束をしている。
気持ちを切り替えなければ……
そんな事を考えながら、佳乃は眠りについた。
明日になれば、燻っていた想いなんて、全てなくなっていると信じて……
○――――――――――――――――――――○
それは良く晴れた日の午後。
霧島優子は、休日を満喫するべく家でごろごろしていた。
普段は快活に動き回るので、運動が好きとか、動いていないと落ち着かないなどと思われがちだが、実は優子は眠る事が大好きな女の子だった。
というか、面倒臭がりなのだ。それも、自分一人だけに関する事のみに対して。
誰かに迷惑をかけるわけでもなく、ただ自分一人の責任下で行われる事だと、極端に面倒な事を嫌うのである。
「優子姉、邪魔」
ごろごろしている場所が悪かったのか、声をかけられて身を起こす優子。
声をかけてきたのは、優子の弟の健一だ。
優子の家族構成は、両親と妹の晴美。そして弟の健一の五人家族。一つ下の晴美は中学3年生で受験生。そして中学1年の健一。三者三様に性格は全然違うが、3人は仲が良い。
健一に至っては、「優子姉」「晴美姉」と二人の姉に懐いているし、晴美は晴美で優子の事をかなり信頼している。優子という長女を中心に、姉弟は仲良く生活をしているのだ。
その仲の良さには遠慮なんてものはほとんど存在せず、姉に対しても邪魔なものは邪魔と言い張れるというわけだ。
「健一は偉いねぇ」
などと言いながら、優子はごろごろしていた居間を出る。
優子という邪魔者がいなくなった隙に、健一は途中だった掃除機かけを再開する。
優子が健一を偉いと言ったのは、つまりはそういう事だ。家事の手伝いなど、優子は滅多にしないからだ。
からかわれる方も慣れたもので、大して反応もせずにいたものだから、優子はつまらないと感じつつもそれ以上は何も言わず、自分の部屋に戻った。
コンコンと、扉をノックする音が控え目に聞こえ、優子は返事をする。
「はーい?」
「お姉ちゃん」
小さい声だが、聞き取れない程ではない。それに言い回しから、優子は相手が誰だかすぐに理解した。
「入っていいよ」
「うん」
と、ノック同様控え目に扉が開き、部屋の中に一人の少女が入ってきた。
と、もったいぶらなくてもすぐにわかる事だが、優子の妹の晴美だ。
「どうしたの?」
学校と同じ様に、明るい口調でそう尋ねる優子。
晴美の声が小さいのは昔からなので、それに対して特に感じていない。だから、いつも通り。
「ちょっと、勉強で行き詰っちゃって……」
「なになに? お姉ちゃんに任せなさい♪」
学校とほぼ同じノリだが、ただ一つ違うのは、優子が〝お姉ちゃん〟である事だ。いつもの同等の立場とは違い、たとえほんのわずかでも上の立場にいる。それを意識しているわけではないが、それでも優子は〝年上〟であろうとする。姉としての、ほんのわずかな誇り。とでも言うべきか。しかし、それを誇示しようとしているわけではない。あくまでも自然に。頼りにされる様に振舞っているだけである。だからこそ、優子は晴美と健一に好かれているのだ。
「数学の問題なんだけど……」
と、テキストを見せる晴美。
こう見えて、優子は割りと頭が良い。特に理数系に強く、高校に入った今も勉強でそれ程困った様子はない。
周囲の友人達からは、揃って意外。と言われているが……
「はいはい。どれどれー? あ、これはね……」
と、テキパキと数式を晴美に教え込んでいく。
自分で理解している上に、教え方も上手い。実は教師に向いているのかもしれない。
「ありがとう」
勉強を見てもらった晴美は、ご満悦の表情でそう言った。
「いいえ。晴美は受験生だからね。あたしも去年は苦労したし……出来る限り、協力はするから。わからない事があったら何でも聞いていいよ。って、前にも言ったけど」
「うんっ」
「あ、理数以外はあんまり力になれないからね?」
と、念を押しておく。
「うん」
クスクスと小さく笑みを零しながら、「それでも、ありがとう」と言って、晴美は優子の部屋を去っていった。
その頃にはもう陽が沈み始めており、空はオレンジ色に染まっている。
これから、もっとその深みを色濃くし、赤い世界へと姿を変えていく。
まるで、何かを暗示しているかの様に……
○――――――――――――――――――――○
村石悠二は、クラスから孤立し始めていた。
表面上はそうでもないが、悠二自身が、周囲とコミュニケーションを取らなくなってきたのだ。
高校に入って、クラスが発表されて。
悠二と同じ中学校から上がってきた生徒は一人もいなかった。
自分は独りだ。
悠二は、そう思い始めていた。
最初は違った。
村野幸介……その一人を中心に、違う中学から上がってきた木島裕二と広瀬弘一。そして、幸介と同じ中学から上がってきた中町宏司と高坂准。そして自分。他のクラスメートともそれなりに仲は良くなったが、その5人は主立ってつるんでいた。
それなのに……
(俺は、皆の事を何も知らないんだ)
一人だけ、誰の過去も知らず、一人だけ皆の事を理解出来ていない。
それは間違いとは言い切れない面もあってか、悠二は必要以上に自分は何も知らないと思い込んでいた。
そして、まるでそれを指摘された様で……
悠二は、高坂に対して嫉妬を覚えた。
自分がバカにされている様に感じ、高坂の事を目ざとく思う様になった。
それからだ。
悠二が、クラスとの接触を取らなくなったのは。
(俺は、皆とは違うんだ……)
そう思ってしまうのには、訳があった。
悠二――というよりも村石家は、悠二が中学を卒業するとほぼ同時に、この街へ引っ越してきたのだ。
だから、悠二には知り合いがいない。
それが余計に、悠二に孤立感を覚えさせる。
「悠二ー」
階下から、悠二を呼ぶ声がした。
悠二は寝かせていた身体を起こし、ベッドを降りる。
「悠二ー?」
もう一度声がし、悠二は「今行く」とだけ言って、直ぐに部屋を出た。
「何だよ?」
一階に下りた悠二は、自分を呼んだ母親に向かってそう尋ねた。
「ちょっと、お話したいなって思って」
「はぁ?」
「だって、帰ってきた時の悠二の顔――かなり、酷かったから……それに、最近元気ないみたいだし」
そんなに態度に出ていただろうか?
そう思ったが、やっぱり出てたんだろうな。という結果に終わった。今までずっと自分を育ててきた親が言うのだから、そうなのだろう。と……
「もし何かあるんだったら、お母さんに話してみて?」
「…………」
悠二は黙り込む。
何もないわけじゃないし、誰かに聞いて欲しい。という願望はある。しかし、それは母親に対しては出来ない。悠二はそう思っている。
引っ越してきた事に理由の一端がある事は、悠二自身理解しているからだ。
「何でもないよ」
「……本当に?」
悠二の顔を押さえ、瞳を見つめて問う。
悠二はその瞳を見つめ返す事が出来ず、逸らしてしまう。
それでも、
「本当だよ」
と、小さく言った。
「……そう。わかった。今は何もなくても、もしこれから何かあったら、ちゃんと話してね?」
悠二が何かを隠している事をしっかりと理解した上で、母親は優しくそう言った。
悠二は無言で頷き、踵を返す。
「直ぐに夕飯作るから、少ししたら降りてきなさい」
「ああ」
そう答えて、悠二は自分の部屋に戻って行った……