九月一日の目覚まし
九月一日の目覚まし
胃の奥が冷たく縮み上がるような嫌な重みを感じながら、私は流し台の前でよれた灰色のTシャツの裾を握りしめていた。二〇二六年九月一日、昼時の台所には、昨日スーパーの特売で買ってきた塩鮭を焼く香ばしい煙と、少し煮詰まりかけた大根の味噌汁の匂いが立ち込めている。毎年この防災の日になるとテレビが騒ぎ立てる過去の震災特集のせいで、朝から妙な胸騒ぎが消えなかった。フライパンの火加減を弱めようと手を伸ばしたその時、足元から地響きのような鈍い音が響いてきた。
「おい、なんか揺れてないか」
心臓が喉元まで跳ね上がり、呼吸がうまく吸い込めなくなるほどの焦りが全身を駆け巡った。最初は小刻みだった振動は、一秒も経たないうちに激しい縦揺れへと変わり、茶碗や平皿が食器棚のガラス戸にぶつかり合ってけたたましい音を立て始めた。かつて祖母が「大きな揺れが来たらまず火を消せ」と口を酸っぱくして言っていた教訓を思い出し、濡れた布巾を握ったまま震える指先でコンロのつまみをひねり落とした。頭上から落下してきたプラスチックの調味料入れが乾いた音を立てて床を転がり、砂糖の白い粉がスリッパの甲に散らばる。
「嘘だろ、震度六はあるぞこれ。早く頑丈な机の下に入れ!」
視界がぐらぐらと傾いて足を踏ん張ることすらできず、冷や汗が額から顎へと伝い落ちていく。リビングの本棚からは何年も読み返していない文庫本や古い家計簿が雪崩のように床へ滑り落ち、壁に掛けたカレンダーが狂ったように左右へ振り子運動を繰り返していた。築三十年を超えるこの古い木造家屋の柱がきしみ、今にも天井が抜けて落ちてくるのではないかという恐れに呑み込まれそうになりながら、私は食卓の四本脚にしがみついて目を固く閉じた。床板を通して突き上げてくる猛烈なエネルギーは、人間のちっぽけな体など簡単にへし折ってしまいそうだった。
「お願いだから、早く止まってくれ……!」
胸を強く締めつけられるような圧迫感の中で、耳の奥に響く自分の激しい鼓動だけを数えていた。揺れは一向に収まる気配を見せず、遠くでガシャンと大きな窓ガラスが割れるような鋭い破片音が響き渡り、続いてどこかの飼い犬が怯えきった声で吠え続けているのが聞こえた。もう何もかもおしまいかもしれないと諦めかけた刹那、けたたましい金属音が頭上から一直線に鼓膜を貫いた。
――ピピピピ、ピピピピ、と規則正しく鳴り響くその音に驚いて跳ね起きると、首筋に冷たい汗をびっしょりとかいた自分がいた。目の前には崩れた本棚も割れた食器もなく、ただ薄暗い寝室の畳と、毛玉だらけの薄手のタオルケットが足元に転がっているだけだった。枕元に置いた古い目覚まし時計の針は、午前六時ちょうどを指して小さく震えている。
「……なんだ、夢かよ。心臓に悪すぎるだろ」
安堵で力が抜け、私は深くため息をつきながら寝汗で肌に張り付いたTシャツの襟元をパタパタとあおった。窓の外からはスズメのちゅんちゅんという鳴き声と、新聞配達の原付バイクが遠ざかっていく聞き慣れたエンジン音が穏やかに響いてくる。立ち上がって居間へ向かうと、昨日脱ぎっぱなしにしてあった靴下が転がったままで、ちゃぶ台の上には飲みかけの麦茶が入ったコップと、赤鉛筆で「九月一日・防災点検」と丸がつけられたカレンダーが静かに朝日を浴びていた。顔を洗うために蛇口をひねると、冷たい水道水が指先を心地よく冷やしてくれた。
「朝飯を食ったら、物置の非常持ち出し袋の乾パンと水を確かめておくか」




