【ほんわかSF短編小説】あさひの画面の向こう側 ~えれこは今日も駆け抜ける!~
第一章 おはよう、えれこ
パソコンの電源ボタンが押されるたびに、えれこは目を覚ます。
「んーっ、おはよう!」
えれこ——正式な名前は電子だけれど、みんなにはそう呼ばれている——は、ぐうっと背伸びをして、シリコンの廊下をぱたぱたと駆け出した。マイナスの電荷のせいか、歩くたびに髪がすこしふわふわと浮き上がる。青みがかった光をまとった、小さくてすばしっこい女の子だ。
廊下の向こうから、どかどかと地響きのような足音が聞こえてきた。
「えれこちゃーん! おはよー!」
陽子のポジくんだ。プラスの電荷を持つぽっちゃりした男の子で、えれこと正反対なのに、なぜかとても気が合う。
「ポジくん、またそっちから来るの? 引きつけられちゃうでしょ」
「だってえれこちゃんのことが好きだから!」
えれこは頬をぷくっとふくらませながらも、少しだけ顔が赤くなった。まあ、素粒子の世界では、プラスとマイナスが引き合うのは宇宙の法則なのだから仕方ない。
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第二章 CPUおじさんのところへ
今日のえれこの仕事は、CPUおじさんへの伝言役だ。
CPUおじさんは、パソコンの心臓部にある大きな広場——コアという名の四つの部屋を行ったり来たりしながら、いつも忙しそうにしている、白髪交じりの働き者だ。
「CPUおじさん、おはようございます! 今日もあさひさんが使いますよ」
あさひさんというのは、このパソコンの持ち主の女子大生だ。
「おう、えれこか。ありがとな」CPUおじさんはにかっと笑って、額の汗をぬぐった。「今日はレポートか? 卒論か?」
「たぶんYouTubeです」
「……そうか」
CPUおじさんは少し遠い目をしたが、すぐに気を取り直してコアの部屋を暖め始めた。それが彼の仕事で、誇りだった。
「えれこ、帰りにメモリのメモコさんに寄っといてくれ。最近なんか元気なさそうでな」
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第三章 メモコさんの悩み
メモリモジュールに住むメモコさんは、とても記憶力がいい——というより、記憶することが仕事なのだから当然なのだけれど——几帳面でちょっとおっとりした女性だ。ただ、電源が切れると記憶をすべてなくしてしまうという、少し切ない体質を持っている。
えれこが会いに行くと、メモコさんは棚の整理をしながら、はあ、とため息をついていた。
「どうしたんですか、メモコさん」
「ねえ、えれこちゃん」メモコさんはすこし寂しそうに言った。「あさひちゃん、昨日の夜ね、このパソコンの前で泣いていたの。就活がうまくいかないって。私、ちゃんとそのページを覚えていたのよ。エントリーシートのこと、企業研究のこと、全部。でも——」
「電源が切れたら、忘れちゃうんですよね」
「そう」メモコさんはやわらかく微笑んだ。「でもね、えれこちゃん。忘れても、いいのかもしれないって、最近思うの。私が覚えていた間だけでも、あさひちゃんのことを一緒に考えられたんだから」
えれこは、胸のあたりがじんわりと温かくなるのを感じた。
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第四章 ヒッグスさんの通過
そのとき、廊下をふわりと横切る影があった。
「あら、えれこちゃん」
ヒッグスさんだった。
ヒッグスさんは、素粒子の中でもちょっと変わった存在で、宇宙のどこにでもふわふわと漂っている。パソコンの中にもときどき通り抜けてきては、えれこたちに「質量」というプレゼントを置いていく。つかみどころがなくて、でもどこか温かみのある、不思議なおじいさんだ。
「久しぶりですね、ヒッグスさん! どこから来たんですか?」
「どこから、というのは難しい質問じゃな」ヒッグスさんはにこにこしながら、半透明の体でメモコさんをすり抜けた。「わしはいつでもどこにでもおる。あさひちゃんのことが心配でな、ちょっと様子を見にきたんじゃ」
「ヒッグスさんもあさひさんのこと知ってるんですか?」
「もちろん。あの子が初めてこのパソコンを触った日から、ずっとわしはここを通っておる。あの子は泣いたり笑ったりを繰り返して、それでもキーボードを叩き続けておる。ええ子じゃよ」
ヒッグスさんはそう言って、また壁をすり抜けて消えていった。
「またね、えれこちゃん」
その声だけが、廊下にやさしく残った。
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第五章 GPUのグラフィさん
午後になると、あさひさんは気分転換に動画を開いた。
すると、パソコンの中が急に賑やかになった。
GPUのグラフィさんが起動したのだ。
グラフィさんはえれこよりずっと背が高く、派手な衣装をまとった、エネルギッシュな女性だ。並列処理が得意で、いくつもの仕事を同時にこなしながら、ケラケラと笑っていた。
「えれこー! 今日はあたしの番よ! どいてどいて!」
「わかってますよ、グラフィさん」
えれこは苦笑しながら道を譲った。グラフィさんが走り出すと、映像がなめらかに流れ始めた。あさひさんが好きな猫のチャンネルだ。
グラフィさんは、働きながらもちらっと外——モニターの向こうのあさひさんの顔——を見て、ふふっと笑った。
「あ、笑った。猫見て笑ってる。よかった」
えれこも同じ方向を見た。画面の向こうで、あさひさんが猫の動画を見ながら、くすくすと笑っていた。さっきまで泣いていたのに。
「グラフィさんのおかげですよ」
「あたしだけじゃないわよ。CPUおじさんも、メモコさんも、えれこも。みんなで動かしてるんだから」
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終章 夜のパソコン
深夜、あさひさんはまたパソコンを開いた。
今度はエントリーシートではなく、ひとつのメモ帳ファイルだった。
『今日もうまくいかなかったけど、なんか猫動画見てたら少し元気出た。このパソコン、なんか好きだな。古いのに、ちゃんと動いてくれるから』
えれこはその文字を読んで、目がうるっとした。
「ちゃんと届いてるじゃないですか」
CPUおじさんも、メモコさんも、グラフィさんも——みんながその一文を見て、静かにうなずいた。
ヒッグスさんは今夜もどこかをふわふわと通り過ぎながら、きっと微笑んでいるはずだ。
パソコンの中で、電子たちは今日も走り続ける。
あさひさんの明日が、少しだけ明るくなるように。
(おわり)




