【9話】雨
陽が沈み、群青に溶けていく空を赤い龍が飛び去る姿を見送った。
まもなく森は夜に沈む。
——雨の匂いがした。
「ごほ……っ、げほっ……!」
かまどの前に立ち、夕食用の鍋をかき混ぜていたシャルドルートは、淡い鼠色のローブの袖で口元を覆い、激しく咳き込んだ。
一度出た咳はしばらく止まらない。
ニャルはダイニングテーブルの下でいつものようにドタバタと、相棒のクッションとの死闘を繰り広げていたが、その咳を聞いてテーブルの下から出てきた。
「ニャウニャ……」
足元から見上げた先のシャルドルートの体は上下に揺れ、流し台の縁を掴んだ指先は力を込め過ぎて関節が白んでいた。
「大丈…夫っ……いつものやつだから……」
心配そうなニャルに声をかけるため、咳の途中で息を吸い込むたび、喉の奥からひゅう、と細い音が漏れた。
「多分……もうすぐ雨が降るんじゃないかな……」
口元を袖で覆ったままそういって、かまどの前を離れる。
開け放していたガラス窓の外からは湿った風が、部屋の中に冷えた土の匂いを運んでいた。
シャルドルートは窓をガタつかせながら両手で閉める。
ガラス窓に映ったシャルドルートの顔は、頬だけがやけに赤く火照り、それ以外は血の気が抜けたように白かった。
「ニャーゥ……」
「そんな顔…すんなって…ゲホッ……平気平気」
喉の奥でかすかな喘鳴がする。
目元に滲んだ涙を指先で拭いながらシャルドルートは言った。
その途中、シャルドルートの瞳に少し気になるものが映った。
「ニャルこれ……ゲホッ……どうした…?」
「ンニャウ?」
シャルドルートはその場にしゃがみ込み、心配そうに窓辺まで一緒についてきたニャルの体を近くで見る。
ほんの数センチほどではあるけれど、薄い被膜の翼を持ち上げた、その付け根あたりの鱗が、何枚か剥がれ落ちている。
そのせいでピンク色の血管の透ける白い皮膚がその部分だけ剥き出しだ。
「フィオと遊んでて……ごほっ…怪我でもした…?」
ニャルは首を横に振り、珍しく大きく翼をひろげてその部分を不思議そうに見つめている。
「とりあえず保湿剤で…ゲホっ、いいかな…。待ってな、取ってくるから」
咳の間隔はずいぶん開いてきた。
それでもまだ浅い呼吸を隠すように微笑んで奥の仕事部屋へと向かうシャルドルートの背中をニャルはじっと見つめる。
無意識にラグに擦り付けた尻尾から、また透明な鱗がパラパラと、古いラグの繊維に引っかかるようにして剥がれ落ちていた。
***
——翌朝。
一晩の雨を抱えた森は、白い霧に覆われていた。
朝だと言うのに霧のせいで薄暗い中、シャルドルートはまだ残る咳に肩を揺らしながらかまどの前に立つ。
鍋の中では白濁したスープが煮えていた。
フィオがこの家の前に、山のように置いてくれていたキノコを入れたスープだ。
咳のせいで昨夜はあまり眠れずに、どこかぼんやりとする頭のままスープに塩を入れていると、勝手口を外から誰かがノックした。
「ケホ……はい?」
サヴァンがいた頃は、調子の悪い森の動物たちが昼夜問わず押し寄せてきていた。
森の言葉のわからない魔法使いが跡を継いでからは、その数もぐっと減った。
そんな自分でも、まだ頼りにしてもらえることを嬉しく感じ、鍵は普段から開けたままの勝手口の扉を開く。
立っていたのはフィオだった。
今日は昨日と違って人の姿だ。
まだ少年の面影を残した顔に似合わない、大きくゴツゴツした手は、頭が地面につきそうなほど巨大な魚を、尻尾を掴んで提げていた。
「……おはよう」
フィオの顔、魚、またフィオの顔、の順で視線を運んだシャルドルートがそう言うと、フィオはどこか照れ臭そうに家の中から視線を逸らし、乾いて皮の捲れた唇を舐めた。
「アマルナ捕まえたんだけどさ……食う……?」
そういってフィオが手にした魚を持ち上げる。
まだ濡れたそれからは、ポタポタと水が滴り落ち、勝手口の外の乾いた土を濃く染めた。
「アマルナって……雨の夜にしか棲み処から出てこないっていう、あの?
へぇ……ゲホ、…初めて見た」
“初めて見た“の一言で、フィオの瞳に星が宿る。
「だろ?!きっと食った事ねぇんじゃないかと思って……うまいんだよそれ!」
「そうなんだ…ゴホッ……ありがとう。ニャルまだ寝てるけど……入りなよ……ごほっ…」
「お……おお。お邪魔します……」
シャルドルートは前も感じたけれど、人の姿で、家の中に入る時のフィオは龍の姿の時とはまるで別人のようだ。
緊張した面持ちのフィオをチラリと見てから、作業台の上にまな板を出す。
「ん」
顎でそこを指すが、フィオはポカンとしている。
「魚。…ゲホ……切るから、そこに置いて」
「え?……あ、ああ…。え?切る?また干すんじゃなくて??」
「魚は煮たら全部食べられるよ……ゲホっ」
フィオはシャルドルートのそんな説明の意味が今ひとつ理解できず、しばらく固まっていたが、とりあえず指示されるがままにまな板の上にアマルナを置いた。
シャルドルートの手慣れた手が、包丁を使ってまだ新鮮なアマルナの胴体をぶつ切りにしていく。
滑り気の強い魚だった。
「というか…なんで裏から来るんだよ。玄関から来なよ」
シャルドルートは手早くぶつ切りにしたアマルナを、包丁をまな板の上を滑らせるようにして、かまどにかけていたキノコスープの鍋に追加で入れた。
「や……前ここから入れてもらったから……え、入る時はこっちなんじゃねぇの?」
フィオは目を丸くして、今入ってきた勝手口のドアを振り返って見ている。
そんな様子に、シャルドルートは思わず笑ってしまった。
そのせいで、おさまりかけていた咳がまた喉の奥から迫り上がってくる。
「ゲホッ、ゴホッ…!ゴホッ……!」
「?!おいどうした大丈夫か?!」
慌てて駆け寄り、前のめりになったシャルドルートの顔を覗き込む。
咳が出ると言うことは気道だろうかと、シャルドルートの背中を恐る恐る撫でる。
人の姿のまま、他人の体に触れたのは初めてだった。
「ああごめん……ゲホっ…昔からなんだよ。
子供の頃に長時間黒い空気を吸ってたみたいで……
普段は平気なんだけど、疲れるとどうしても…ゲホ…ッ」
「はぁ?!お前スーパー薬剤師なんだろ、龍の卵産む薬なんてトンチキなもん作る前に、先にそれなんとかする薬作れよ…!」
「お師さんも色々やってはくれてたんだけど…こればっかりはどうしようもなくて……ゴホッ……ごめん、ほんと、大丈夫だから」
そういってシャルドルートは、自分の肩を掴み、頬に髪が触れるほど近くから顔を覗き込んできていたフィオの硬い胸板に指先をやり、軽く後ろに押しのけるようにして体を離した。
「そういやニャル、いつまで寝てるんだろうね……いつも鬱陶しいくらい早起きなくせに珍しい……ゲホ……ちょっと起こしてくる」
「……あ、ああ…」
そういってシャルドルートは隣室へ消えた。
扉が閉まる。
フィオはその扉をただ見つめていた。
勢いでシャルドルートに触れていた指先が、今頃その熱を思い出してジンジンする。
ふいに、隣室の扉の向こうから、短く裂けるような声が響いた。
「ニャル――!」
フィオの背筋が凍る。
今のは、呼びかけじゃない。
あれは、叫びだ。
フィオは慌てて扉に駆け寄った。




